笹下
笹下(ささげ)は、横浜市港南区東部の地名。現行行政地名は笹下一丁目から笹下七丁目。住居表示実施済み区域[5]。上大岡の南に位置し、東側と南側は磯子区に接する。 街概要笹下川・笹下釜利谷道路(旧金沢道)沿いに古くから開けた土地であり、明治時代には久良岐郡の中心として発展した。地域の盆踊りなどでは、「笹下よいとこ」というオリジナルの歌が流される事がある。 地名由来『武州久良岐郡地名考』や『日本城郭大系』によれば、笹下の地名は、間宮氏の出身地である近江国篠箇郷の地名由来であるとされる。笹下川の河川名由来も地名と同じく城に由来する。 地理笹下一・二・三丁目笹下川東側の南北に細長い地域で、東側は磯子区森が丘・森に接する。一丁目には、総戸数430戸の笹下台団地が1969年に完成した。二丁目の関宮山東樹院付近は江戸時代には高札場が置かれ、明治時代は郡役所などが置かれていた。現在、郡役所は住宅地となっている。北条実時の病を治した言い伝えの残る「鰻の井戸」が保存されている。 明治時代に石川楼と言う料亭が存在し、皇族が杉田梅林に観梅に行く際の休憩所としても利用されていた。環状2号の南側の三丁目には日下小学校があり、ファミリーレストランなどのロードサイド型店舗も点在する。 笹下四丁目磯子区洋光台一丁目から笹下四丁目に、間宮氏の居城である笹下城の主要部分が存在した。梅花山成就院の裏の丘頂上部一帯が本丸と伝わる。 江戸時代初期に間宮直元によって笹下間宮家の陣屋が洋光台1丁目の元笹下橋付近に置かれた。陣屋の門は成就院に移築され現存。幕末の鎌倉事件で実行犯として後から出頭した間宮一の墓も同寺に現存する。 笹下五丁目五丁目を東西に環状2号が貫き、通りの南側の丘の上には笹下中央公園がある。公園内は雑色杉本遺跡と言う縄文時代から古墳時代にかけての複合遺跡でもあり、環状2号線建設に伴う発掘調査により竪穴建物跡や土坑などが検出された[6]。教育委員会により発掘調査の概要と、公園地下に遺跡が保存されていることを示す説明看板が設置されている。 また、この公園は笹下城の出丸の一つの北見掃部屋敷跡で、切岸と犬走りが存在したともいうが、発掘調査結果は、城のような地形は自然の地形で、城跡や中世に属する遺構は発見されなかった[7][8]。 かつての雑色村であり、雑色町内会の名にその名残を留めている。 笹下六 - 七丁目笹下川西側の住宅地。北は港南区港南、南は磯子区洋光台、西は港南区日野中央の日野公園墓地に接する。 笹下七丁目から天照大神宮を経て横浜市立笹下中学校にかけての丘陵は笹下城の出城の松本城が存在した。この丘陵の天照大神宮付近には現在も「中の丸」の名が残り、丘の頂上部近く、桜道が交差する辺りは「陣が台」の地名が残り練兵場や有事の指揮所として機能していたと『日本城郭大系』や『久良岐郡地名考』等で考察されている。 六・七丁目の新興住宅地は、駅から遠く長らく交通が不便な場所であったが、2001年に江ノ電バスによる路線バスが開通した。 横浜市立笹下中学校や、鎌倉街道沿いの笹下港南中央通バス停などに笹下の名を冠した施設が見られるが、前者は港南区港南五丁目、後者は港南区港南中央通にあり、現在の笹下の町域からは外れる。磯子区の田中・栗木・峯・矢部野(現在の洋光台)は上笹下地区と呼ばれ、町内会名などに名前が残る[9] 面積面積は以下の通りである[2]。
地価住宅地の地価は、2024年(令和6年)1月1日の公示地価によれば、笹下6-25-7の地点で17万円/m²となっている[10]。 歴史発掘された雑色杉本遺跡などから、縄文時代より人が暮らしていたと考えられている[11]。 元は磯子区南部から現在の港南区の内旧武蔵国域に及ぶ広範囲が杉田郷だったと考えられている。間宮氏の入部後に笹下郷が分離、天文年間(1532年 - 1555年)に、笹下村・関村・雑色村・松本村に分かれた。関村は現在の笹下二丁目を中心とした地域、雑色村は四 - 七丁目および三丁目の南側、松本村は一丁目北側と港南の一部に概ね相当するが、飛地や入会地が多く、境ははっきりしていない。 天文年間には領主の間宮豊前守信元が、現在の笹下四丁目を中心に笹下城を築城した。 『新編武蔵風土記稿』によると、江戸時代中期には関村では34戸[12]、雑色村42戸[13]、松本村64戸[14]が暮らしていたと記されている。東京・横浜と三浦半島を結ぶ街道沿いにあり、明治時代には郡役所や警察署、登記所、料亭などがおかれ、久良岐郡の行政や商業の中心地となったが、横浜市編入により郡役所が閉庁し、警察署の統廃合に加え根岸湾沿いに国道ができると店舗が減少し、元の農村に戻っていった。明治中期ごろからは花卉の販売を行う農家が多かった。江戸時代から明治時代の杉田から笹下一帯は、杉田間宮家が植林した杉田梅林が観梅の名所となった。 沿革
町名の変遷
世帯数と人口2024年(令和6年)8月31日現在(横浜市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
人口の変遷国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷国勢調査による世帯数の推移。
学区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2023年4月時点)[22]。
事業所2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[23]。
事業者数の変遷経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷経済センサスによる従業員数の推移。
交通町内を南北に走る笹下釜利谷道路と東西に走る環状2号線が、町の中央部の打越交差点で交わる。町内に鉄道駅はなく、上大岡駅から笹下釜利谷道路を通り上中里団地や洋光台駅、横浜駅から上大岡駅経由で栗木を結ぶ江ノ電バスの利用が主となる。西部の六・七丁目は、上大岡駅から港南区総合庁舎前・桜道経由で洋光台駅を結ぶ江ノ電バス(こまわりくん)が利用できる。 その他日本郵便警察町内の警察の管轄区域は以下の通りである[26]。
脚注
参考文献
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