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この項目では、高僧全般について説明しています。在位中のダライ・ラマについては「ダライ・ラマ14世」をご覧ください。 |
称号:ダライ・ラマ法王
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敬称 |
猊下 His Holiness |
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ダライ・ラマ(Dalai Lama, ཏཱ་ལའི་བླ་མ་, taa-la’i bla-ma, 達頼喇嘛)は、チベット仏教ゲルク派の高位のラマであり、チベット仏教で最上位クラスに位置する化身ラマの名跡。チベットとチベット人民の象徴たる地位にある。
その名は、大海を意味するモンゴル語の「ダライ」と、師を意味するチベット語の「ラマ」とを合わせたものである。
ダライ・ラマは17世紀(1642年)に発足したチベット政府(ガンデンポタン)の長として、チベットの元首の地位を保有し、17世紀から1959年までの間のいくつかの特定の時期において、チベットの全域(1732年以降は「西藏」を中心とする地域)をラサから統治するチベット政府を指揮することがあった。現ダライ・ラマ14世は、チベット動乱の結果として1959年に発足した「チベット臨時政府(のち中央チベット行政府、通称チベット亡命政府)」において、2011年3月14日に引退するまで政府の長を務めていた。現在のチベット亡命政府では、「チベットとチベット人の守護者にして象徴」という精神的指導者として位置づけられている。
概説
チベット仏教では、チベットの国土と衆生は「観音菩薩の所化」と位置づけられ、チベットの人々は観音菩薩をチベットの守護尊であると考えるようになった。ダライ・ラマはその観音菩薩の化身とされる転生系譜である。ラサのポタラ宮は、第五世以降の歴代ダライ・ラマの居城であり、チベット仏教における聖地となっている。チベット仏教の信者らはその居城へ一生に一度は巡礼することを目標としており(最も聖なる巡礼方法は五体投地とされる)、信者らからはイーシン・ノルブ(如意宝珠の意)と尊称される存在である。日本ではチベット仏教の法王とも呼ばれる[2]が、チベット仏教で法王と呼べる存在は、かつて明朝より大宝法王の称号を贈られたカルマ派のカルマパや、北ドゥク派のギャルワン・ドゥクパなど複数存在する[注釈 1]。
多くの場合、ダライ・ラマはゲルク派の指導者であると考えられているが、ゲルク派の首座はガンデン・ティパ(ゲルク派の総本山ガンデン寺の座主)であり、ダライ・ラマもゲルク派の中ではガンデン・ティパの属下にある。ただし、ガンデン・ティパという地位はダライ・ラマによって任命される任期制の役職であり、実際に多大な影響力を有しているのはダライ・ラマの方である。
ダライ・ラマはゲルク派の有力な宗教指導者から始まった転生ラマ制度であったが、ダライ・ラマ5世の代に至ってチベットを支配する政治的権威をも身にまとうようになった。第六世以降のダライ・ラマはモンゴルや清朝という外部勢力によって改廃させられたり、未成年時には摂政が政務を代行したため、ダライ・ラマ本人がつねに実権を掌握していたわけではなかった。とはいえ、観音菩薩の化身たるダライ・ラマに具わるある種の理念的な権力はつねに機能しており、清朝などの介入者や実権を握った摂政らも、その権威を否定することはできず、少なくとも形式上はダライ・ラマの教導に従う態度を示していた[3]。
呼称
「ダライ・ラマ」は、16世紀のモンゴル諸部族の間で最有力指導者であったアルタン・ハーンより贈られたモンゴル語の称号に由来し、アジア、欧米などで広く用いられる通称。チベット語でも、ཏཱ་ལའི་བླ་མ་ (taa-la’i bla-ma)[注釈 2] と表記されるが、チベットでは対外的文書などに用いられるにすぎず、チベット人の間では敬称として「ギャルワ(またはギャワ、ラサ方言ではゲェワ)・リンポチェ」(猊下に当たる敬称、貴い勝者の意)や「クンドゥン」(御前)などと呼ばれる。ダライ・ラマ法王日本代表部事務所では、日本語名称は「ダライ・ラマ法王」、敬称は「猊下」(His Holiness)としている。仏教史『ヴァイセル』では「タムチェキェンバ (thams cad mkyen pa)」、同『パクサムジョンサン』では「ギャルワン (rgyal dbang)」の称号で呼ばれている。
ラテン文字慣用表記:Dalai Lama, チベット語:ཏཱ་ལའི་བླ་མ་; ワイリー方式:taa-la’i bla-ma, 中国語簡体字:达赖喇嘛; 繁体字:達賴喇嘛; 漢語ピンイン:Dálài Lǎmāなど。
継承
ダライ・ラマが没すると、その遺言や遺体の状況、神降ろしによる託宣、ラサから約145キロの地点のチョコル・ギャルにあり、ダライ・ラマの護法尊パルデン・ハモ(吉祥天母)の魂が宿るとされる聖なる湖であるラモイ・ラツォ湖の観察、夢占い、何らかの奇跡などを元に僧たちによって次のダライ・ラマが生まれる地方やいくつかの特徴が予言される。その場所に行って子どもを探し、誕生時の特徴や幼少時の癖などを元にして、その予言に合致する子どもを候補者に選ぶ。その上でその候補者が本当の化身かどうかを前世の記憶を試して調査する。例えば、先代ゆかりの品物とそうでない品物を同時に見せて、ダライ・ラマの持ち物に愛着を示した時、あるいはその持ち物で先代が行っていたことと同様の癖を行ったりした場合に、その子どもがダライ・ラマの生まれ変わりと認定される。
認定された転生者は幼児期にして直ちに法王継承の儀式を受けるが、この時点ではあくまで宗教的権威に留まる。成人に達すると(通例は18歳)「チベット王」として改めて即位を執り行い、初めて政治的地位を持つこととなる。先代の遷化(死亡)から新法王の即位までの間は、摂政が国家元首の地位と政務を代行する。
歴史
ゲルク派の「化身ラマ」制度導入
ダライ・ラマ1世ゲンドゥン・ドゥプパ(1391年 - 1474年)は、チベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパの直弟子であった。一世から四世(1589年 - 1617年)までのダライ・ラマは、チベットと周辺地域で広く尊敬を集めた学僧であったが、「偉大なる五世」と呼ばれるダライ・ラマ5世ガワン・ロサン・ギャツォ(1617年 - 1682年)は、優れた学僧であっただけでなく、モンゴルの豪族グーシ・ハーンの後ろ盾を得て、1642年にチベットの政治的支配者となったとされる。以来、歴代ダライ・ラマは、チベットのみならずモンゴル人や満州人にも影響力をもつ宗教的権威者の立場と、チベットを統べる政治的権威を有する君主の立場とを兼ね備えた僧侶君主となり、チベット第一の都市であるラサを基盤とする政体(ガンデンポタン)の最高権威者として君臨した。しかしその後の歴史の中では、ダライ・ラマ本人がつねに名実ともにその権力を掌握していたわけではなく、とりわけ九世から十二世までのダライ・ラマはいずれも夭折したため、実権を行使して親政を行うことがほとんどなかった。
アルタン・ハーンより授かったモンゴル語の称号
ダライ・ラマという称号はモンゴル人の支配者アルタン・ハーンが当時のデプン寺の座主であったスーナム・ギャツォを師と仰ぎ、贈った称号。この時の正式な称号は「ダライ・ラマ・バジュラダーラ」 Dalai-bla-ma bazra dhari といった。最初にダライ・ラマの称号を用いたのはスーナム・ギャツォであったが、かれを一世とはせず三世とし、遡ってゲルク派の宗祖ツォンカパ大師の弟子ゲンドゥン・ドゥプパを一世とした。「ダライ」とは、モンゴル語で「大海」を意味する。「ラマ」はチベット語で「師(教師・指導者)」を意味する。第二世ゲンドゥン・ギャツォ以来、歴代の法名に襲名されている「ギャツォ」[注釈 3]とはチベット語で「海」を意味し、モンゴル語の「ダライ」と対応する。
権威の成長
ダライ・ラマの名跡は、ゲルク派の宗祖ツォンカパの高弟ゲンドゥンドゥプを初代とし、代替わりが進むにつれ、ラサ三大寺のセラ・デプン両寺の座主職を兼任するようになるなど、ゲルク派内の地位を高めていった。また、同派のモンゴル布教の最前線に立ち、1578年第三世スーナム・ギャツォが当時のモンゴルの最高実力者アルタン・ハーンとチョ・ユン関係(施主・福田)を築くなど、モンゴルに対する大きな影響力をも持つようになった。
1636年、後金の王ホンタイジが、ボルジギン氏(チンギス・ハーンの子孫)ではないにもかかわらずハーンの地位に即位(即位と同時に国号を大清と変更)するという事態が起きたとき、ハルハとオイラトの諸部は友好使節団を派遣して愛新覚羅氏による「ハーン」位継承を追認したが、この使節団は名目上、「清朝によるダライラマへの使者派遣に、自分たちの使者も同行させてほしい」ことを申し入れることを目的としていた。
ホシュート部の指導者グーシ・ハーンは、清朝に使節団を派遣した1637年よりチベットの征服に着手、オイラト軍を率いて1642年までに中央チベット・アムド・カムなどチベットの大部分を制圧した。グーシ・ハーンはアムドをホシュート部の直轄地とし、中央チベット全域をダライ・ラマに寄進して広大なダライ・ラマ領とした。これをもってダライ・ラマを頂点とする政権が中央チベットに樹立されることになった。その後グーシ・ハーンも初代摂政スーナム・チュンペルも相次いで亡くなったため、ダライ・ラマ5世は着々と自らの権力を固めることができ、かれをチベットの最高権威として擁立せしめたモンゴル人たちの宗主権は有名無実と化した。また、当初ダライ・ラマ政権は中央チベットのみに支配を及ぼしていたが、後にその支配地域を拡大していくことになる。こうして名実ともにダライ・ラマ5世がチベットの支配者となったとされる。
ダライ・ラマの信者であるグーシ・ハーンによるチベットの制圧は、チベットの宗教界と世俗の権力構造に大きな変動をもたらした。ダライ・ラマの名跡は、それまでの「ゲルク派の有力名跡」という宗教的権威のみならず、チベットで最も肥沃で人口稠密なダライ・ラマ領を掌握するのに加え、グーシ・ハーン一族や、グーシ・ハーン一族に従属する諸侯たちの領主権の認定、各地のゲルク派寺院の人事権の認定に携わるなど、宗教的・世俗的な権威と権限をチベットにおける支配地域で行使するという、聖俗両権を一身にまとう地位となった。
認定をめぐる外部勢力の介入
ダライ・ラマ6世ツァンヤン・ギャツォによる比丘戒の不受と沙弥戒の返上、その後の放蕩は、1642年以来ダライ・ラマ擁立の後ろ盾となってきたグーシ・ハーン一族の分裂をもたらし、ツァンヤン・ギャツォに替えて別の六世エシェ・ギャツォを擁立する「ラサン派」[注釈 4]と、中国へ流刑される途上1705年に死去したツァンヤン・ギャツォの「生まれ変わり」として擁立されたケルサン・ギャツォを擁する「反ラサン派」が対立することとなった。
対立は、オイラト本国(当時ジュンガル部が支配)や清朝などの外部勢力を巻き込んだ戦乱の果て、1720年、ケルサン・ギャツォがダライ・ラマとして正式に即位する形でとりあえず決着した。ただしチベット人やモンゴル人たちがケルサン・ギャツォを「ツァンヤン・ギャツォの生まれ変わりであるダライラマ7世」として認定したのに対し、清朝は当初「ロサン・ギャツォの生まれ変わりであるダライラマ6世」として扱った。清朝がケルサン・ギャツォのダライラマとしての代数を、チベット人・モンゴル人が認定している通り七世として認めるのは、18世紀末、康熙帝の曾孫嘉慶帝の代まで下る。
ダライ・ラマ8世の代に起こったグルカ戦争を機に、清朝の乾隆帝は化身ラマの選定方法に介入し、「セルブム(黄金の瓶)」をチベットに贈り、ダライ・ラマとパンチェン・ラマなど化身ラマの大名跡の認定にこの瓶を活用するよう求めた(→金瓶掣籤。ダライ・ラマについては、10世から12世までの選定に用いられた)。
ギャルツァプ職の出現
19世紀初頭にダライ・ラマ8世が遷化して以来、ダライ・ラマの転生者の捜索はチベット貴族の勢力争いの場となり、恣意的な人選が行われた。この時期の四代のダライ・ラマはいずれも早世しており、十世から十二世までのダライ・ラマは政治的実権を握る成人前後に急逝している[注釈 5][注釈 6]。このような状況下で有力僧侶や貴族が摂政となって実権を握り、貴族や大寺院の権力争いや陰謀が横行する混迷の時期が続いた。ダライ・ラマ7世遷化の後、ラサの四大院の名跡の中のひとりがガンデンポタンの首班ギャルツァプ(rgyal tshab)職に就く体制が成立した。
1642年〜1705年に存在したデシー(sde srid)職が、「ダライ・ラマの下で世俗の権限を行使する「首相職」」とでもいうべき地位であったのに対し、ギャルツァプ職はダライ・ラマの代理としてその権限を行使する「名代」、「摂政」というべき地位であり、絶大な職権があった。
位置づけ
中国の王朝との関係
ダライ・ラマは現在、「ゲルク派の最高指導者」ではなく「チベット仏教の最高指導者」であると言われている(実際にダライ・ラマがチベット仏教を統括しているかどうかは別として[注釈 7])。このことの歴史的背景には、クビライとパクパが築いた「施主と帰依処」の関係を端緒とする「領天下釈教」、すなわちチベット仏教(の領袖)が天下の仏教の上に立つという思想がある、と田中公明は指摘している。この発想は、チベット仏教が対中国的に自らの権威を強調するのに利用された。パクパの後にチベット仏教の権威者として「領天下釈教」の称号を得たのは、明の永楽帝より「大宝法王」の号を授与されたカルマパ5世テシンシェクパであり、その後、清の順治帝の招聘を受けたダライ・ラマ5世がこのタイトルを得た。したがって中国の王朝との関係において、名目上カルマパが得た地位をダライ・ラマが引き継いだ形になる。ただし、清朝がチベット仏教の最高権威としてダライ・ラマに贈った「所領天下釈教」の肩書は、元代にパクパが得た地位とは異なり、漢人の仏教までも領掌するものではなかった。その後、7世の代にダライ・ラマ政権が清朝の保護下に入ると、ダライ・ラマは宗主たる清朝皇帝のために祈願する義務を負った。
中華人民共和国の一白書では、ダライ・ラマの称号とチベットの政教一致体制の確立は1653年に清朝皇帝がダライ・ラマ5世に尊称を贈ったことに始まるかのように記述している。チベット亡命政権はこれに対し、ダライ・ラマの称号はそれよりずっと前のダライ・ラマ3世とモンゴルのアルタン・ハーンとの関係から始まるものであること、また、ダライ・ラマ5世の政治的権威は清朝成立とは無関係にグーシ・ハーンとの関係において確立したものであるという事実を挙げて反論している。また、ダライ・ラマと清朝皇帝との「帰依処・檀越」の関係は個人的なものであったと主張し、清帝国の一部ではあっても支配層ではなかった漢人が清朝皇帝とダライ・ラマの関係に介在したことはないため、中国がチベットに対して主権を主張することに歴史的正当性はないとしている[12]。
パンチェン・ラマとの関係
ダライ・ラマはゲルク派において最重要の化身ラマであるが、ダライ・ラマに次いで重要な化身ラマであるパンチェン・ラマと併せて、ゲルク派の二大ラマとか二人の最高指導者とみなす場合もある。この二人の化身ラマの密接な関係を、チベットの人々は太陽と月になぞらえた。パンチェン・ラマは阿弥陀如来の化身とされ、ダライ・ラマに比肩しうる智慧をもつ高僧と考えられていた。カルマ派ではシャマルパという化身ラマがあり、法王たるカルマパの死後、その転生者に選ばれた次の法王が成人するまでの空白を補う副法王の役割をもっているが、ダライ・ラマとパンチェン・ラマもこれと似た正副法王に当たり、相互に師弟関係にあった。ただし、パンチェン・ラマはシガツェに常駐していることが多く、ダライ・ラマ未成年時に摂政として政務を代行したのは、多くの場合ラサにいる別のラマであった。
パンチェン・ラマはダライ・ラマとは異なり、原則的に世俗的な政治権力は有していなかった。ダライ・ラマはガンデンポタンの長としてウー地方のラサを基盤としていたのに対し、パンチェン・ラマはタシルンポ寺の座主としてツァン地方のシガツェ周辺を所領としていた。1727年、清朝はゲルク派内の勢力均衡を図るため、パンチェン・ラマの政治権力を強化させようとして、ツァンと西チベットをパンチェン・ラマの領地と定めた。この措置の政治的効果はさほど大きくなかったものの、その後の時代においてダライ・ラマとパンチェン・ラマの間で(あるいはラサとシガツェの間で)幾度か軋轢が生じる遠因となった。
なお、チベット亡命政府は、パンチェン・ラマの地位に関する中華人民共和国の主張に対する反論の中で、シガツェやタシルンポ寺の行政もダライ・ラマ政庁の任命した行政官が担っていたことを強調している[12]。
ガンデン・ティパとの関係
ダライ・ラマはゲルク派の最も有名な僧侶であり、事実上、ゲルク派の総帥や宗主のように扱われることがあるが、ゲルク派の管長ではない。本来は総本山ガンデン寺の座主(ガンデン・ティパ)がゲルク派の最高指導者である。ガンデン・ティパはゲルク派の学僧の頂点に立つ役職であり、宗祖ツォンカパの後継者としてゲルク派の教法を管掌する法主の立場にある。その上座にはダライ・ラマとパンチェン・ラマ以外座ることを許されなかった。ガンデン寺における席がダライ・ラマのそれより高いことから、ゲルク派内での宗教上の格式はダライ・ラマよりも上位にあると解釈することができる。
16世紀、ゲルク派の教勢拡大に伴って他派との摩擦が生じた際、政敵であったカルマ派のカルマパなどと比べると、ゲルク派の教主であるガンデン・ティパは交代制で任期が短かったため、求心力やカリスマ性を獲得し難い面があった。ダライ・ラマは、そのような時代にデプン寺とセラ寺の座主を兼任して事実上のゲルク派の最高指導者となった学僧ゲンドゥン・ギャツォ(ダライ・ラマ2世)、そしてその転生者とされたスーナム・ギャツォ(ダライ・ラマ3世)に始まる転生系譜であり、ゲルク派の統合の象徴であった[22]。
歴代の一覧
- 対立6世イェシェー・ギャツォは、ダライ・ラマ6世ツァンヤン・ギャツォの廃位の後、ホシュート部の首長ラサン・ハン(英語版、中国語版)によって擁立された対立ダライ・ラマ。しかし、ラサン・ハンの傀儡と見なされたためにチベット人社会の支持を得られなかった上に、ホシュート部を破ったジュンガル部の首長ツェワン・ラプテンによって廃位された。
脚注
注釈
- ^ 現在、中国語圏では、リンポチェと呼ばれる化身ラマが法王号をもって尊称されることがある。例えば、20世紀亡命ニンマ派の長を務めたドゥンジョム・リンポチェは中国語圏では敦珠法王と呼ばれる。なお、法王と訳されるチベット語のチューキギェルポないしチューギェルは、仏法を保護した世俗の君主などに対して使われる(吐蕃のソンツェン・ガンポとティソン・デツェンとレルパチェンの祖父孫三王、シッキム王国の藩王、デルゲ法王など)。アルタン・ハーンもダライ・ラマ3世よりチューキギェルポ・レーツァンパ(法王梵天)の称号を贈られた(転輪聖王も参照)。
- ^ 標準チベット語(ラサ方言)ではターレーラーマと発音。
- ^ ギャムツォ、ギャンツォとも表記される。
- ^ ラサンはグーシ・ハーンの嫡曾孫で、1703年から1717年までチベット・ハンに在位。
- ^ 木村肥佐生は、その著書『チベット潜行10年1958年版』で毒殺と推定。同書の『1982年版』では婉曲な表現で有力貴族間の権力争いの犠牲になった可能性が強いと記している。
- ^ 波多野養作『新疆視察復命書』(1907年)に拠れば、ダライは十七、八歳を迎えると南方の霊地へ赴いて業を修めるが、これを「朝南」と称する。この時をもって初めて人民に接するダライは思想上において大いに啓発されるところあり、業を了し宮殿に帰るとそれまで自己の無為に乗じて下僧たちからなされた欺瞞暴悪を悟り、往々大改革を計るに至る。これを自己に不都合とする下僧たちが共謀してダライを殺害することはほとんど動かし難い事実である、という。
- ^ 前近代のチベットの宗教と社会を研究している社会人類学者ジェフリー・サミュエルは、実情としてはダライ・ラマの属するゲルク派とカルマパの属するカルマ・カギュ派の間にはいまだにある種の緊張関係があることを指摘している[10]。また、シュクデン問題はゲルク派さえもダライ・ラマを中心にまとまった一枚岩の教団でないことを露呈させ、シュクデンを祀る強硬派はゲルク派から分離してダライ・ラマの反対勢力となった。
出典
参考文献
- (第司桑結嘉措『格魯派教法史:黄瑠璃宝鑑』北京・中国藏学出版社、ISBN 7-80057-014-2)『ヴァイセル』
- sum pa ye shes dpal 'byor, chos 'byung dpag msam ljon bzang, ken su'u mi rig dpe skurn khang, 1992
- (松巴堪欽『松巴佛教史』甘民族出版社、ISBN 7-5421-0085-8)『パクサムジョンサン』
関連文献
- ダライ・ラマ著作の訳書
- 『チベットわが祖国 ダライ・ラマ自叙伝』 木村肥佐生訳 中公文庫 1989/09、改版2015 原著1962
- 『愛と非暴力 ダライ・ラマ仏教講演集』ダライ・ラマ14世、三浦順子訳 春秋社 1990/04
- 『ダライ・ラマ自伝』ダライ・ラマ14世、山際素男訳 文藝春秋 1992/01/文春文庫 2001/06
- 『ダライ・ラマ「死の謎」を説く 輪廻転生-生命の不可思議』 ダライ・ラマ14世 クレスト社 1994/07、のち徳間文庫、角川ソフィア文庫
- 『ダライ・ラマの密教入門 秘密の時輪タントラ灌頂を公開する』ダライ・ラマ14世 石浜裕美子訳 光文社 1995、のち光文社文庫
- 原書 Kalachakra Tantra Rite of Initiation For the Stage of Generation 1985 1989
- 『ダライ・ラマの仏教入門 心は死を超えて存続する』ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャムツォ 石濱裕美子訳 光文社 1995、のち光人社文庫
- 原著 The Meaning of Life:Buddhist Perspective on cause and effect 1992
- 『宇宙のダルマ』ダライ・ラマ十四世 永沢哲・訳 角川書店 1996/11
- 原著 THE WORLD OF TIBET BUDDHISM 1995
- 『瞑想と悟り』 チベット仏教の教え ダライ・ラマ14世、柴田裕之訳 NHK出版 1997/07
- 原著 THE WAY TO FREEDOM Core Teaching of Tibetan Buddhism 1995
- 『ダライ・ラマ 怒りを癒す』ダライ・ラマ十四世、三浦順子・訳 講談社 2003/03 原書 1997 HEALING ANGER
- 『ダライ・ラマ、生命と経済を語る』ダライ・ラマ(14世)、聞き手ファビアン・ウァキ 中沢新一/鷲尾翠・訳 角川書店 2003/03
- 『ダライ・ラマ ゾクチェン入門』ダライ・ラマ、宮坂宥洪訳 春秋社 2008/08
- 『思いやりのある生活』ダライ・ラマ14世 テンジン・ギャムツォ共著 沼尻由起子訳 光文社文庫 2006/03。原書 The Compassionate Life 2003
- 『ダライ・ラマ 実践の書』ダライ・ラマ14世、聞き手ジェフリー・ホプキンス 宮坂宥洪・訳 春秋社 2010/01
- 『ダライ・ラマの「中論」講義---第18・24・26章』ダライラマ14世テンジンギャツォ、マリア リンチェン訳 大蔵出版 2010/05
- 『ダライ・ラマ法王、フクシマで語る 苦しみを乗り越え、困難に打ち勝つ力』ダライ・ラマ14世、聞き手下村満子 大和出版 2012/03
- 『傷ついた日本人へ』ダライ・ラマ14世講話、新潮新書 2012/04
- 『ダライ・ラマ宗教を越えて 世界倫理への新たなヴィジョン』三浦順子訳 サンガ 2012
- 『ダライ・ラマ声明 1961-2011』小池美和訳 集広舎 2017
- 上記以外
- 『雪の国からの亡命 チベットとダライ・ラマ 半世紀の証言』ジョン・F・アドベン 三浦順子他・訳 地湧社 1991/01 原書1984
- 『チベットの七年 ダライ・ラマの宮廷に仕えて』ハインリヒ・ハラー 福田宏年訳 白水社 新装復刊1997年 原著1966
- 『バイオグラフィー 20世紀の指導者~ダライ・ラマ14世』アミューズ・ビデオ 2000年7月 DVD 45分
- 『高僧の生まれ変わり「チベットの少年」』イザベル・ヒルトン、三浦順子・訳 世界文化社 2001/09 原書1999
- 『ダライ・ラマ その知られざる真実』ジル・ヴァン・グラスドルフ/鈴木敏弘 河出書房新社 2004/06 。原書 LE DALAI LAMA 2003
- 『ダライ・ラマとパンチェン・ラマ』イザベル・ヒルトン/三浦順子訳 ランダムハウス講談社文庫 2006
- 『目覚めよ仏教! ダライ・ラマとの対話』 聞き手上田紀行 日本放送出版協会・NHKブックス 2007/06/講談社文庫 2010
- 『ダライ・ラマ般若心経を語る』大谷幸三取材・構成 角川ソフィア文庫 2013
- 『ダライ・ラマとチベット―1500年の関係史』大島信三、芙蓉書房出版 2017
関連項目
外部リンク