花岡 菊子(はなおか きくこ、1910年9月11日 - 1984年6月12日)は、日本の女優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]。出生名は瀧川 幾代(たきがわ いくよ)、結婚後本名は松崎 幾代(まつざき いくよ)[2][3][7]。1920年代末の松竹蒲田撮影所の喜劇女優として知られ、戦後は新東宝に所属、脇役俳優として映画に多く出演した[2][3]。
人物・来歴
松竹キネマの時代
1910年(明治43年)9月11日、静岡県静岡市寺町(現在の同県同市葵区駿河町)に生まれる[2][3][7]。『一九三三年版 オール松竹俳優名鑑』(蒲田雑誌社)には「1911年9月1日出生」との旨の記述がみられる[1]。
旧制小学校卒業後、旧制・静岡精華高等女学校(現在の静岡大成高等学校)に進学、1928年(昭和3年)3月、同校を卒業する[1][2][3]。東京に移り、同年10月1日付で松竹蒲田撮影所に入社、同年11月25日に公開されたサイレント映画『飛行機花婿』(監督佐々木恒次郎)で映画界にデビューした[1][2][3]。同作で主演した斎藤達雄とはコンビとなり、同じ佐々木恒次郎監督による『珍客往来』(1929年)や『裏町の大将』(同年)、清水宏監督による『村の王者』等に主演、多くのコメディ映画に出演した[2][3]。
1929年(昭和4年)1月、大幹部に鈴木伝明、幹部に岡田時彦、高田稔、結城一朗、斎藤達雄、龍田静枝、筑波雪子が昇進したときに、山内光、浪花友子、青山万里子、及川道子、川崎弘子、谷崎龍子とともに、満18歳で準幹部に昇進した[12]。同年8月1日に公開された清水宏監督の『陽気な唄』に助演、記録の上では、同作で初めて結城一朗と共演したことになる[4][5]。1930年(昭和5年)1月26日に公開された西尾佳雄監督の『スポーツ精神』、同年2月8日に公開された佐々木恒次郎監督の『黒百合の花』、同年2月22日に公開された清水宏監督の『紅唇罪あり』と立て続けに結城とともに主演、ないしは恋人役を演じた[2][4][5]。1933年(昭和8年)8月24日に公開された清水宏監督の『旅寝の夢』に助演したのを最後に、松竹下加茂撮影所へ異動、時代劇に転向した[4][5]。
1935年(昭和10年)初頭、結城も追って下加茂に異動になり、同年6月27日に公開された衣笠貞之助監督の『雪之丞変化 第一篇』で、数年ぶりに共演している[4][5][13]。翌1936年(昭和11年)9月に、6歳上の俳優・結城一朗(本名松崎龍雄、1904年 - 1988年)と結婚、その後、2男1女をもうけた[2][3][14]。1941年(昭和16年)には、夫婦ともども、松竹を退社した[4][5][14]。
東宝争議を経て新東宝へ
1年ほどのブランクを経て、東京の東宝映画(現在の東宝)に移籍、1943年(昭和18年)1月3日に公開された滝沢英輔監督の『伊那の勘太郎』に出演している[4][5]。以降、第二次世界大戦終結後も、東宝に所属した[4][5][7][9]。終戦直後の1945年(昭和20年)12月、東宝の高勢実乗の一座に加わり、吉本興業直営の京都のヤサカ劇場で、舞台実演『花嫁入来』に出演した記録が残っている[15]。
1947年(昭和22年)3月、東宝争議から生まれた新東宝映画製作所(のちの新東宝)に参加、同年5月6日に公開された、同じく新東宝に参加した萩原遼監督の『大江戸の鬼』や、同年6月10日に公開された、同じく斎藤寅次郎監督の『見たり聞いたりためしたり』に出演する[4][5]。以降、同社が倒産するまで、同社に所属して脇役俳優を続けた[4][5]。その後は、『特別機動捜査隊』等、映画会社が製作するテレビ映画にも多く出演した[10]。
満69歳を迎えた1979年(昭和54年)、マツダ映画社が製作した『地獄の蟲』(監督山田達雄)に夫婦ともども出演し、戦前以来の映画共演となった[4][5][16]。
1984年(昭和59年)6月12日、死去した[2][3]。満73歳没。夫の結城は、1988年(昭和63年)9月15日、満84歳で死去した[17]。
フィルモグラフィ
すべてクレジットは「出演」である[4][5]。公開日の右側には役名[4][5]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[11][18]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。
松竹蒲田撮影所
特筆以外すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、すべて配給は「松竹キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画である[4][5]。
松竹下加茂撮影所
特筆以外すべて製作は「松竹下加茂撮影所」、すべて配給は「松竹キネマ」(のちに松竹)、特筆以外すべてトーキーである[4][5]。
東宝
特筆以外すべて製作・配給は「東宝」、以降すべてトーキーである[4][5][7]。
新東宝
特筆以外すべて製作・配給は「新東宝」である[4][5][7]。
- 『大江戸の鬼』 : 監督萩原遼、製作新東宝、配給東宝、1947年5月6日公開 - 役名不明、99分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『見たり聞いたりためしたり』 : 監督斎藤寅次郎、1947年6月10日公開 - お欣
- 『浮世も天国』 : 監督斎藤寅次郎、製作新東宝・吉本プロダクション、配給東宝、1947年9月23日公開 - 質屋のお内儀
- 『愛よ星と共に』 : 監督阿部豊、製作新東宝、配給東宝、1947年9月24日公開 - 女給小夜子
- 『ぼんぼん』 : 監督佐伯清、製作新東宝、配給東宝、1947年11月21日公開 - 女中お春
- 『誰がために金はある』 : 監督斎藤寅次郎、製作新東宝、配給東宝、1948年1月13日公開 - 大家の妻
- 『流星』 : 監督阿部豊、製作新東宝、配給東宝、1948年5月3日公開 - 役名不明、82分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『平次八百八町』 : 監督佐伯清、製作新東宝・新演伎座、配給東宝、1949年8月8日公開 - お仙、30分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『鍋島怪猫伝』 : 監督渡辺邦男、製作新東宝、配給東宝、1949年8月23日公開 - 女房お粂
- 『銀座三四郎』 : 監督市川崑、製作新東宝・青柳プロダクション(青柳信雄)、配給東宝、1950年3月30日公開 - 待合のおかみ、改題『銀座の猛者』が64分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『群盗南蛮船 ぎやまんの宿』[11](『群盗南蛮船』[4]) : 監督稲垣浩、1950年6月13日公開 - おまさ、94分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『母情』 : 監督清水宏、1950年6月28日公開 - 役名不明、83分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『桃の花の咲く下で』 : 監督清水宏、1951年3月24日公開 - 隣室の内儀、73分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『銀座化粧』 : 監督成瀬巳喜男、製作伊藤プロダクション(伊藤基彦)、配給新東宝、1951年4月14日公開 - 役名不明、87分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『無国籍者』 : 監督市川崑、製作昭映プロダクション・東横映画、配給東映、1951年4月14日公開 - キヨ・ホテルの女
- 『無宿猫』 : 監督志村敏夫、1951年6月29日公開 - 松崎つる
- 『夜の未亡人』 : 監督島耕二、1951年7月20日公開 - 女給君子
- 『月よりの母』 : 監督阿部豊、1951年8月24日公開 - 八重
- 『さすらいの旅路』[11](『さすらいの航路』[4]) : 監督中川信夫、1951年11月9日公開 - 木村やす子、82分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『芸者ワルツ』 : 監督渡辺邦男、1952年10月2日公開 - 六郷とし
- 『隠密若衆』 : 監督渡辺邦男、1955年2月20日公開 - 左膳宅の婆や
- 『爆笑青春列車』 : 監督斎藤寅次郎、1955年2月28日公開 - 妻里枝
- 『森繁の新入社員』 : 監督渡辺邦男、1955年3月21日公開 - 新田ふみ
- 『番場の忠太郎』 : 監督中川信夫、1955年3月29日公開 - 女中ふみ、86分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『春色大盗伝』 : 監督冬島泰三、1955年4月11日公開 - 女房おきく
- 『のんき裁判』 : 監督渡辺邦男、1955年4月24日公開 - 田崎検事の細君
- 『緋牡丹記』 : 監督野村浩将、1955年5月10日公開 - 下宿のおばさん
- 『母の曲』 : 監督小石栄一、1955年5月15日公開 - すき焼屋の女将、98分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『狼』 : 監督新藤兼人、製作近代映画協会・独立映画、配給独立映画、1955年7月3日公開 - 役名不明、128分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『森繁のやりくり社員』 : 監督渡辺邦男、1955年7月5日公開 - 芸者
- 『三等社員と女秘書』 : 監督野村浩将、1955年8月18日公開 - 役名不明、78分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『森繁のデマカセ紳士』 : 監督渡辺邦男、1955年9月6日公開 - 日高夫人
- 『若夫婦なやまし日記』 : 監督田尻繁、製作東京映画、配給東宝、1955年9月13日公開 - 女房お竹
- 『名月佐太郎笠』 : 監督冬島泰三、1955年11月1日公開 - おげん
- 『風流交番日記』 : 監督松林宗恵、1955年11月8日公開 - その女房、91分尺で現存(NFC所蔵[11])
- 『関の弥太ッぺ』 : 監督渡辺邦男、1955年11月22日公開 - 市川喜久之助
- 『息子一人に嫁八人』 : 監督志村敏夫、1955年12月6日公開 - 三沢さだ
- 『若人のうたごえ』 : 監督毛利正樹、1955年12月27日公開 - 「いろは」の女将
- 『競艶お役者変化』 : 監督加戸野五郎、1960年1月9日公開 - お新
- 『危険な誘惑』 : 監督小林悟、製作富士映画、配給新東宝、1960年1月23日公開 - 厚生施設園長
- 『美男買います』 : 監督曲谷守平、製作富士映画、配給新東宝、1960年2月21日公開 - 伊藤千代
- 『爆発娘罷り通る』 : 監督近江俊郎、製作富士映画、配給新東宝、1960年5月17日公開 - 赫子の母
- 『続々べらんめえ芸者』(『続続べらんめぇ芸者』[6]) : 監督小石栄一、製作東映東京撮影所、配給東映、1960年8月7日公開 - 踊りの師匠
- 『風流深川唄』 : 監督山村聡、製作東映東京撮影所、配給東映、1960年9月13日公開 - お久
- 『裸の谷間』 : 監督小林悟、製作富士映画、配給新東宝、1960年9月17日公開 - もと後家
- 『弥次喜多珍道中 中仙道の巻』 : 監督近江俊郎、製作富士映画、配給新東宝、1960年12月9日公開 - 庄屋の妻
- 『暴力五人娘』 : 監督曲谷守平、1960年12月27日公開 - 保坂学長
フリーランス
下記の通りである[4][5][7]。テレビ映画も含む[10]。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
花岡菊子に関連するカテゴリがあります。