ハリー・ハスキー
ハリー・ダグラス・ハスキー(Harry Douglas Huskey、1916年1月19日 - 2017年4月9日)は、アメリカ合衆国の数学者・計算機科学者であり、コンピュータの設計の先駆者である。 生涯と業績ハスキーはノースカロライナ州スモーキー山脈地方のウィッティアで生まれ、アイダホ州で育った。アイダホ大学で数学と物理学の学士号を取得した。家族の中で大学に入学したのは彼が初めてだった。1943年にオハイオ州立大学で"Contributions to the Problem of Geocze"(Geoczeの問題への貢献)という題の論文で修士号とPh.D.を取得した。その後、ペンシルベニア大学で米海軍の学生に数学を教え、1945年にENIACとEDVACのプロジェクトに関わった。ニューヨーク・タイムズ掲載の死亡記事によれば、ハスキーがコンピュータに関わるようになったのはここからである[2]。 イギリス国立物理学研究所に1年間滞在し、アラン・チューリングらと共にパイロットACE(ACEのプロトタイプ)に取り組んだ。また、EDVACやSEACのプロジェクトにも関与していた。 1949年から1953年までロサンゼルスの国立標準局でStandards Western Automatic Computer(SWAC)の設計と製造管理を行った。また、ベンディックス・アヴィエーションのG-15コンピュータを設計した。これは950ポンド (430 kg)の装置で、1人で操作が可能である[3]。彼はその1台を自宅に保有しており、それは現在スミソニアン博物館に所蔵されている。 国立標準局に5年間勤務した後、1954年にカリフォルニア大学バークレー校(UCB)で教職を得、1966年にカリフォルニア大学サンタクルーズ校(UCSC)に移った。1967年にUCSCでコンピュータおよび情報科学プログラムを共同設立した。また、コンピュータセンターの所長になった。1986年、UCSCは彼を名誉教授に任命した。UCBにいる間、先駆的なプログラミング言語の設計者であるニクラウス・ヴィルトの研究を指導した。ニクラウス・ヴィルトは1963年に博士号を取得した。1963年から1964年にかけて、ハスキーはインド工科大学カーンプル校のコンピュータセンターの設立に参加し、コンピュータテクノロジーの先駆者との会議を開催した[4]。参加者には、プリンストン大学のフォーマン・S・アクトン、ケース工科大学のロバート・アーチャー、オーストラリア・CDCのS・バートン、メキシコシティのセントロ・デ・カルキュロのS・ベルトラン[5]、シドニー大学のジョン・メイクピース・ベネット、SDCの Launor Carter[6]、UCBのデイビッド・C・エバンス、IBM-SBCのブルース・ギルクライスト、UCサンディエゴのClay Perry、東京大学の森口繁一、UCBのジオ・ ウィダーホールド、アムステルダム・国立数学研究所のアドリアン・ファン・ワインハールデン、ケンブリッジ大学のモーリス・ウィルクスがいた。 1986年に70歳で退職し、カリフォルニア大学の名誉教授となった。1994年にACMフェローに選出された。カリフォルニア州マウンテンビューのコンピュータ歴史博物館の上級キュレーターであるダグ・スパイサーは、ハスキーを「コンピューティングの最高の瞬間に登場するゼリグ[注釈 1]のようなキャラクター」と表現した[7]。 私生活ハスキーはヴェルマ・ロス(Velma Roeth)と結婚し、4人の子供をもうけた。ヴェルマと1991年に死別した後、1994年にナンシー・グリンドスタッフ(Nancy Grindstaff)と結婚した(2016年に死別)。彼はカリフォルニア州サンタクルーズに住んでいた。 ハスキーはグルーチョ・マルクスのラジオ番組『ユーベットユアライフ』の1950年5月10日の回の3組目の出場者として登場した。彼は「電子頭脳」の設計者と説明された。彼は「州」のカテゴリを選択したが、最終問題のミズーリ州の北の州(答はアイオワ州)を回答できなかった[8]。 主な著書
受賞2013年、コンピュータ歴史博物館は彼を博物館のフェロー(コンピュータ殿堂)に選出した。受賞理由は「初期の重要なコンピュータシステムに関する影響力の強い研究と、コンピュータ教育に対する生涯にわたる功績に対して」である[9]。 脚注注釈出典
外部リンク
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