セルゲイ・ハリトーノフ(ロシア語: Сергей Xаритoнoв, ラテン文字転写: Sergei Kharitonov、1980年8月18日 - )は、ロシアの男性総合格闘家、キックボクサー。ソビエト連邦アルハンゲリスク州出身。PRIDEヘビー級グランプリ2004ベスト4。リャザン高等空挺指揮学校(士官学校)卒業。
来歴
ソビエト連邦ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国アルハンゲリスク州プレセツクで生まれた。音楽学校に入学し、アコーディオンを専門に学び卒業。士官学校のリャザン高等空挺指揮学校を卒業後、ロシア空挺軍のパラシュート部隊第106親衛空挺師団に所属した。
11歳ごろからボクシングを始め、16歳からコンバットサンボを始めた。そして、リャザン高等空挺指揮学校時代に総合格闘技と近接格闘術を始め、卒業後、ロシアン・トップチームからエメリヤーエンコ・ヒョードルのスパーリングパートナーとして呼ばれると、ヒョードルから総合格闘技の様々なテクニックを学んだ。
総合格闘技
2003年10月5日、PRIDE 武士道にてPRIDEデビュー。ジェイソン・信長と対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。
2004年2月1日、PRIDE.27でLA・ジャイアントと対戦し、腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。
2004年4月25日、PRIDE GRANDPRIX 2004 開幕戦のヘビー級グランプリ1回戦でムリーロ・ニンジャと対戦し、KO勝ち。
2004年6月20日、PRIDE GRANDPRIX 2004 2nd ROUNDのヘビー級グランプリ2回戦でセーム・シュルトと対戦。マウントを奪ったハリトーノフは、脚を使ってさらにシュルトの動きを封じ、マウントパンチと鉄槌打ちを振り下ろしTKO勝ちを収めた。
2004年8月15日、PRIDE GRANDPRIX 2004 決勝戦のヘビー級グランプリ準決勝でアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと対戦。試合のペースを掴まれ判定負け。
2005年6月26日、PRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUNDでペドロ・ヒーゾと対戦し、膝蹴りでダウンを奪い、追撃のサッカーボールキックとパウンドでKO勝ち。
2005年8月20日、リングス・ロシアの重鎮であるニコライ・ズーエフが立ち上げたリングス・エカテリンブルクの旗揚げ戦に参戦。フランスのピーター・ムルダーに腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。
2005年10月23日、PRIDE.30でファブリシオ・ヴェウドゥムと対戦し、2-1の判定勝ち。
2006年2月26日、PRIDE.31でアリスター・オーフレイムと対戦。試合開始直後にテイクダウンされた際に肩を脱臼し、サイドポジションからの膝蹴りの連打で自身初のTKO負け。
2006年9月10日、PRIDE 無差別級グランプリ 2006 決勝戦において、かつての同門であるエメリヤーエンコ・アレキサンダーと対戦し、パウンドでTKO負けを喫し、2006年に入ってから2連敗となった。
2007年2月24日、PRIDE.33でマイク・ルソーと対戦。腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。
2007年、ロシアン・トップチームを離れ、ゴールデン・グローリーに加入。移籍とともにHERO'Sへの参戦を表明。
2007年9月17日、HERO'S 2007 ミドル級世界王者決定トーナメント決勝戦でアリスター・オーフレイムと再戦し、パンチによるTKOで勝利しリベンジを果たした。なお、この試合のみゴールデン・グローリーではなく、クラブ・ヴォルク・ハンの所属となっていた。
2009年4月5日、DREAM.8でジェフ・モンソンと対戦し、ノースサウスチョークで一本負け。
2010年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜で水野竜也と対戦し、右膝蹴りでダウンを奪ったところにパウンドで追撃しKO勝ちを収めた[1]。
2011年2月12日、Strikeforce初参戦となったStrikeforce: Fedor vs. Silvaで行なわれたワールドグランプリ1回戦でアンドレイ・アルロフスキーと対戦し、右フックでダウンを奪ったところにパウンドで追撃し、KO勝ちを収めた[2]。
2011年9月10日、Strikeforce: Barnett vs. Kharitonovのワールドグランプリ準決勝でジョシュ・バーネットと対戦し、肩固めで一本負け[3]。
キックボクシング
2009年12月5日、K-1ルール初参戦となったK-1 WORLD GP 2009 FINALのリザーブファイトでダニエル・ギタと対戦し、右ローキックでKO負け。この試合はハリッド"ディ・ファウスト"の怪我による欠場で緊急参戦となった[4]。
2010年10月2日、K-1 WORLD GP 2010 IN SEOUL FINAL16のスーパーファイトで佐藤匠と対戦し、1RKO勝ち。K-1ルールでの初勝利となった[5]。
2011年5月28日、United GLORY 14マイティ・モーに1RKO勝ち。
2012年からはキックボクシングの試合をメインに活動するようになった。2012年3月23日、United GLORY 15にてマーク・ミラーに1RKO勝ち。
2012年12月31日、DREAM.18 & GLORY 4にてGLORY GRAND SLAMヘビー級トーナメント2012の1回戦でリコ・ベホーベンに判定負け。
2013年10月12日、GLORY 11 Chicagoにてマイクスジムのダニエル・サムに3-0の判定勝ち。
2013年12月21日、GLORY 13 TOKYOにてジェロム・レ・バンナと対戦し、3度ダウンを奪い判定勝ち。
ボクシング
2000年からアマチュアボクシングのキャリアを開始。
2003年にタジキスタン代表として中央アジア大会に出場。銀メダルを獲得し、アテネオリンピックの出場権を獲得した。しかし開催時期が重なったPRIDE GRANDPRIX 2004の出場を優先して、アテネオリンピックの出場は断念した。
2004年にアジア選手権に出場。ハリトーノフが出場したスーパーヘビー級は優勝者のみがアテネオリンピックの出場権を獲得できたが、決勝で敗れ、銀メダルを獲得した。同年、ロシア選手権に出場し、決勝まで進出するも、怪我のため決勝に出場できず準優勝に終わった。
2020年9月11日、プロボクシングデビュー戦でダニー・ウィリアムズと対戦し、2RKO勝ちを収めた。
ファイトスタイル
バックボーンはコンバットサンボ、ボクシング。特にボクシングは、アマチュアボクシングで中央アジア大会やアジア選手権、ロシア選手権で準優勝した実績を持つ。
人物・エピソード
- プロ格闘家になった後も、ロシア空挺軍のパラシュート部隊第106親衛空挺師団に所属するなど、現役の軍人として2010年代後半に退任するまでロシア軍に所属し、最高階級は大尉だった。PRIDE時代は、ロシア軍最強兵士、死神落下傘などの異名を持ち、入場時に、空挺師団の軍服を着用していた。
- 父親がボクシングのトレーナーで、幼少の頃から軽い手ほどきを受けていた。母親はバレーボールのコーチ。
- 兄弟は弟(アナトリー)が1人いてセコンドである。
- 秘密主義者で、自分の練習内容や作戦を絶対に明かそうとしない。口癖は「シークレットだ」「それは次の試合で明らかになる」「私が作戦を全て明かすのは、引退して年金生活者になった時だ」。
- 2020年11月13日、モスクワのルジニキ・スタジアムで知人の総合格闘家アダム・ヤンディエフにブラスナックル(メリケンサック)で殴打され、左眼窩底と鼻骨を骨折。ヤンディエフに総額200万ルーブル(約230万円)を貸したものの、返済されないという金銭トラブルが対立の原因だったという。その後、11月24日にヤンディエフの謝罪をハリトーノフが受け入れ和解し、両者が和解の握手を交わす動画が投稿された[6][7][8]。
戦績
総合格闘技
総合格闘技 戦績
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45 試合
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(T)KO
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一本
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判定
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その他
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引き分け
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無効試合
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34 勝
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23
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9
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2
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0
|
0
|
2
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9 敗
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4
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4
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1
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0
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キックボクシング
キックボクシング 戦績
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11 試合
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(T)KO
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判定
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その他
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引き分け
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無効試合
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7 勝
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5
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2
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0
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0
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0
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4 敗
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2
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2
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0
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ボクシング
獲得タイトル
- 総合格闘技
- Brilliant 2 優勝(2000年)
- Tournament of Real Men 8 優勝(2003年)
- キックボクシング
- アマチュアボクシング
表彰
脚注
外部リンク