『エドワード三世』(エドワードさんせい、The Reign of King Edward the Third)は、ウィリアム・シェイクスピア作と言われることが多いエリザベス朝演劇の戯曲。最初の出版は1596年で、作者は匿名だった。しかし、18世紀になって一部をシェイクスピアが書いたのではないかという提起がなされ、論争となった。
現在では少なくとも一部はシェイクスピアによって書かれているという説が主流である[1]。共著者の候補としてはトマス・キッドがあげられている。
シェイクスピアのほとんどの歴史劇同様、ラファエル・ホリンシェッドの『年代記(Chronicles)』が材源で、他に、ジャン・フロワサールの『年代記』も使われている。 ロジャー・プライアーは、この芝居の著者はハンズドン卿の蔵書にあったフロワサールを読んでおり、ハンズドンによる注釈の書き込みを引用している可能性があると主張している[2]。一方、シェイクスピアが書いたとされる、エドワード三世がソールズベリー伯爵夫人に言い寄る場面は、ウィリアム・ペインター(William Painter)の『快楽の宮殿(Palace of Pleasure)』の中の『ソールズベリー伯爵夫人(The Countesse of Salesberrie)』がベースとなっている。ペインターの小説では、エドワードは独身で伯爵夫人は未亡人だが、この劇の作者は両人とも結婚しているという設定に変えられて、エドワードは伯爵夫人を手に入れるため、お互いの配偶者を殺すという約束をさせられる。筋は違っているものの、ジョルジオ・メルキオーリはこの劇の作者の言い回しとペインターの言い回しに類似性があることを指摘している[3]。
シェイクスピア説反対の根拠となっているのは、ジョン・ヘミングス(John Heminges)とヘンリー・コンデル(Henry Condell)が1623年の「ファースト・フォリオ」に『エドワード三世』を含めていないということと、シェイクスピアの初期戯曲の一覧を記したフランシス・ミアズ(Francis Meres)の『知恵の宝庫(Palladis Tamia)』(1598年)に『エドワード三世』が挙げられていないことである。多くの研究家がこの劇はシェイクスピアの執筆能力に値しないと考えていたが、いくつかの文章がシェイクスピアと関係があることはわかっていた。1760年、シェイクスピア編者のエドワード・カペル(Edward Capell)はその著書Prolusions; or, Select Pieces of Ancient Poetry, Compil'd with great Care from their several Originals, and Offer'd to the Publicke as Specimens of the Integrity that should be Found in the Editions of worthy Authorsでこの劇をシェイクスピアが書いたと主張した。しかし、カペルの意見は研究者たちに受け入れられなかった。
近年になって、シェイクスピア研究者たちは新たな視点からこの劇を評価し直し、いくつかの文章はシェイクスピアの初期の歴史劇、たとえば『ジョン王』や『ヘンリー六世』と同じくらい洗練されているという結論した。さらに、『ソネット集』からの直接の引用も見つかった。文体論の分析は、少なくともいくつかの場面はシェイクスピアが書いたという証拠を得た[5]。オックスフォード大学出版局の『オックスフォード版シェイクスピア全集』への「テキストの手引き」の中で、ゲイリー・テイラーは「すべての非=正典作品のうち、(『エドワード三世』は)全集に含めていいと強く主張する」と述べている[6]。(その後、ウィリアム・モンゴメリー編の『オックスフォード版シェイクスピア全集』第2版(2007年)に『エドワード三世』は含まれた)。メジャーの出版社で最初に『エドワード三世』をシェイクスピア全集に収めたのは、最初にケンブリッジ大学出版(Cambridge University Press)の『ニュー・ケンブリッジ版シェイクスピア』シリーズだった。続いて、『リヴァーサイド版シェイクスピア』も全集に加え、『アーデン版シェイクスピア』にも入っている。ケンブリッジ版の編者ジョルジオ・メルキオーリは『エドワード三世』が正典から外されたのは、劇中のスコットランド人をばかにした描写に対して起こった1598年の抗議のせいだと主張した。メルキオーリによると、1598年4月15日にエリザベス一世のエディンバラの代理人ジョージ・ニコルソンからバーリー卿ウィリアム・セシルに宛てた公衆の動揺について記した手紙の中に、タイトルははっきり述べられていないが、スコットランド人を敵意に満ちて描いた芝居があり、公式でも非公式でもいいので上演禁止にした方がいいと書かれてあり、それでヘミングスとコンデルも忘れたままになっていたのだろうと、これまでにも研究者たちがしばしば主張していたということである[3]。
^Melchiori, Giorgio, ed. The New Cambridge Shakespeare: King Edward III, 1998, p. 2.
^Connotations Volume 3 1993/94 No. 3 Was The Raigne of King Edward lll a Compliment to Lord Hunsdon?
^ abcGiorgio Melchiori, ed. The New Cambridge Shakespeare: King Edward III, 1998
^Melchiori, Giorgio, ed. The New Cambridge Shakespeare: King Edward III, 1998, p. 2.
^M.W.A. Smith, 'Edmund Ironside'. Notes and Queries 238 (June, 1993):204-5. Thomas Merriam's article in Literary and Linguistic Computing vol 15 (2) 2000: 157-186。この本では、stylometry(統計学的方法による文体研究)を用いて、マーロウの書いた草案をシェイクスピアが書き直したという説を検証している。
^Wells, Stanley and Gary Taylor, with John Jowett and William Montgomery, William Shakespeare: A Textual Companion (Oxford University Press, 1987), p. 136
^Sams, Eric. Shakespeare's Edward III : An Early Play Restored to the Canon (Yale UP, 1996)