黒木克昌
黒木 克昌(くろき かつまさ、1973年1月9日 - )は、日本の男性元プロレスラー、空手家(大道塾空道参段)。東京都江東区出身。血液型AB型。 一般には闘龍門JAPAN及びDRAGON GATE所属時のリングネームはマグナムTOKYO(マグナムトーキョー)として知られてミスター・エゴイスト(正規軍時代はミスター・バイアグラ)、踊る銃弾戦士などと称された。ギミック上のモチーフになっているのはAV男優やストリッパー。ダンスをしつつ観客が、お札を黒木のコスチュームに挟む入場シーンが有名であった。マグナムTOKYOのリングネームはAV男優のマグナム北斗が由来。 経歴プロレスプロレス入り前は父の会社でサラリーマンとして働いていたが、ウルティモ・ドラゴンに憧れておりウルティモが当時所属していたWARに頻繁に出入りする(ウルティモ曰く、「勝手に入ってきた」らしい)。この頃からウルティモに何度も弟子入りを懇願していたが拒否され続ける。しかし、遂に弟子入りを認められて闘龍門の1期生として入門。同期の大島伸彦(現:CIMA)、諏訪高広(現:SUWA)、藤井達樹(現:ドン・フジイ)らと共にメキシコへ渡り、1997年5月11日にアレナ・ナウカルパンで大島を相手にプロレスラーデビューを果たす。その後、メキシコのインディー団体や、みちのくプロレスを経由し1998年にはアメリカのメジャー団体であったWCWに参戦。同じダンサーであるギミックとして活躍していたディスコ・インフェルノとアレックス・ライトのタッグチーム「ダンシング・フールズ」に無理やり加入するも邪険にされてしまい、常に試合前にリングから追い出されるか試合に出場しても秒殺されるかという損な役割を担っていた。闘龍門JAPANが設立されると、日本へ凱旋帰国を果たす。旗揚げ戦でマグナムは試合後、「夢を捨てなければ鞄持ちからでもプロレスラーになれます!!」と発言した。以降はCIMAと並ぶ団体の二枚看板として活躍する。長らく正規軍のリーダーを務めていた。 2002年にM2Kを脱退した望月成晃が正規軍と共闘すると、マグナムもこれに反発する。同時にM2Kのメンバーから勝手に入場時にバックダンサーを務められるなど、執拗な勧誘を受け、その2代目リーダーに就任しヒールに転向した。「ミスター・バイアグラ」というニックネームが「ミスター・エゴイスト」へと変化し、マグナムも相手に対してツバを吐くなど、傍若無人なファイトを展開するようになる。ユニットがDo FIXERに発展してからもマグナムはそのリーダーを続けるが、2003年にCIMAからUDG選手権王座を奪取したあたりから、徐々に自身・ユニット共ベビーフェイス化が進むと、王座陥落後は「自分探しの旅に出る」と告げて欠場した。後、みちのくプロレスの新崎人生と共にお遍路さんの格好をして四国を回った。 2004年、団体がDRAGON GATEとして闘龍門から独立し、これに追随、統括本部長を兼任。 2005年、Do FIXERリーダーの座を斎藤了に譲り、自らは兄弟ユニットPos.HEARTSをプロデュースしたり天龍と十番勝負を行った。初期の頃は比較的引き締まった体でタイツのみの格好だったが、統括本部長となったあたりから徐々に体を隠すような格好となっていった。 2006年、マグナムはWARに縁のあるメンバーを集め、ルネッサンスを結成。IJタッグ王者決定トーナメントに望月と出場するも、準決勝でCIMAの逆水平チョップを受けて眼窩底を骨折。試合に勝利したが、決勝戦はドン・フジイを代打に送り欠場した。それに伴い、天龍との龍魂十番勝負はマグナムの二勝三敗で終了し、残りの試合は他のルネッサンスメンバーが引き継ぐ形となり継続していくことになった(結果は天龍の全勝)。マグナム自身も眼窩底骨折と体調不良で長期欠場余儀なくされ、その理由から団体に退団を申し入れていた。マグナムは2007年4月9日に記者会見でDRAGON GATEを退団し、他団体への参戦等は行なわず「限りなく引退に近い形」であると発表された。 2008年6月22日から9月12日まで、かつて所属していた大道塾への恩返しとして大道塾コロンビア支部への派遣指導員として旅立っていったことが大道塾の公式サイトにて発表された。11月20日、マグナムと縁の深い天龍が主戦場とするハッスル後楽園大会に100の顔を持つ男「アラン黒木」の名で登場して11月22日のハッスル水戸大会で約2年振りの復帰戦を行った。 2009年3月25日の後楽園ホールで、モンスターHGに一騎討ちを要求された際にマグナムTOKYOとして参戦することを発表し、4月23日の後楽園ホールにてモンスターHGを相手にマグナムTOKYOとして遂に復活。ダンサー2人を従えて3年ぶりのダンスも披露した。同年、酒類量販チェーン「なんでも酒やカクヤス」のなんでも宣伝部長として起用されている。 以降は空手に専念し、プロレス活動に関しては明確な引退宣言はされていない。 2025年1月13日の後楽園ホールでの黒潮TOKYOジャパン15周年記念興行「キングオブスタイルストロング」第2試合後に登場してハッスル時代の戦友でもある黒潮TOKYOジャパンとリング上でダンスを披露した[1]。 空手2010年1月10日、江東区東大島駅前に「大道塾江東支部 黒木道場」を開き、支部長兼師範を務める[2][3]。「現代版寺子屋」を目指すと明言している。 2011年3月、大道塾開催の第1回空道南アジア選手権大会のためインド遠征[4][5]。 2015年2月、大道塾江東支部の消滅に伴い大道塾から独立し「総合武道 絆會 現代護身 黒木道場」を設立、師範となる[6]。増岡厳が顧問を務め、道場は太極拳教室[7]、ベリーダンス教室[8]、クリパルヨガ[9]の練習場にもなっている。 2020年現在、公式サイトが閉鎖。「黒木道場」常設道場も閉鎖となっている。 得意技空手で培った蹴り技と、AV男優ばりのエゴイストな荒々しいファイトが売りである。余り知られてはいないが、ラリアットも極まれに使用していた。
タイトル歴
入場曲
エピソード
脚注
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