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三菱重工業長崎造船所(みつびしじゅうこうぎょう ながさきぞうせんじょ)は、長崎県長崎市と諫早市にある三菱重工業の造船所・工場。正式名称は三菱重工業株式会社長崎造船所。略称長船(ながせん)。
三菱重工業下関造船所、三菱重工業神戸造船所と共に三菱重工業の主力工場・造船所の1つであり、同社の発祥の地である[1]。長崎造船所のうち、小菅修船場跡、第三船渠、ジャイアント・カンチレバークレーン、旧木型場(現在は史料館)、占勝閣の5資産が世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」(全23資産)の構成資産となっている。
概要
長崎県長崎市にある本工場(長崎造船所)、香焼工場、幸町工場と、諫早市の諫早工場からなる。
大型客船や大型タンカー、LPG船等の船舶のほか、発電プラント、環境保全設備、海水淡水化プラント等、多岐にわたる製品を製造している。
本工場(長崎造船所)は、1857年(安政4年)に日本初の艦船修理工場「長崎鎔鉄所」として誕生し、江戸幕府から明治政府に管理が移った後、1887年に岩崎弥太郎率いる三菱商会(現在の日本郵船)に払い下げ、以後民営の造船所として多数の艦船を建造した[2]。戦艦「武蔵」を建造したことでも有名である。
戦後、財閥解体の影響で三菱重工は3社に分割されるなど経営母体は紆余曲折したが、本工場は賠償撤去指定工場を免れ存続する。
一時期は受注も途絶え小型の漁船を細々と建造する有様であったが、1950年の朝鮮戦争前後よりその高い造船技術を評価され、以後オイルショック頃まで大型タンカー受注が続いた[3]。
現在は民間船舶の他海上自衛隊の護衛艦も多数建造している。1950年代には後甲板の傾斜に特徴的な設計を持つ護衛艦を多く建造し、護衛艦における「オランダ坂」の名前の由来となった。
飽の浦本工場内には三菱重工業長崎造船所史料館が開館されている。
沿革
ギャラリー
【世界遺産】とあるのは明治日本の産業革命遺産の構成資産であることを示す。
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明治時代の長崎三菱造船所(第二ドック)
手彩色絵葉書
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1984年10月三菱重工長崎ドックナンバー2
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明治から大正頃の第三ドック(第三船渠)【世界遺産】
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海自艦船入渠中の第三ドック(第三船渠)【世界遺産】
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三菱重工業長崎造船所 第三ドック(第三船渠)【世界遺産】
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三菱造船所(長崎)で建造中の巡洋戦艦 霧島の絵葉書(1914年8月9日消印)
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ジャイアント・カンチレバークレーン(明治時代)【世界遺産】
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ジャイアント・カンチレバークレーン(明治から大正の頃)【世界遺産】
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ジャイアント・カンチレバークレーン(現在)【世界遺産】
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ジャイアント・カンチレバークレーン(ライトアップ)【世界遺産】
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占勝閣【世界遺産】
主な製品
戦前・戦中に建造された船舶
民間向け
- 夕顔丸(1887年 - 1962年)、800トン
- 筑後川丸(1890年 - 不詳)、1,200トン
- 須磨丸(1895年 - 1926年)、1,592トン
- 常陸丸・初代(1898年 - 1904年)、6,172トン
- 常陸丸・二代目(1906年 - 1917年)、6,716トン
- 対馬丸・鉄道連絡船(1905年 - 1925年)
- 丹後丸(1905年 - 1944年)、7,463トン
- 小笠原丸(1906年 - 1945年)、1,404トン
- 天洋丸(1908年 - 1933年)、13,454トン
- 地洋丸(1908年 - 1916年)、13,426トン
- 紀洋丸(1910年 - 1935年)、9,287トン
- 春洋丸(1911年 - 1937年)、13,377トン
- さんとす丸(1925年 - 1944年)、7,266トン
- ぶゑのすあいれす丸(1929年 - 1943年)、9,625トン
- うらる丸(1929年 - 1944年)、6,375トン
- りおでじゃねろ丸(1930年 - 1944年)、9,626トン
- 浅間丸(1929年 - 1944年)、16,947トン
- 龍田丸(1927年 - 1943年)、16,955トン
- 名古屋丸(1932年 - 1944年)、6,071トン
- 金剛丸(1936年 - 1953年)、7,082トン
- 高砂丸(1937年 - 1956年)、9,315トン[16]
- 興安丸(1937年 - 1970年)、7,079トン
- ぶらじる丸(1939年 - 1942年)、12,752トン
- あるぜんちな丸(後の空母「海鷹」)
- 新田丸(後の空母「冲鷹」)
- 八幡丸(後の空母「雲鷹」)
日本海軍向け
戦後に建造された船舶
民間向け
海上自衛隊向け
海上保安庁向け
魚雷
工場一覧
- 本工場(長崎造船所)
- 香焼工場
- 幸町工場
- 諫早工場
- 堂崎工場(旧:長崎兵器製作所)
幸町工場の跡地活用について
2015年7月23日、三菱重工業は長崎地区の工場再編計画を発表し、2017年度中に幸町工場の全事業を閉鎖することとなった。これに関連して三菱重工業は2017年1月、幸町工場の跡地活用に関して「長崎の街に新しいライフスタイルと仕事を創出し、『住む・働く・楽しむ』という3つの視点から豊かな暮らしを実現する長崎駅北部の新拠点」「長崎の歴史的背景や長崎らしさを活かしつつ、少子高齢化の時代においても『来訪者・住民を問わず多世代が交流し、活気あふれる持続可能なまちづくりを先導する拠点』」というまちづくりコンセプトを発表[20]。このコンセプトに基づいて幸町工場一帯の跡地活用策(事業計画案)を公募することになった[21]。この公募には以下の企業グループが公募したことが報じられている。
2018年4月26日、ジャパネットホールディングスとジョーンズ・ラング・ラサール (JLL) グループ、竹中工務店の3社で結成された「ジャパネットホールディングスグループ」が三菱重工業との間で幸町工場の跡地再開発業務の優先交渉権を獲得したことを発表した[24][25][26]。ジャパネットが事業主となり、総合プロデュースをJLLグループが、スタジアムの設計を竹中がそれぞれ担当。23,000人規模収容の球技専用スタジアムを核に、スタジアムビューホテル、タワーマンション、オフィス、地域密着型の商業施設を配置する計画とした[27]。総事業費は約1000億円となる[28]が、ジャパネットが借り入れを含めて全額を拠出する予定という[29]。2022年に着工し、2024年10月14日開業予定[28]。
香焼工場新造船部門の売却
香焼工場では、大型のLNG運搬船等が建造されてきたが、2010年代以降、中国・韓国系造船企業の安値攻勢が激化し、受注低迷により建造ドックの稼働率が低下していた。このため三菱重工業は、2021年(令和3年)3月30日に、香焼工場の建造ドック等の新造船エリアを大島造船所に2022年度までに段階的に売却する契約を締結したと発表した[12][13][14]。香焼工場の修繕用ドックは引き続き三菱重工業が保有し、船舶修繕事業に力を入れていくとしている[12]。
2022年(令和4年)12月27日に、三菱重工業と大島造船所は、香焼工場新造船エリアの引き渡し完了を発表した[15]。大島造船所は、取得した香焼工場で主力のばら積み貨物船の他、LNG燃料船や洋上風力発電設備の浮体構造物の建造も検討しており、2023年度の本格稼働を目指すとしている[15]。
出典
関連文献
関連項目
外部リンク
座標: 北緯32度44分31.9秒 東経129度51分30.7秒 / 北緯32.742194度 東経129.858528度 / 32.742194; 129.858528 (三菱重工業長崎造船所)