北原 佐和子(きたはら さわこ、1964年3月19日[1] - )は、日本の女優、元歌手である。本名は同じ。
埼玉県入間郡福岡町(のち上福岡市、現ふじみ野市)出身。デビュー時の所属事務所はオスカープロモーション、現在はプレシャスライフ オフィスSawako。朗読会主催はプレシャスライフ 心の朗読会。芸能活動のかたわらでホームヘルパー2級、介護福祉士、ケアマネジャー、准看護師の資格を取得し、介護士、准看護師としても現場で働いている[2]。
読者モデルとして掲載された『mcシスター』(婦人画報社)を見たオスカープロモーションのマネージャーによってスカウトされ、美少女モデルを務める[3]。
高校在学中の1981年にミス・ヤングジャンプに選ばれ、グラビアデビューと共に本格的に芸能活動を始める[4]。
同じ事務所の所属であった真鍋ちえみ、三井比佐子とともに、1981年にアイドルユニット「パンジー」を結成[5]。自身の18歳の誕生日である1982年3月19日にシングル「マイ・ボーイフレンド」で歌手としてソロデビューすると、1985年にかけてシングル10作品、アルバム6作品をリリースした[5]。
1982年に数多くの人気アイドルがデビューした、俗にいう「花の82年組」の1人であり[4]、当時のキャッチフレーズは「さわやか恋人一年生」[5]。
のちに女優へと転身すると、なで肩で首が長くて小顔なためカツラと着物が似合うこともあって時代劇で重用された[5]。また、2000年代に川上麻衣子や神保悟志とともに、東海テレビ制作の昼ドラに常連出演した(『牡丹と薔薇』など)。
障害者との交流をきっかけに20代のころより介護やボランティアに関心をもち、2007年にホームヘルパー2級の資格を取得すると、芸能活動のかたわらで2008年より介護士として東京都内の施設で介護実務に携わる[6][7][8]。2014年には介護福祉士の国家資格を取得[9]。同年12月には、介護現場での自らの体験をもとに書籍『女優が実践した介護が変わる魔法の声かけ』を執筆[6]。「介護はじめの一歩」と題して講演活動を行っている[10]。
またボランティア活動として、2011年よりワンライフプロジェクト東京支部代表としてワンライフプロジェクト『たったひとつの命だから』の朗読会を各地で開催。2013年には新たに自ら代表を務めるボランティア団体「プレシャスライフ 心の朗読会」を立ち上げて[11]、「いのちと心の朗読会」を各地の小中学校や病院などで開催している[8]。
介護と女優のダブルワークを続けるかたわらで、2016年にはケアマネジャー資格を取得[12][13]。さらに、医師や看護師が話すことを理解できるようになりたいとして准看護師を目指して事業所での仕事を一時中断し准看護学校に通い[14]、准看護師試験に合格して2020年3月に卒業[15]、翌4月より看護師として勤務を開始した[16]。2024年現在は、都内の認知症専門病院で週4日ほど勤務している[4][17]。
2020年12月、自身のYouTubeで「さわちゃんねる【北原佐和子】」を開設した[18]。
子供の頃から親に「将来は看護師か教育者か警察官を選びなさい」と言われて育てられた[5]。年子の妹がおり、当時は親戚が集まると、妹は陽気で皆の前で歌ったり踊ったりしたの対し、本人は親の後ろに隠れるとても内気な性格だった[5]。思春期を迎えた頃、毎日決まった時間に起きて同じ時間に通学する生活に疑問を感じ始めた。変化を求めて雑誌の読者コーナーに自分の写真を送ったところ、月刊誌『mcシスター』に1ページ分を使って大きく掲載された[5]。
当時新参のモデル事務所だったオスカープロモーションから声がかかり、3か月ほどモデルのレッスンを受けた[5]。ある日、友達とたまたま遊びに行った男子校の学園祭で行われたコンテスト[注 3]に誘われるまま参加[5]。同コンテストでミス・ヤングジャンプに選ばれたのを機に、モデルの仕事や色々なオーディションの話が舞い込んだ[5]。
モデル活動当時は私立の女子高に通っており、事務所に「学校が厳しいので水着の仕事はやれない」と伝えていたため、水着撮影をNGにしていた[4][5]。ある日銀行のキャンペーンモデルに選ばれ、ハワイでのポスター撮影のため空港に訪れた。するとマネジャーから突然、「今回は水着の仕事だから」と告げられて断りきれず撮影した[4]。帰国後、等身大の水着ポスターが銀行に貼られると学校に知られて“学校か、仕事か”と選択を迫られた[5]。これにより高校3年生の時に公立の定時制高校に転校し[5]、以後水着の仕事もするようになった[4]。
アイドル歌手時代(1982年頃)は事務所の管理が厳しく、性別関係なく他のアイドルなどと極力接点を持たないよう北原のマネジャーにガードされていた[注 4]。また、同期アイドルたちより2学年ほど年上だったため、彼女たちと距離を感じていたという[4]。
当時は歌番組に力を持つ他のアイドル事務所の歌手で出演枠が埋まり、新参のモデル事務所だったオスカーは北原の売出しに苦労したという[5]。このためレコードを出すたびに北原は週末に全国のレコード店をコツコツ回ってサイン会を開いたり、駅の地下街やデパートの屋上などの簡易ステージで歌った[5]。デビューから3年ほどアイドルとして活動したが歌手を辞めることを決意し、自らレコード会社に挨拶に出向いて歌手活動を終えた[5]。
遡って1983年の月曜ワイド劇場枠の2時間ドラマ『女子少年院』(テレビ朝日系)に不良役で出演。乱闘シーンでは先頭を切って喧嘩するなどそれまでより懸命に役作りをしたことから、本作は女優転向のきっかけとなった[注 5]。
ある雨の日、車を運転中に体にマヒのある男性がタクシーを探しているのを見かけて彼の前で停車した[4]。勇気を出して「よろしかったらどうぞ乗ってください」と声をかけて彼の自宅近くまで送った[注 6]。このとき、「困っている人がいたら自然と力になれる自分になりたい。見て見ぬふりはしたくない」と思い始めた[4]。
その後40代のころ実際に行動へ移すことを決意し、41歳ごろからホームヘルパー2級、介護福祉士、ケアマネジャーの資格をそれぞれ取得するようになった[4]。その後在宅診療にも同行したが、医師と看護師の会話は専門性が高すぎて理解できず、もどかしく思うと同時に介護医療分野にもっと関わりたいと思うようになった[4]。北原の悩む様子に気づいた医師から看護学校で学ぶことを勧められたことが、その後准看護師の資格取得につながった[4]。
1982年のデビューから1985年までテイチク(Continentalレーベル)よりシングルレコード全10枚発売。
1982年のデビューから1984年まで、6枚のアルバムを発売。
上記の全アルバムがデジタル・リマスタリング音源でCD化され発売。
全シングル、A面・B面+ボーナストラック収録。デジタル・リマスタリング音源。2枚とも収録曲は同じ。
全シングルのA面とアルバムからの6曲、計16曲収録