鬼頭梓
鬼頭 梓(きとう あずさ、1926年1月15日 - 2008年8月20日)は、日本の建築家[1]。 経歴1926年(大正15年)、東京府北多摩郡武蔵野村吉祥寺に生まれる[2]。東京府立一中を経て旧制第一高等学校に進み、同校在学中に戦争による生活の全面的な破壊を目の当たりにし、「ごく当たり前の生活の根拠地を作る」ことへの関心から建築を志す[3]。1950年(昭和25年)、東京大学第一工学部建築学科卒業後、前川國男建築設計事務所に入所[2]。同事務所では神奈川県立図書館・神奈川県立音楽堂、国立国会図書館、世田谷区民会館・世田谷区役所、国際文化会館等を担当。「人間の生活の展開」としてのプラン=平面計画を非常に重要視する前川の姿勢から多くを学ぶ[4]。また国際文化会館図書室長である福田なをみから、「フラット・フロア、ノー・ステップ」と繰り返し言われたことにも影響を受けた[4][5]。 1964年(昭和39年)に退所し、鬼頭梓建築設計事務所を設立[2]。独立後最初の本格的な仕事となる東京経済大学図書館(1968年、構造家の木村俊彦との協働)は建築界からだけでなく図書館界からも高く評価される[6]。これを契機に公共図書館および大学図書館の設計の特命依頼が相次ぐことになり、特に本格的な施設の建設よりも移動図書館や分館による地道な活動を先行させ注目を集めていた日野市立図書館の館長・前川恒雄との出会いから生まれた日野市立中央図書館(1973年)[7][8]は、日本の公共図書館の歴史を決定的に方向付けるほどの影響を多方面に及ぼす。この重要作以降も鬼頭は図書館を民主主義に不可欠な知識・情報へのアクセスを具体的に保障するために構築されるべき「すべての人々へのサーヴィスのシステム、変化への期待にみちた活動的な場」と考える立場から、「身近で平明で開放的な空間」の実現を一貫して追求する。「図書館建築のパイオニア」とも呼ばれるようになり、函館市中央図書館(2005年)まで、30を超える図書館の設計を手がける[9]。 他方で、前川を引き継ぐ形で建築家の職業倫理について機会あるごとに発言。設計とは建築独自の秩序とそれとは本来無関係な生活の間に有機的な関係を作り出す過程であると説くとともに「デザインの自由は、常にクライアントと社会のために行使されるという限界を超えることは許されない」と強調し、現代建築における(技術的可能性の拡大によって助長されている)造形的関心を優先させる傾向や人間性の後退に繰り返し強い懸念を表明する。建築家職能運動においてつねに指導的な役割を担い、JAA(旧・日本建築家協会)時代より日本建築家協会の要職を歴任。1992年(平成4年)から1996年(平成8年)までは同協会会長[10]。 鬼頭梓建築設計事務所は1969年(昭和44年)に有限会社に改組していたが、2007年(平成19年)に有限会社を解散、個人事務所として登録[2]。 2008年(平成20年)8月20日、東京都武蔵野市にて死去82歳没[11]。葬儀は自ら設計したキリスト品川教会で行なわれた。 展覧会鬼頭梓の建築に焦点を当てた初の展覧会が、2023年(令和5年)3月22日から6月10日まで、京都市の京都工芸繊維大学美術工芸資料館で開催された[9][12]。企画・監修者の一人は前川國男建築設計事務所に所属していた松隈洋神奈川大学教授である[9]。 主要作品
著作
共著
論考鬼頭梓の論考は、『図書館建築作品集』(1984)、『私の図書館建築作法』(1989)、『建築家の自由』(2008)等にまとめられている。このうち『建築家の自由』に再録されている論考は次のとおり。
受賞『建築家の自由』巻末「鬼頭梓・年譜」記載の受賞は次のとおり[2]。
家族国際基督教大学図書館の元館長・鬼頭當子(まさこ)は妻[10]。當子は1951年に慶應義塾大学文学部に設置されたジャパン・ライブラリー・スクール(図書館学科、現在の図書館・情報学専攻)[34][35]の第1期生で、種々の図書館へ就職した同期生には東京経済大学図書館の多田二郎などがいた[36]。吉祥寺の鬼頭の自宅にはこの第1期生たちがしばしば集い、図書館現場について喧々諤々の議論を交わし、端で聞いていた鬼頭は「すごくいい勉強になった」と語っている[36]。 脚注
外部リンク
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