美甘村
美甘村(みかもそん)は、かつて岡山県の北部に位置した村である。真庭郡に属した。現在は合併により真庭市となっている。真庭市の中でも北西部にある中山間地域である。 沿革1889年(明治22年)真島郡の美甘村・鉄山村・黒田村・田口村・延風村が合併して美甘村となり、それぞれの地区が大字になる。1900年(明治33年)真島郡と大庭郡が合併したため、真庭郡の所属となる。その後2005年(平成17年)平成の大合併の折、真庭市となる。 地理岡山県の北部、真庭市の中部に位置し美甘・鉄山・黒田・田口・延風の5つの地区から成った[1]。総面積は約67㎢。おもに新庄川、出雲街道、国道181号線に沿って町が開けている。西には真庭郡新庄村が隣接している。総面積の約90%が林野で占められていた。 歴史美甘の名がはじめて文献に見られるのは、平安時代初期に書かれた『和名抄』。その中に「美甘」「美加茂」と記されている[2]。平安時代の終わりには荘園美甘庄が成立。美甘、黒田、田口が属していた。ちなみに鉄山は建部庄に属していた。藤原兼実の日記『玉葉』に、その名が書かれている[2]。 1221年(承久3年)鎌倉幕府に反抗した後鳥羽上皇が隠岐に配流された際、そこへ向かう道中に美甘も入っていたと言われる[2]。戦国時代には、美甘が山陰へ通じる山陽側の要衝地だったため、勝山高田城の先鋒的な役割を担っていた。ただそのため、緒戦において常に戦火の被害を被っていた[2]。 1646年(正保2年)美作国大名の森忠政により、美甘地域の地秤りが行われた[2]。また1651年(慶安4年)美甘川の南にあった町屋敷を街道筋(後の出雲街道)のある北側に移すなど、森藩は1652年(承応元年)から3年かけて宿場をつくりあげたと言われている[3]。その後、1666年(寛文6年)頃から街道筋が出雲街道と呼ばれはじめ、道の整備が進み、商人も往来するなど、美甘が宿場町として栄えた[2]。1792年(寛政4年)表向きの宿屋がなかった美甘に宿屋がしたいという者が集まり、宿屋株を結成。23軒の宿屋ができた。ちなみに当時、通りには40軒ほどあり、そのうち23軒が宿屋になったと言われている[2]。 1889年(明治22年)真島郡の美甘村・鉄山村・黒田村・田口村・延風村が合併して美甘村となる。 歴代村長
おもな災害・火事1675年(延宝2年)、延宝の大火に見舞われ、美甘の町並みが一軒を残してすべて廃塵に帰した[2]。また、1731年(享保15年)44戸が焼失する火事が起こった。火元の塚谷屋は造り酒屋などの盛んな商業活動により、美甘の町を賑やかな宿場に代えた立役者であった[2]。1782年-1783年(天明2-3年)は全国的な飢饉。1785年(天明5年)には美甘で大洪水が起こり、1786年-1787年(天明6-7年)にはまた大飢饉に見舞われている[2]。 その影響もあり、黒田地区は存続の危機を迎え、庄屋などが救済に奔走している。1802年(享和2年)たたら師の資本が入り、黒田地区を中心にたたらが盛んになった。黒田地区の百姓は鉄穴流しによる砂鉄をたたらにしたり炭焼きをしたり経済が立ち直った。ちなみに田口地区は他の地域と異なり、水源が弱いために、夏の灌漑に苦労したと言われる。そのためこの地区にだけ雨宮様という雨乞いの神様が祀られている[2]。 1804年(享和4年)にも享和の火災と呼ばれる美甘が全焼する火事に見舞われている。1893年(明治26年)10月、暴風雨と洪水が起こり、死者が出ている。1909年(明治42年)には美甘尋常小学校の本校舎が全焼している[2]。 産業江戸時代中期、宿場町を中心に美甘村の株はおもに木地問屋株、鉄問屋株、造酒株、馬株などがあった[2]。漆、桑、茶栽培も盛んであった。 江戸時代後期になると、他の地域から資本が流れるなど美甘はたたら製鉄が最も盛んな時代を迎える。鉄穴の跡が多く残っており、中でも黒畑奥・大俺・平島奥・羽仁の竜神山を中心とする広大な鉄穴流しの跡が当時を物語っている。また山腹に水路を巡らし、鉄穴流し場まで水を引いた鉄穴井手が各所に見受けられる[2]。 教育
観光・文化おもな名所・旧跡
文化
特産
出身者
おもな施設
脚注関連項目外部リンク
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