諏訪 彰(すわ あきら、1919年11月18日 - 1999年3月12日)は、日本の地震学者・火山学者。長く気象庁に勤務し、地震観測所長などを務めた[1]。
経歴
長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)に[1]、諏訪藩主・諏訪氏の分家筋に生まれる[2]。旧制諏訪中学校(長野県諏訪清陵高等学校の前身)で三澤勝衛の教えを受け、三澤が顧問であった理科クラブの部長を務めた[3]。松本高等学校理科甲類を経て、東京帝国大学理学部地質学科に学ぶ[2]。1944年に卒業して兵役に就き、戦時中は技術将校として日本海沿岸の石油探査にあたった[2]。
戦後、1945年12月に中央気象台(気象庁の前身)に採用されて藤原咲平の薫陶を受け、松代大本営跡に地震観測施設を設けた中央気象台松代分室の開設などに関わった[2]。1950年から1951年にかけての伊豆大島・三原山の大噴火をきっかけに火山研究に注力するようになり、中央気象台に新設された火山係の係長となった[2]。また、一般への火山に関する知識の普及に取り組み、教育映画『火山三原山』や『浅間山』の制作に関わった[2]。
1957年、ハワイ火山観測所 (Hawaiian Volcano Observatory)、カリフォルニア大学に派遣され、当時日本にはなかった観測研究施設の調査にあたった[2]。この前後、諏訪は日本の火山観測体制の充実を主導した[2]。
1968年に盛岡地方気象台長、1969年に気象庁地震課長となった[4]。
以降1980年に定年退職するまで気象庁に勤務した[2]。
おもな著書
主要論文
脚注
- ^ a b コトバンク・諏訪彰・20世紀日本人名事典
- ^ a b c d e f g h i 田中康裕「本会名誉会員 諏訪 彰さんの逝去を悼む」『火山』第44巻第2号、日本火山学会、1999年4月30日、109-110頁。 NAID 110003041158
- ^ 斎藤功「序」(PDF)『地域研究年報』第27号、筑波大学人文地理学・地誌学研究会、2005年、2015年1月31日閲覧。
- ^ 信濃毎日新聞社 編「臨床的な地震予知 諏訪彰」『百人百話』信濃毎日新聞社、1972年2月20日、267-269頁。
関連項目