ヴォルフガング・パーレン (Wolfgang Paalen 、1905年 7月22日 - 1959年 9月24日 )は、オーストリア に生まれ、主にフランス 、メキシコ 、アメリカ合衆国 で活躍した画家 、彫刻家 、芸術 哲学者 。1930年代にアンドレ・ブルトン を中心とするシュルレアリスム の運動に参加。濡れたキャンバス の表面をろうそく の煙 で燻すフュマージュ の技法を生み出した。第二次大戦 勃発の前年にフリーダ・カーロ の招きに応じてメキシコに亡命 。抽象表現主義 の先駆けとなる芸術雑誌『DYN (英語版 ) (ディン)』を創刊し、シュルレアリスムと決別。先住民 の世界観 や量子論 に基づく芸術理論を展開し、画風も大きく変容した。
背景
1905年7月22日、ヴォルフガング・ローベルト・パーレンとしてウィーン に生まれた。
ウィーン分離派の建築家オットー・ヴァーグナーの設計によるパーレンの生家(Köstlergasse 1)の入口(写真提供:Andreas Neufert)
1873年にチェコ のブルノ に近い小村ブゼネツ (ドイツ語版 ) に生まれた父グスタフ・ローベルト・パーレン (ドイツ語版 ) は、真空瓶(魔法瓶 )、真空掃除機 などの真空装置 や気流式加熱装置などを発明した大実業家 で、著名な美術品蒐集家 でもあった[ 1] [ 2] [ 3] 。現在ベルリン国立美術館 所蔵のティツィアーノ やルーカス・クラナッハ の絵画などは、パーレン家旧所蔵の作品である[ 4] [ 5] 。彼はポーランド 系ユダヤ人 (アシュケナジム )とスペイン 系ユダヤ人(セファルディム )の血筋を引くが、ウィーンに移り住んだ後、1900年にプロテスタント に改宗 。同時に「ポラック」から「パーレン」に改姓 した[ 2] 。ウィーン分離派 の建築家 オットー・ヴァーグナー が設計し、1898年から99年にかけて建設された集合住宅 (リンケ・ヴィーンツァイレ)に居住し、ドイツ 生まれの女優のクロティルド・エミリー・グンケルと結婚。4人の息子をもうけた。ヴォルフガングは長子である[ 2] 。
教育
父グスタフはシュタイアーマルク州 グラーツ=ウムゲーブング郡 (ドイツ語版 ) ハーゼルスドルフ・トベルバート (ドイツ語版 ) に豪勢な保養施設 「トベルバート」を開設した。ここは、作曲家グスタフ・マーラー 、作家 ・画家のフリッツ・フォン・ヘルツマノヴスキィ=オルランド (ドイツ語版 ) 、美術評論家 ・小説家 のユリウス・マイヤー=グラーフェ 、イーダ・ツヴァイク(作家・評論家 のシュテファン・ツヴァイク の母)らの芸術家が集まる場となり、また、アルマ・マーラー はパーレンを介して建築家ヴァルター・グロピウス に出会ったとされる[ 2] 。ヴォルフガングはこの地にしばしば滞在し、とりわけ、マイヤー=グラーフェから大きな影響を受けた[ 6] [ 7] 。また、この後、ショーペンハウアー やニーチェ の思想、ドイツ・ロマン主義 、マックス・ヴェルトハイマー のゲシュタルト心理学 、インド のヴェーダ からも影響を受けることになる[ 6] [ 8] 。
父グスタフがオーストリアシュタイアーマルク州に開設した保養施設トベルバート(1910年頃)
パーレン一家は1912年にベルリン に越し、次いでポーランドのジャガン (ルブシュ県 )の古城を購入して修復し、ここに移り住んだ。ヴォルフガングは、この古城で、ある夜、夢 とも現実ともつかない幻想的な光景を目の当たりにしたことが、後のシュルレアリスムの絵画、とりわけ、「知覚される世界と象徴的な世界が分かち難い」彼の絵画に影響したと語っている[ 8] 。ヴォルフガングはジャガンの学校に通う傍ら、家庭で個人教育を受けた。教師は教会 のオルガニスト でもあり、彼の影響でヨハン・ゼバスティアン・バッハ に傾倒した[ 2] 。
1913年から1934年までパーレン一家が住んだポーランドのジャガンの古城(Sankt Rochusburg、1917年)
1919年に一家はローマ に越した。ジャニコロ の丘に瀟洒な館を構え、多くの客を迎え入れた。ヴォルフガングが最初に師事したベルリン分離派の画家レオ・フォン・ケーニヒ (ドイツ語版 ) もその一人であった。また、考古学 者で当時バッラッコ美術館の館長であったルートヴィヒ・ポラック (ドイツ語版 ) に出会ったのもこのときであり、ポラックを通じて古代ギリシア ・ローマ の美術を学んだ[ 8] 。1923年に一人でベルリン に戻り、ベルリン芸術アカデミー(現ベルリン芸術大学 )を受験したが不合格。生涯にわたって交友を重ねることになるスイス 生まれの写真家 ・音楽家 ・美術品蒐集家エヴァ・スルザー (英語版 ) に出会った[ 9] 。
フランス
抽象絵画
パリ14区 のアトリエのパーレン(Eva Sulzer 撮影、1933年頃)
1925年にベルリン分離派展に出品。さらに美学を学んだ後に渡仏。翌年にかけてパリ および南仏カシス (フランス語版 ) (プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏 、ブーシュ=デュ=ローヌ県 )で学び、英国の画家、美術品蒐集家、美術評論家ローランド・ペンローズ (英語版 ) と彼の妻で造形作家のヴァランティーヌ・ペンローズ (英語版 ) 、オスマン帝国 出身の画家ジャン・ヴァルダ (英語版 ) 、フランスの画家ジョルジュ・ブラック らに出会った[ 6] 。ミュンヘン のハンス・ホフマン 美術学校に学んだ後、1928年にサントロペ を訪れ、フランスに定住する決意をした。1928年は栄華を誇ったパーレン家が衰退の兆しを見せ始めた年であった。弟ハンス=ペーターがベルリンの精神病院で死去し、両親は離婚。父グスタフは翌1929年のウォール街大暴落 の影響を受けて財産を失った。さらにもう一人の弟ライナーが拳銃自殺を図り、ベルリンの病院に搬送された。事件を目撃したヴォルフガングは治療に付き添ったが、ライナーはこの後1933年に失踪し、1942年にチェコスロバキア の精神病院で死去した[ 8] 。
1929年にパリに定住し、短期間だがフェルナン・レジェ に師事した。1933年、抽象彫刻家・画家のオーギュスト・エルバン 、ジョルジュ・ヴァントンゲルロー 、ジャン・エリオン らがテオ・ファン・ドゥースブルフ の協力を得て1931年2月15日に結成した「アプストラクシオン・クレアシオン(抽象・創造)」[ 10] のグループに参加した。抽象化によって不可視の世界を表現しようとするこのグループには、カンディンスキー 、モンドリアン 、ジャン・アルプ 、モホリ=ナジ・ラースロー 、クルト・シュヴィッタース 、そして岡本太郎 もパーレンと同じ1933年に参加したが[ 11] 、パーレンは1935年にエリオン、アルプとともに退会した。
シュルレアリスム
《禁じられた国》1936-1937年 (Paalen Archiv Berlin; 写真提供: Andreas Neufert)
1934年にフランスの詩人 ・画家のアリス・ラオン (フランス語版 ) と結婚。同年、パリで最初の個展を開き[ 12] 、ペンローズに再会。彼を介してシュルリアリスムの詩人ポール・エリュアール に出会った。翌35年の夏には詩人・小説家のリーズ・ドゥアルム (フランス語版 ) のサロンでアンドレ・ブルトンに出会い、ブルトンとペンローズの勧めで、1936年にロンドン で開催された国際シュルレアリスム展に参加するほか、ピエール画廊(画商ピエール・ローブ (フランス語版 ) は写真家ドゥニーズ・コロン (フランス語版 ) の兄[ 13] )で個展を開き、シャルル・ラットン (フランス語版 ) 画廊で行われたシュルレアリスム・オブジェ展にも出品した。国際シュルレアリスム展には、最初のフュマージュ の作品を出品した。パーレンが考案したフュマージュ(fumage )は、濡れたキャンバス(後に水彩絵具で描いたキャンバス)の表面をろうそくの煙で燻して黒い跡を付ける技法で(フランス語のフュメ(fumer )は「煙草を吸う、燻す」の意)、幻影、亡霊、夢などを表現するシュルレアリスムの自動記述 を絵画に応用したものとして、サルバドール・ダリ の《秋のカニバリズム(人肉食)》(1936年)でもフュマージュと思われる技法が用いられている[ 14] [ 15] [ 16] 。
同年に制作し始め、翌年に完成させた代表作《禁じられた国》について、パーレン研究者のアンドレアス・ノイフェルトは、フュマージュの技法を取り入れた最初の大規模な作品であり、また、妻アリス・ラオンとピカソ の関係を知ったパーレンが鬱状態に陥り、これを芸術に昇華させた作品であると説明している[ 17] 。
《関節のある雲 II》(ただし、これは国際シュルレアリスム展出品作ではなく、1940年制作の小さい作品)(Paalen Archiv Berlin; 写真提供: Andreas Neufert)
《異人たち》1937年 (Paalen Archiv Berlin; 写真提供: Andreas Neufert)
1938年 にブルトンとエリュアールによってパリ8区 フォーブール・サントノレ通り (フランス語版 ) のジョルジュ・ウィルデンシュタイン (フランス語版 ) 画廊で開催された国際シュルレアリスム展 (フランス語版 ) では、マルセル・デュシャン 、サルバドール・ダリ、マン・レイ とともに企画に参加し、草や木の葉 、泥 などを使って入口・主展示室のインスタレーション 「水と茂み」を制作した。さらに、スポンジ に包まれた傘《関節のある雲》などのオブジェ 、代表作《トーテム のような風景》などの絵画を発表した。ジョルジョ・デ・キリコ 、マックス・エルンスト 、パウル・クレー 、アンドレ・マッソン 、ジョアン・ミロ 、ピエール・ロワ らも出品したこの展覧会は、国際シュルレアリスム展のうちで最も重要なものであり[ 18] [ 3] 、「パーレンが(シュルレアリスムの)運動に参加して僅か2年弱であったことを考慮すれば、この展覧会における彼の著しい挙用には留意される」[ 19] 。
また、前衛芸術 雑誌『ミノトール (フランス語版 ) 』にも1936年6月から1939年5月の最終号まで継続的に作品を掲載した。アルベール・スキラ (フランス語版 ) を発行人、テリアード (フランス語版 ) を美術主幹として1933年6月に創刊された同誌は、1937年の第10号からブルトン、エリュアール、デュシャンらが編集委員として参加し、事実上、シュルレアリスムの雑誌となり、とりわけ、ハンス・ベルメール 、ポール・デルヴォー 、ロベルト・マッタ 、アルベルト・ジャコメッティ らの活動の場であった[ 4] 。
上記のほか、《ファタ・アラスカ》、《均衡》、《異人たち》、《磁気嵐》、《恐怖に硬直した風景》、《太陽黒点》などのパーレンのシュルレアリスムの代表作は、ほとんど1937年と38年の2年間に集中的に制作・発表されている。
メキシコ
サン・アンヘル (メキシコシティ)のパーレンのアトリエ(パーレン自身による撮影、1946年頃)
フリーダ・カーロとの出会い
第二次世界大戦が勃発する前年の1938年、ブルトンが「欧州文化の解毒剤 を求めて」「シュルレアルな国」メキシコを訪れ、前年にメキシコに亡命したトロツキー とともに「独立革命芸術のために」と題する声明を起草し(ただし、トロツキーの代わりに画家ディエゴ・リベラ が署名)、独立革命芸術国際連盟 (FIARI) を結成した[ 20] [ 21] 。パーレンもまた、翌1939年にニューヨーク を訪れ、米国でシュルレアリスムを紹介したジュリアン・レヴィー (英語版 ) に出会い、米国を旅した後、秋にメキシコ美術画廊 (英語版 ) (GAM)[ 22] で開催される国際シュルリアリスム展の準備のためにメキシコシティ に向かった。ここでフリーダ・カーロに会い、彼女の招きに応じてこの地に滞在する決意をした[ 6] [ 18] 。
DYN誌
『DYN』誌創刊号(1942年、写真提供: Andreas Neufert)
『DYN』誌第4-5号(アメリカ州の先住民特集、1943年、写真提供: Andreas Neufert)
環境の変化に応じてパーレンの作品世界も変化し、以後、彼はバーネット・ニューマン 、ジャクソン・ポロック 、ロバート・マザウェル (英語版 ) 、マーク・ロスコ らとともに米国の抽象絵画 、特に抽象表現主義の発展において重要な役割を果たすことになる。また、アメリカ先住民 の文化、量子論 、およびマルクス主義 の影響を受けた芸術理論を展開し[ 3] [ 18] 、発表の場として1942年に芸術雑誌『DYN (ディン)』を創刊した。DYNの語源は、ギリシャ語の「可能な限り(κατὰ τὸ δυνατόν )」である。本誌はメキシコシティだけでなく、ニューヨーク、パリ、ロンドンでも配布された。創刊号に掲載されたパーレンの「シュルレアリスムよ、さらば」と題する記事は、第二次大戦下、ニューヨークに亡命していたブルトン、デュシャン、エルンストらフランスのシュルレアリストに衝撃を与えた。パーレンは、シュルレアリスムを「未来志向がなく・・・既存の精神状態や悪夢を映し出すだけの鏡のような装置」であり、「袋小路」であると批判したのである[ 23] 。『DYN』誌の編集にはマザウェルのほか、画家ミゲル・コバルビアス 、詩人セサル・モロ (フランス語版 ) 、小説家ヘンリー・ミラー 、アナイス・ニン 、画家ゴードン・オンスロー・フォード (英語版 ) らが参加し、表紙にはマザウェル、ポロック、マヌエル・アルバレス・ブラボ 、アリス・ラオン、ロベルト・マッタ、ハリー・ホルツマン (英語版 ) 、ヘンリー・ムーア らの作品が掲載された。また、内容的にも詩 、視覚芸術 、人類学、哲学 など多岐にわたるテーマを取り上げている[ 24] 。
先住民の文化
「抽象芸術はすべて霊的である」、「芸術、科学、宗教は分かち難い」[ 25] と主張するパーレンは、人類学者フランツ・ボアズ の影響を受けて文化多元主義 に基づく芸術理論を提唱し、特にキクラデス諸島 からメキシコ、太平洋岸北西部 まで様々な先住民 の文化 、神話 、儀式 などを研究し、1941年以降に発表された《自由な空間》、《宇宙での初演》、《未来の祖先》などの、シュルレアリスム時代のものとは全く異なる一連の作品に取り入れている[ 25] 。
1943年にイサム・ノグチ を介してベネズエラ 生まれの芸術家ルシータ・ウルタード・デル・ソラールに出会い、46年にアリス・ラオンと離婚し、ルシータと結婚、メキシコの市民権を取得した。ルシータとともにオルメカ やマヤ文明 について調査し、工芸品 等を蒐集した。民族学的に重要なこれらの蒐集品の多くは、現在ニューヨークのメトロポリタン美術館 に所蔵されている[ 7] [ 26] 。
アメリカ合衆国、再びフランス、メキシコ
1948年、ルシータとともにカリフォルニア州 マリン郡 ミルバレー (英語版 ) に移住。ここで、ゴードン・オンスロー・フォード、リー・マリカン (英語版 ) とともに「DYN」の活動を受け継ぐ新グループ「ダイナトン (Dynaton )」を結成し、同年および1950年にサンフランシスコ でダイナトン展を開催した[ 27] 。これは、再び欧州のシュルレアリスムの影響を受けながら、宇宙と自然の諸要素を取り入れ、「無意識の精神の超越的な力」を表現しようとする試みである[ 3] 。
だが、パーレンは、メキシコに戻ってブルトンとの関係を回復したいと願っていた[ 26] 。1951年、ルシータと離婚して[ 26] メキシコに向かい、渡仏。パリに3年間滞在した。滞在中はシュルレアリスムの画家カート・セリグマン (フランス語版 ) のもとに身を寄せ、ブルトンと和解すると、夏の間は彼がサン=シルク=ラポピー (フランス語版 ) (オクシタニー地域圏 ロット県 )に購入した古い宿屋に滞在し、再びブルトンを中心とするシュルレアリスムの活動に参加した。ブルトンが創刊した『媒体 ― シュルレアリスム・コミュニカシオン』誌第2号(1954年刊行)ではパーレン特集が組まれ、ブルトンのほか、メキシコで交友を深めたバンジャマン・ペレ 、ジュリアン・グラック らが寄稿している[ 28] 。
1954年にメキシコに戻ったパーレンは双極性障害 など健康上の問題を抱えていたため[ 26] 、ゴードン・オンスロー・フォードとエヴァ・スルザーの支援を得て、モレロス州 のテポストラン で古い家を購入し、以後、亡くなるまでここに暮らし、フランスの作家アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ やメキシコの詩人オクタビオ・パス を招いた。この時期、パーレンは絵画だけでなく、戯曲 や短編小説 も執筆し、体調が悪いにもかかわらず、精力的な活動を行った。1959年9月24日の夜、気分がすぐれないときにしばしば滞在していた、テポストランの南西約100キロのところにあるタスコ のホテルを出て、丘に向かった。翌日、遺体で発見された。拳銃自殺であった[ 26] 。享年54歳。
作品
主な作品
主に公式ウェブサイトの主な作品《ART 》による(画像もこのサイトに掲載されている)。
作品名(仮訳)
原題
年
備考
《ドストエフスキー のカラマーゾフ のための挿絵》
Illustration for Dostojevsky’s Karamazov
1923
個人蔵(ベルリン)
《根を使ったオブジェ》
Objet fait avec racine
1933
オブジェ
《通知》
L’avertissement
1934
抽象画、個人蔵(Galerie Döbele、ドレスデン )
《雨の多様性》
Variétés de la pluie
1935
素描、個人蔵(ベルリン)
《踏切》
Passage à niveau
1935
オブジェ
《2つの頭》
Deux Tetes II
1935
抽象画、油彩・テンペラ (キャンバス)95.9 x 128.3 cm
《月時計》
Cadran Lunaire
1935
抽象画、油彩・テンペラ(キャンバス)130.8 x 83.8 cm
《嵐の車輪》
La Roue de l’orage
1936
抽象画、油彩(キャンバス)
《光の塔》
Les tours de lumière
1936
シュルレアリスム、油彩(キャンバス)41 x 33 cm
《禁じられた国》
Pays interdit
1936-37
シュルレアリスム、油彩・フュマージュ(キャンバス)個人蔵(ベルリン)194.6 x 128.9 cm
《トーテムのような風景》
Paysage totémique
1937
シュルレアリスム、Gertrud Parker Collection(カリフォルニア州ティブロン (英語版 ) )
《ファタ・アラスカ》
Fata Alaska
1937
シュルレアリスム、個人蔵(ブリュッセル )
《均衡 ― 解釈された夢、ゴシック》
La balance
1937
シュルレアリスム、油彩(キャンバス)99 x 72.5 cm、個人蔵(Gallery Wendi Norris、サンフランシスコ)
《トーテムのような風景》
Paysage totémique
1937
シュルレアリスム、Lucid Art Foundation(カリフォルニア州インヴァネス (英語版 ) )
《異人たち》
Les étrangers
1937
シュルレアリスム、個人蔵(ニューヨーク)
《空間の策略》
Le génie de l'espèce
1938
オブジェ(骨を使った拳銃の造形)フランツ・マイヤー美術館 (英語版 ) (メキシコシティ)
《磁気嵐》
Orages magnétiques
1938
シュルレアリスム、油彩(キャンバス)74 x 102 cm、Weinstein Gallery(サンフランシスコ)
《恐怖に硬直した風景》
Pays medusé
1938
シュルレアリスム、個人蔵(パリ)
《土星の王子たちの戦い III》
Combat des princes saturniens III
1939
シュルレアリスム、油彩(キャンバス)100 x 73 cm、個人蔵(Gallery Wendi Norris、サンフランシスコ)
《蛸の空》
Ciel de pieuvre
1938
シュルレアリスム、個人蔵(Galerie Malingue、パリ)
《土星の王子たちの戦い II》
Combat des princes saturniens II
1938
シュルレアリスム、個人蔵(ニューヨーク)
《太陽黒点》
Taches solaires
1938
シュルレアリスム、油彩・フュマージュ(キャンバス)129.5 x 99 cm、個人蔵(Gallery Wendi Norris、サンフランシスコ)
《西洋杉になった小妖精》
Lutin cedré
1938
フュマージュ、個人蔵(ベルリン)
《無題》
Untitled
1939
墨、テンペラ(木の葉または樹皮)25.4 x 12.7 cm
《関節のある雲 II》
Nuage articulé II
1940
オブジェ、個人蔵(ベルリン)
《正確な時間 II》
L’heure exacte II
1940
オブジェ、個人蔵(ベルリン)
《無題》
Untitled
1940
抽象画、油彩・フュマージュ(キャンバス)40.6 x 40.6 cm
《自由な空間》
Espace libre
1941
抽象画、Lucid Art Foundation(カリフォルニア州インヴァネス)
《宇宙での初演》
Les premières spatiales
1941-44
抽象画、個人蔵(スイス)
《宇宙進化論者》
Les cosmogones
1944
抽象画、244 x 236 cm、Weinstein Gallery(サンフランシスコ)
《通夜》
El Velorio
1946
抽象画、オーストリア絵画館
《未来の祖先》
Ancêtres à venir
1947
抽象画、個人蔵(ニューヨーク)
《メキシコの祭り》
Fête mexicaine
1947
抽象画、Weinstein Gallery(サンフランシスコ)
《モニュメントのための試作》
Projet pour un monument
1948
オブジェ(木)114 x 25 cm、Lucid Art Foundation(カリフォルニア州インヴァネス)
《熱帯の夜》
Nuit tropicale
1948
抽象画、油彩(キャンバス)149 x 140 cm
《使者たち》
Messagers
1949
抽象画
《3つの極のある使者》
Le Messager des trois Pôles
1949
抽象画、油彩(キャンバス)203 x 155 cm
《心の水晶》
Crystals of the Mind
1950
抽象画、油彩(板)144.8 x 105.4 cm
《無題》
Untitled
1951
抽象画、油彩(キャンバス)18 x 27 cm(Gallery Wendi Norris、サンフランシスコ)
《投げられた石》
La pierre lancée
1953
抽象画、個人蔵(Gallery Wendi Norris、サンフランシスコ)
《経度局》
Bureau de Longitudes
1954
抽象画、油彩・フュマージュ(キャンバス)55 x 198 cm
所蔵美術館
ウェンディ・ノリス画廊(サンフランシスコ)の一覧 参照。ただし、各サイトでの検索結果から作品数は少ないと思われる。
脚注
^ ヴォルフガング・パーレン協会公式ウェブサイト の情報は、主に同協会の会長で美術史 家のアンドレアス・ノイフェルト (ドイツ語版 ) の著書(Andreas Neufert, Wolfgang Paalen. Im Inneren des Wals, Monografie, Schriften und Oevrekatalog , Vienna/New York (Springer) 1999、および、Andreas Neufert, Auf Liebe und Tod, Das Leben des Surrealisten Wolfgang Paalen , Berlin (Parthas) 2015)に基づくものである。
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^ Andreas Neufert (1999) (ドイツ語). Wolfgang Paalen. Im Inneren des Wals, Monografie, Schriften und Oevrekatalog . Vienna: Springer. p. 111
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^ 洋画家久山雅史は、フュマージュを応用し、燻した後、水で洗い流すことで、「湧き出る色彩と流れ落ちる煤が定着し、美しいコントラストが得られる」C-フュマージュ(コンセプト‐フュマージュ)の技法を生み出した(アートギャラリー北野 )。
^ Andreas Neufert (2016年4月14日). “Wolfgang Paalen - Paris and Surrealism ” (英語). Wolfgang Paalen Society (Wolfgang Paalen Gesellschaft e.V.). 2019年10月2日 閲覧。
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^ 石井康史「外部について ― 瀧口修造、オクタビオ・パス、アレッホ・カルペンティエール 」『Booklet』第14巻、2006年、24-37頁。
^ “Pour un art révolutionnaire indépendant ” (フランス語). andrebreton.fr . 2019年9月22日 閲覧。 “Rédigé avec Léon Trotski mais signé de Diego Rivera, ce Manifeste pour un « art révolutionnaire indépendant » donne enfin, en 1938, la formule définitive des rapports entre le surréalisme et la révolution. (Gilles Mioni, 2011)”
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参考資料
Andreas Neufert, Wolfgang Paalen. Im Inneren des Wals, Monografie, Schriften und Oevrekatalog , Vienna/New York (Springer) 1999
Andreas Neufert, Auf Liebe und Tod, Das Leben des Surrealisten Wolfgang Paalen , Berlin (Parthas) 2015
Andreas Neufert, BIOGRAPHY - Wolfgang Paalen Society (Wolfgang Paalen Gesellschaft e.V.)
Wolfgang Paalen - Solomon R. Guggenheim Foundation
Wolfgang Paalen - Weinstein Gallery
Wolfgang Paalen - Gallery Wendi Norris
Andreas Neufert, Franz Smola, Wolfgang Paalen (1905–1959) - An Austrian Surrealist in Paris and Mexico - Österreichische Galerie Belvedere
Frieze Masters - Wolfgang Paalen and Abstract Spiritualism - Gallery Wendi Norris
Andreas Neufert, Wolfgang Paalen's Implicit Spaces (Translated from the German by Eva Wilson)
関連項目
外部リンク
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