エリック・ヘボンは、1934年にロンドンのサウス・ケンジントン(英語版)に生まれた[1].
母親はブライトン生まれ、父親はオックスフォード生まれであった。ヘボンの自伝によれば、子どもの頃は常々母親から折檻されていたという。8歳のとき、ヘボンは通っていた学校に放火し、ハロルド・ウッド(英語版)のロングムア少年院 (Longmoor reformatory) に送られた。教師たちは。彼の画才を認めてこれを奨励し、やがてメルドン美術クラブ (the Maldon Art Club) に関わるようになると、15歳の時に初めて作品を出品した。
ヘボンは、チェルムスフォード美術学校 (Chelmsford Art School)、ウォルサムストウ美術学校(Walthamstow Art School、後のウォルサム・フォレスト・カレッジ)を経て、ロイヤル・アカデミーに学んだ。アカデミーで彼の才能は開花して、ハッカー肖像画賞 (the Hacker Portrait prize)、シルヴァー賞 (Silver Award) を受賞し、さらにイギリス・ローマ賞 (British Prix de Rome) を版画部門で受賞して2年間イギリス・ローマ研究所(英語版)で学ぶ奨学金を1959年に得た[2]。ローマで、ヘボンは国際的な美術界の一員となり、数多くの芸術家たちや、美術史家たちと知り合ったが、その中には、1960年に知り合った、実はソビエト連邦のスパイだったサー・アンソニー・ブラント(英語版)もおり、彼はヘボンの素描を2枚ほど見て、プッサンに似ていると語った。これは、後の贋作家としての経歴の種を蒔くきっかけであった。
コルナギは、さらに18か月を置いて、メディアに対して贋作を公表したが、この時点でも名誉毀損で訴えられる可能性を恐れてヘボンの名は伏せられた。アリス・ベケットは当時、「...誰も彼について話していない...問題は彼が良い人物すぎたことだった (...no one talks about him...The trouble is he's too good)」と告げられたことを記している[6]。こうしてヘボンは、これ以上ことが露見しないように少しやり方を変えながら、さらに500点以上の素描を1978年から1988年にかけて描き、贋作を作り続けた[2]。彼が贋作によって得た利益は、3千万ドル以上に上るものと推定されている[7]。
1991年に出版された自伝『Drawn to Trouble』の中でも、ヘボンは美術界、批評家やディーラーたちを攻撃し続けた。ヘボンは、専門家と称する連中の大部分は利益を得るための計略に沿って役割を演じることばかりに熱心だとして、彼らを欺くことができる自分の能力について大っぴらに語った。ヘボンはまた、本物であると証明されているとされる作品の中にも、自分が作った贋作があると主張した。また、この当時には、サー・アンソニー・ブラントとは愛人関係になったことはないと述べた発言も記録されている。
ドキュメンタリー映画『Eric Hebborn: Portrait of a Master Forger』は、イタリアの自宅でおこなわれた長時間のインタビューを中心とした作品で、BBCの『Omnibus』の枠で、1991年に放映された。
2014年に発表された小説『In the Shadow of an Old Master』は、エリック・ヘボンの死とその後の顛末をめぐるミステリーに基づいた作品である[8]。
2014年10月、ウィルトシャー州ウィルトン(英語版)の競売商ウェブス (Webbs) が、素描類 236点を、1点ずつ競売にかけ100ポンドから500ポンドの初値を付けた。10月23日の競売では落札総額は5万ポンドを超え、ミケランジェロを模した贋作の素描が予想額の18倍に当たる2,200ポンドで落札されたほか、ヘボンが現代素描作品のマニュアルとしていた『The Language of Line』に鉛筆で修正加筆が加えられたものに 3,000ポンドの値がついた[9]。『The Language of Line』の落札者が誰かは明らかにされていない上、同じものが複製されたとは考えられない中、かつてヘボンの代理人であったブライアン・バルフォア=オーツ(英語版)は、画家の友人から送られてきたものとして、この『The Language of Line』を『ガーディアン』紙に見せた。この未発表原稿の一部は、『ガーディアン』紙上で2015年8月に公開された[10]