ラリー・ハミルトン(Larry "Rocky" Hamilton、本名:Lawrence Edward Hamilton、1931年3月31日 - 1996年7月20日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミズーリ州セントジョセフ出身。
ミズーリ・モーラー(The Missouri Mauler)のリングネームで知られ、ヒールのラフ&パワーファイターとして活躍した[5]。ジ・アサシンズのジョディ・ハミルトンは義弟[6]、WCWやWWEのレフェリーだったニック・パトリックは甥にあたる[5]。
来歴
アメリカ陸軍を除隊後[2]、1950年にデビュー[5]。ミズーリを皮切りにカンザス、アイオワ、ネブラスカなど中西部を転戦し、1954年5月21日には地元のセントジョセフにおいて、師匠格のサニー・マイヤースを下してNWAミズーリ・ヘビー級王座を獲得した[7]。
1957年より北東部に進出し、WWWFの前身団体であるニューヨークのキャピトル・レスリング・コーポレーションでは、スカル・マーフィーのパートナーとなってアントニオ・ロッカやアーノルド・スコーランと抗争[8]。翌1958年からはジョディ・ハミルトンとの兄弟タッグチーム、ハミルトン・ブラザーズ(The Hamilton Brothers)で活動した[9]。
その後、ノース&サウスカロライナおよびバージニアをテリトリーとするミッドアトランティック地区に参戦。後にジョディとジ・アサシンズを結成するグレート・ボロをパートナーに、1959年8月24日にデューク・ケオムカ&ミスター・モトの日系コンビからNWA南部タッグ王座を奪取[10]。以降もエンリケ・トーレスやヘイスタック・カルホーンらのチームを破り、同王座を通算3回獲得した[10]
1961年11月、日本プロレスに初来日。ミスター・フー(Mr. Who)なる覆面レスラーに変身しての参戦だったが、来日第1戦となるキング・オブ・マスクことロニー・エチソンと組んでの吉村道明&遠藤幸吉との試合前に、エチソン共々自ら覆面を脱いで正体を現している[11]。12月14日には東京・台東区体育館においてリッキー・ワルドーと組み、力道山&豊登が保持していたアジアタッグ王座に挑戦した[11]。
1960年代前半は中西部のセントラル・ステーツ地区を主戦場に活動。1963年10月19日、パット・オコーナーを下してセントラル・ステーツ版のNWA USヘビー級王座を獲得した[12]。同地区では因縁のマイヤースやエチソンをはじめ、モンゴリアン・ストンパーやボブ・ガイゲルとも抗争を展開した[13]。
1965年7月より、ミズーリ・モーラー(The Missouri Mauler)と名乗って長年の主戦場となるフロリダに登場。11月30日にタンパにおいて、ルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した[14]。1966年3月8日にはターザン・タイラーを破り、フラッグシップ・タイトルのNWA南部ヘビー級王座を獲得[15]。以降、1969年にはジャック・ブリスコを相手に同王座を争い[15]、1970年5月12日にはNWAフロリダ・ヘビー級王座もブリスコから奪取している[16]。1969年12月から1970年にかけては新王者ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座にも何度となく挑戦した[17]。
その後はミッドアトランティック地区に戻り、1971年7月にNWAイースタン・ステーツ・ヘビー級王座を獲得[18]。ブルート・バーナードとも狂乱コンビを結成して、10月12日にジョニー・ウィーバー&ジョージ・ベッカーからNWA大西洋岸タッグ王座を奪取した[19]。
1972年9月には11年ぶりの来日を果たし、日本プロレスの『第3回NWAタッグ・リーグ戦』にジョディとのハミルトン・ブラザーズで出場[20]。外国側の優勝候補とされたダニー・ホッジ&ネルソン・ロイヤルを勝ち点で上回って決勝戦に進出し、10月31日に大阪府立体育館において日本側の坂口征二&高千穂明久と優勝を争った[20]。
1973年にはテキサスの東部地区に参戦。ゲーリー・ハートをマネージャーに迎え、1月19日にホセ・ロザリオからNWAテキサス・ヘビー級王座を奪取[21]。3月にはジョニー・バレンタインが日本遠征のために返上したNWAアメリカン・ヘビー級王座を継承し、8月7日にフリッツ・フォン・エリックに敗れるまで戴冠した[22]。1975年はオーストラリアに遠征して、NWA豪亜タッグ王座を獲得している[23]。
1976年からは古巣のフロリダおよびミッドアトランティックで活動。フロリダではダスティ・ローデス、ビル・ロビンソン、ジャック&ジェリー・ブリスコらと抗争[24]。ミッドアトランティックではブラックジャック・マリガン、マスクド・スーパースター、キム・ドクらと共闘して、ボボ・ブラジル、ワフー・マクダニエル、ミスター・レスリング、ディノ・ブラボー、マイティ・イゴール、リッキー・スティムボートなどと対戦した[25]。キャリア末期となる1979年には、フロリダにてパク・ソンやオックス・ベーカーともタッグを組んだ[26]。
引退後の1981年からは保釈保証業者に転じていた[5]。1996年7月20日、心臓発作のため65歳で死去[5]。晩年は人工股関節の置換手術を受けるも、健康状態は概して良好だったという[5]。
獲得タイトル
- セントルイス・レスリング・クラブ
- ミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング
- セントラル・ステーツ・レスリング
- チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
- NWAビッグタイム・レスリング
- NWAテキサス・ヘビー級王座:1回[21]
- NWAアメリカン・ヘビー級王座:1回[22]
- ワールド・チャンピオンシップ・レスリング(オーストラリア)
- NWA豪亜タッグ王座:1回(w / Steve Rackman)[23]
- オール・サウス・レスリング・アライアンス
脚注
外部リンク