伊藤俊輔 (政治家)
伊藤 俊輔(いとう しゅんすけ、1979年8月5日 - )は、日本の政治家。立憲民主党所属の衆議院議員(3期)。 来歴東京都町田市生まれ[1]。小学校から大学まで桐蔭学園で過ごした後、北京大学留学を経て、中央大学経済学部国際経済学科を卒業[2]。大学卒業後は起業し、航空貨物会社を経営[1]。中央大学OB探訪によると、”桐蔭横浜大学を卒業し中国の北京大に留学、25歳で中央大学経済学部に編入学。3年次からの2年間を多摩キャンパスで学んだ。”と記載されている[3]。 2012年、維新政治塾に入塾[2]。同年、父・公介が次期衆議院議員総選挙で自由民主党の公認を得られず、引退を表明(2009年の第45回衆議院議員総選挙で落選)[4]。第46回衆議院議員総選挙東京23区から日本維新の会公認で立候補する俊輔を支援する意向を示し、俊輔は同党公認で立候補したが[5]、自民党新人の小倉將信、民主党前職の櫛渕万里の後塵を拝し、得票数3位で落選した[6]。 2014年の第47回衆議院議員総選挙には維新の党公認で東京23区から立候補したが、自民党前職の小倉、民主党元職の櫛渕に再び敗れた[7]。 2015年の維新の党分裂の際は新党おおさか維新の会(翌年に日本維新の会に党名変更)に参加し、2016年2月9日、おおさか維新の会の東京23区支部長に就任[8]。 2017年9月28日、衆議院解散。同日、民進党は希望の党への合流を決定[9]。9月30日、日本維新の会は希望の党との間で候補者のすみ分けに合意し、東京都内の選挙区では候補者を擁立しないことを発表[10]。伊藤は取材に対し、「厳しい判断かもしれないが、前向きにとらえている。希望の党とは政策の方向性は一致しており、改革を連携して進めるという判断だと思う」と述べた[11]。 10月3日、希望の党は衆院選の第1次公認192人を発表。同党が東京23区において伊藤を公認し、民進党に所属していた櫛渕は千葉3区に擁立することが明らかとなった[12]。10月22日投開票の第48回衆議院議員総選挙で、希望の党は比例東京ブロックで3議席を獲得。伊藤は小倉に小選挙区で敗れるも、3番目の惜敗率(69.171%)により比例で初当選を果たした[13][14][15]。 2018年5月7日、民進党と希望の党の合流により結党された国民民主党に参加した[16]。 2019年1月15日、国民民主党へ離党届を提出、立憲民主党の衆議院会派である「立憲民主党・無所属フォーラム」への入会を届け出た[17]。所属していた国民民主党は同月23日の同党総務会において「当選1期の新人議員であり、今回の行為は苦慮の上のものであったことは推察される」とする半面、伊藤の行為が「党の結束を乱す行為・言動」に抵触するものだと指摘し、伊藤に対して「公職の辞任勧告」を行った上で離党届を受理することが認められた[18]。 比例復活のため入党は不可能であったが、2020年9月15日に新たな立憲民主党が結成されると、同党に参加した。同年8月5日、日本共産党の衆院選公認候補の早川寛は、出馬予定の選挙区を東京21区から東京23区に変更すると発表[19]。 2021年10月13日、日本共産党は次期衆院選に向け、立憲民主党と競合する22の選挙区で候補者を取り下げる方針を発表。その中には東京23区も含まれ、早川は立候補を見送り、野党一本化が実現した[20]。同年10月31日の第49回衆議院議員総選挙に立憲民主党公認で立候補。小倉に敗れるも、票差を前回より縮め、再び比例復活によって再選[21][22]。枝野幸男代表の辞任に伴う代表選挙(11月30日実施)では小川淳也の推薦人に名を連ねた[23]。 2024年9月23日に実施された代表選挙では野田佳彦の推薦人に名を連ねた[24]。 同年10月27日の第50回衆議院議員総選挙では、小倉が立候補を見送る中で自民党の新人に比例復活を許さず3選[25]。 政策・主張憲法問題
ジェンダー問題
その他
人物
所属団体・議員連盟
選挙歴
脚注
外部リンク
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