第1回全国中等学校優勝野球大会
第1回全国中等学校優勝野球大会(だい1かいぜんこくちゅうとうがっこうゆうしょうやきゅうたいかい)は、1915年(大正4年)8月18日から8月23日まで大阪府豊能郡豊中村(現・豊中市)の豊中グラウンドで行われた全国中等学校優勝野球大会。毎年8月に開催されている全国高等学校野球選手権大会の第1回大会である[1]。 創設経緯20世紀初頭の関西地方では、朝日新聞大阪本社、大阪毎日新聞(現:毎日新聞大阪本社)などの新聞社が新聞拡販を目的に[2]、関西私鉄が沿線開発を目的に多くのスポーツ関連企画・イベントを創設しており[2][3]、本大会もそのひとつである[2]。 開催4ヵ月前に京都二中OBの高山義三(元京都市長)と小西作太郎(元朝日新聞社元常務、日本高等学校野球連盟顧問)が「今年の二中は強い。これならどこにも負けん。近県の中学を集めた大会をやろうや」「面白そうやな」などと話し、これを親しい朝日新聞記者に掛け合った[1]。関西中等大会の世話役だった早稲田大学の佐伯達夫(元日本高野連会長)も全国規模の大会開催を願い、旧制三高野球部長だった中沢良夫(同元高野連会長)らは朝日新聞の村山龍平社長に「野球を正しく育てるために全国大会を開くべきだ」と伝えた[1]。豊中グラウンドを所有していた箕面有馬電気軌道(現・阪急宝塚本線)も、有効活用策として全国大会開催を模索しており、創設までにこうした各方面からの働きかけがあった[1]。1911年(明治44年)当時、野球人気が過熱し、応援団の対立や不祥事などが起こったが、有用性を唱える考えを理解した村山社長が開催を決断した[1][4]。野球害毒論を唱えていた東京朝日新聞社(東朝)もその後は主張をトーンダウンさせ、全中等学校優勝野球大会の共催者として東日本各地での予選大会の主催・後援を行っていった[2]。 出場校の選定1915年7月1日に全国中等学校優勝野球大会の開催が告知された。地方大会で優勝した学校に全国大会出場資格を与えると規定されたが、大会初日となる8月18日まで日数に余裕がなく、加えて、大会主催者である大阪朝日新聞社(大朝)が紙面の大半を費やした広告や特集を組み、地方大会の主催や後援も行ったのに対し、1911年に野球害毒論を展開した東京朝日新聞社(東朝)はごくわずかな記事で済ませ、地方大会の主催や後援を一切行わなかったため[4]、西日本と東日本で地方大会のあり方が大きく異なることとなった。 東北では北海道(第5回大会まで東北)や青森県などで対校試合が禁止されており、秋田県の1校だけが参加を希望したが、予選なしの全国大会出場は認められないため、同県の他2校と臨時で行った試合が東北大会と見なされ[4]、無事2勝した参加希望校に全国大会出場資格が与えられた。なお、他の県から恨みを買ったとされるが[5]、東北大会について「本年は特に秋田市において希望校のみ予選試合を行う」と大朝が認めている[4]。関東では東朝の不関与もあって7府県を対象に関東大会を行う余裕がなく、同年3月に東京府の8校が参加して行われた、武侠世界社主催の東京都下野球大会が地方大会と見なされ、その優勝校に全国大会出場資格が与えられた[4]。北陸(甲信含む)では地方大会と見なすことが可能な四高主催の北陸野球大会の日程が全国大会と被ってしまい、日程の調整ができず全国大会を諦めることとなった[4]。東海では三重二中(参加校持ち回り)主催の第12回東海五県連合野球大会(6校参加)が東海大会と見なされた[4]。関西では美津濃商店主催の第3回関西学生連合野球大会の規模が大き過ぎるため、その一部が関西大会(8校参加)と見なされ、別途大朝主催の京津大会(11校参加)と兵庫大会(7校参加)が行われた[4]。山陰では両県対決となる試合が禁止されていたため鳥取県予選(4校参加)と島根県予選(2校参加)が行われ、大朝後援の山陰大会(両県予選勝者による決勝)が豊中グラウンドで行われた[4]。なお、関西大会の会場も豊中グラウンドだった。山陽では大朝主催の山陽大会(6校参加)、四国では高松体育会主催・大朝後援の四国大会(8校参加)、九州では抜天倶楽部主催・大朝後援の九州大会(8校参加)がそれぞれ行われた[4]。 参加校数は表向き71校となるが、高松体育会主催の四国大会において徳島県の参加希望5校を3校に絞る県予選のようなものが事前に行われており[6]、この「徳島県予選」敗退の2校を加えると73校となり、参加校数を73校とカウントしている資料も少なくない[7]。このような経緯から、全国71校あるいは73校の各代表10校が豊中グラウンドに集まり、第1回全国中等学校優勝野球大会が行われた。 それまで中学生の運動大会で全国大会といえば、ボートぐらいしかなく[8]、野球の全国大会は初めてで[8]、各校選手は胸を躍らせて大会に出場した[8]。開催を伝える朝日新聞社告には「各地方を代表せりと認むべき最優秀校を大阪に聘し、全国中等学校野球大会を行ひ」と書かれた[8]。 優勝校には優勝旗、銀メダル、選手にはスタンダード大辞典、50円図書切手、腕時計が、準優勝校には英和中辞典が、さらに1回戦の勝利校には万年筆が選手全員に贈られた。しかし大会終了後に、選手に数々の副賞を贈るのはどうかと議論が起こり、第2回大会からは優勝旗と参加メダルのほかは、土産として大阪名物の粟おこしが贈られるのみとなった[9]。 代表校
開催地当時の大阪府豊中市は、豊中駅前に10軒程度小さな民家が建つだけの淋しい田舎[8]。アクセス線となっていた箕面有馬電気軌道(現・阪急宝塚本線)は宝塚駅まで開通したばかりで[8]、市内電車のようなかわいい電車が、ゴットンゴットンと動き、ときたま、客を落としていく[8]。草ボウボウの荒れ地の草をむしり[1]、大きな石を取り除いて凸凹をならして拓き、石灰で白線を引いて豊中球場を作り上げた[8]。1周400メートルのトラックを持つ運動場で、グラウンドは右翼方面が狭い長方形の形状であった。外野は縄につるした幕[1]、網を張って[8]フェンス代わりにした[1][8]。ロープを張ってそれを境界線とし、ロープをノーバウンドで越えた場合は本塁打とした。網の外は元の草むらのため、ボールが網の外に出ると外野手はバッタを捜すように、草の根をかき分けボールを捜し歩かねばならない[8]。ボールが観客席に入ることも度々あったという。また、ホームからの距離は一番深いセンター側で100メートルだった。常設の観客席はなく、よしず張りの屋根で覆った丸太を三段程度に組んだ仮設スタンドを大会時のみ設置した[8][10][11]。観客数は、開催5日間で5,000人から10,000人程度と伝えられている[10]。アクセス線となっていた箕面有馬電気軌道の列車は、沿線がまだ市街化されていなかったため1両編成で本数も少なく、試合終了後豊中駅に殺到する観客が乗車口に溢れた。この輸送力の問題が、観客数が増加した第2回大会では致命的となり、翌第3回大会からは会場が鳴尾球場へ変更された。 開催まで当時の中学の野球部は予算が少なく[8]、大勢で地方から出て来て宿屋に泊まると宿泊費がかさみ赤字が出るため、開会式の2、3日前に現地入りした[8]。当然勝ち残ると宿費が高くつくため、野球部長やマネージャーは「早く負けてくれ」と悲鳴を上げたという[8]。当然負けたチームは速攻で郷里に帰らされた[8]。開幕戦に登場した鳥取中だけは1週間前に大阪入りしていた[8]。前年の定期試合で米子中(現・米子東高校、鳥取県)と松江中(現・松江北高校、島根県)が対戦したとき、当時の応援団は生徒でなく町のファンだったが、鳥取と島根は仲が悪いため、よく喧嘩をし、乱闘騒ぎがあった[8]。校長会の申し合わせにより、鳥取と島根の山陰の代表決定戦は大阪(豊中)で行った[4][8]。地元でやるとまた乱闘騒ぎが起きるに決まっている、それならいくら熱狂的でもわざわざ大阪までは押しかけてこないだろうという判断だった[8]。この関係で鳥取中は早く来すぎてお金がなく、大相撲の地方場所のように、お寺に宿泊[8]。一泊の費用を20銭に値切り、毎日、カボチャ、キュウリ、ナスの連続の食事だった[8]。大会初日の前夜、8月17日に大阪中之島の大阪ホテルで主催者側の大阪朝日新聞の招待による出場選手全員を集めた茶話会があった[8][12]。ここでアイス・コーヒーとサンドイッチが出されたが[8]、アイス・コーヒーやサンドイッチは、都会っ子の早稲田実業の選手たちは、場慣れしており、ガブガブ飲んでボーイにおかわりを請求したが[8]、田舎の中学生は貴重品のようにチビチビ飲んだ[8]。またサンドイッチは当時の田舎の中学生は見たことも聞いたこともなく、見た目から気味が悪く、そのまま手を付けず、帰りの堂島川に捨てようとしたという笑い話も残る[8]。 始球式開幕試合(先攻:広島中、後攻:鳥取中)の開始前、両チーム整列・礼の後に、朝日新聞社村山龍平社長が、羽織袴の和礼装でマウンドに立ち、ボールを投じた。ボールはまっすぐに捕手のミットに収まり、ストライクが宣告された。村山は、この日のために投球練習を重ねていたという。 なお、現在は始球式の投球はあくまでセレモニーであり、1回表の投手による投球を正式な第1球としてカウントしているが、2000年に発刊された「高校野球の100年」によると、始球式で村山により投じられた第1球がそのまま先頭打者である広島中の小田大助に対する「初球」としてカウントされ、その後小田は三振に打ち取られているが、訂正されなかったという。 また、投手として全国中等学校野球優勝野球大会における記念すべき第1球を投じた鳥取中の鹿田一郎は、後年NHKの取材に応じた際に試合の先攻・後攻はじゃんけんで決めたため、自分がそのような投手になったのは偶然だったと答えており、始球式の際には村山たちの後ろで緊張して立ち尽くしていたという[13]。また「礼に始まり礼に終わる」-今日続くホームベースをはさんで両チームがあいさつをする「試合前後の礼式」も開幕試合から行われた[12]。 開幕試合記念すべき開幕試合は同じ中国地方の広島中と鳥取中[1][8]。観客は約1,000人[1]、約500人[8]はほぼ男性で[8]、女性は2人[8]。一人は鳥取中の一塁手・松木啓治の大阪に嫁いでいたお姉さん[8]。もう一人は村山龍平の娘・村山於藤(村山藤子)[8]。ちょっとした田舎の祭ぐらいの賑わいを見せ、物売りが出てアンパン、ラムネ、氷などを売り歩き、綿アメ(電気アメ)も売られた[8]。当時はまだアイスクリームは西洋料理店へ行かなければ食べられない時代で[8]、氷が飛ぶように売れ、甲子園名物かちわり氷はこの第一回大会の開幕戦から売られていたという[8]。値段は一銭か二銭[8]。冷たくて直に持てないため、ハンカチを付けて五銭で売る商人もいた[8]。広島の方が人口も多く船便もあったため[8]。応援団も広島側が多かった[8]。鳥取側の応援団に鳥取出身で、和歌山県で蚊取り線香を売り出して成功していた事業家がいて、家族、親戚、会社社員を動員して「○○蚊取線香」と社名を大書きした旗を翻して応援し、翌年選挙に出て落選したことから、以降、宣伝と見られるような紛らわしい応援は禁止になった[8]。 広島中対鳥取中は、広島中が先制したものの逆転負け[14]。「広島軍の軍容に大打撃を与えたのは捕手田部の負傷であった(原文ママ)」といわれ[8]、田部の指の怪我が敗戦に影響した[8]。田部が付近の病院に担ぎ込まれたため、これをきっかけに各種スポーツ大会に救護班が設けられるようになったといわれる[14]。田部は大日本東京野球倶楽部の主将を務めた田部武雄の実兄[14][15]。広島は山陽の大都会に対して、鳥取は山陰の小都市という違いがあり、社会的、経済的にその他諸々の点で鳥取は劣っていたため[8]、スポーツで見返したことで、鳥取市民にとっては愉快の堪えない勝利となった[8]。鳥取中は次戦・和歌山中との一戦で、1点リードの9回表に和中の執拗なバント攻撃に一挙に7点を失い敗れた[8]。バントに対する練習は相当積んではいたが、実戦ではあまり経験がないため、[[内野手も思い切って前進できず[8]、逆上して暴投を連発した[8]。しかし鳥取市民は天下に鳥取の名を轟かした郷土チームを、英雄のように迎え、映画館の楽隊(当時の無声映画は映画館に楽隊を入れて伴奏していた)を先頭に立てて、市中行進をした[8]。 第1回大会に出場した代表校10校のうち、広島中(現・広島国泰寺高校)と三重四中(現・宇治山田高校)の2校だけが2024年まで100年以上、その後、全国大会の出場がない[16][17]。 試合ルール審判は球審と塁審二人のほかに陪審を置いた。陪審はネット裏で観戦し、問題が起こった時に3人の審判と協議をしたり、また試合後の総評を書く役目を任されていたが、翌年の第2回大会からは廃止となった[11]。 当時は公認野球規則、アマチュア野球内規、高校野球特別規則など、現在での当たり前の規則等が存在しなかった。その一つに監督のベンチ入りがあげられる。第13回大会ルール改正まで監督はベンチ入りが出来ず、指揮も直接執ることが出来なかった。その為選手がスタンドに座る監督へ指示を聞きに行ったが、度々試合が中断した。これが現在お馴染みとなった伝令の起源である[18]。 試合結果日程は今日に比べ、変則的に組まれていた。 1回戦
準々決勝
準決勝
決勝
大会本塁打その他の主な出場選手大会記録としてのエピソード
その他エピソード
脚注注釈出典
外部リンク |