高田信一
高田 信一(たかた しんいち 1920年1月24日[1]または1921年11月5日[2] - 1960年1月16日[1][2])は、日本の作曲家、指揮者である。元広島大学教授。日本交響楽団(現在のNHK交響楽団の前身)、東京フィルハーモニー交響楽団の指揮者を務めた。 生涯幼少期から青年期実業家の息子(4人兄弟の長男)として、1920年(大正9年)に東京府荏原郡大森町(現在の東京都大田区)で生まれた。1926年(大正15年)に成城小学校(現在の成城学園初等学校)に入学、8歳から上野耐之に音楽の初歩を学び、1932年(昭和7年)に成城高等学校(現在の成城学園中学校高等学校)尋常科に入学後は、12歳から藤田喜与子にピアノを、16歳から作曲を長谷川良夫に師事した。 東京音楽学校時代1937年(昭和12年)に東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)本科に入学、橋本国彦、下総皖一、ヘルムート・フェルマーに作曲を、水谷達夫にピアノを師事した。本科を卒業後、1941年(昭和16年)に研究科に進学し、1943年(昭和18年)3月に研究科を終了した。在学中の1941年11月、第10回日本音楽コンクール作曲部門(管弦楽曲の部)で序曲「桜」が第2位に入賞した。また、同年から「成城合唱団」の指揮者を20年間務めた。 東京音楽学校卒業後1943年(昭和18年)12月に日本交響楽団(日響)の専任指揮者に就任する。同月行なわれた日響の定期演奏会で、『主題・変奏曲と遁走曲』がジョゼフ・ローゼンストックの指揮で演奏された。 1948年(昭和23年)、平和の鐘建立会管弦楽懸賞に、交響詩『平和への頌歌』が次席入選する。1950年(昭和25年)のNHK25周年記念管弦楽懸賞に『交響的二楽章』が佳作入選する。 1951年(昭和26年)9月まで日響の指揮者を務めた後、東京フィルハーモニー交響楽団専任指揮者を務めたが、1960年(昭和35年)1月、病のため39歳で急逝した。 作品1956年(昭和31年)4月時点での作品一覧に基づく[3]。 管弦楽曲
室内楽曲
独奏曲
合唱曲
独唱曲映画音楽国民歌自治体歌校歌・学歌
脚注出典参考文献
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