太田典礼
太田 典礼(おおた てんれい(旧名:武夫)、1900年10月7日 - 1985年12月5日[2])は、日本の産婦人科医、政治家。元衆議院議員(当選1回)。九州帝国大学医学部卒業[3]。京都帝国大学大学院産婦人科専攻(大正15年)修了[3]。産児制限と安楽死を説き、子宮内避妊器具の草分けのひとつである「太田リング」を考案した[4]。優生保護法の制定に尽力。日本安楽死協会(のち日本尊厳死協会と改称)を設立。 略歴京都府与謝郡生まれ。代々産科医で、典禮の名が受け継がれており、武夫は八代目典禮を1942年に襲名した。京都府立第四中学校(現京都府立宮津高等学校)を卒業した後に、第三高等学校を卒業する。九州帝国大学医学部を卒業後に医師になる。学生時代に、女性が沢山の子どもを産むことはそれだけ女性の負担になり、母体の命に危険だとして1、2程度に抑制するという産児制限の推進者であるマーガレット・サンガーの思想を知り、以後母体のために避妊や人工妊娠中絶の運動を行ってゆく。 1946年、第22回衆議院議員総選挙に日本共産党公認で京都全府区から立候補するが、落選。その後は日本社会党に移籍し、1947年、第23回衆議院議員総選挙で旧京都2区から日本社会党公認で立候補し、当選。その後、加藤シヅエらとともに「優生保護法」(1948年施行、現・母体保護法)の制定に尽力した。その後、日本社会党から労働者農民党に参加するが、1949年、第24回衆議院議員総選挙で落選する。1962年、第6回参議院議員通常選挙に、京都府選挙区から無所属で立候補するが落選し、政界を引退した。 また、日本の安楽死運動の第一人者としても知られる。1976年1月には、植松正らとともに「安楽死協会」を発足させる。同年6月には「日本安楽死協会」と改称、初代理事長に就任する。 しかし、太田は老人について「ドライないい方をすれば、もはや社会的に活動もできず、何の役にも立たなくなって生きているのは、社会的罪悪であり、その報いが、孤独である、と私は思う。」[5]と主張し、安楽死からさらに進めた自殺を提案したり、安楽死を説く中で、障害者について「劣等遺伝による障害児の出生を防止することも怠ってはならない」「障害者も老人もいていいのかどうかは別として、こういう人がいることは事実です。しかし、できるだけ少なくするのが理想ではないでしょうか。」[6]と主張した。また『週刊朝日』1972年10月27日号によれば、「植物人間は、人格のある人間だとは思ってません。無用の者は社会から消えるべきなんだ。社会の幸福、文明の進歩のために努力している人と、発展に貢献できる能力を持った人だけが優先性を持っているのであって、重症障害者やコウコツの老人から〈われわれを大事にしろ〉などと言われては、たまったものではない」[7]とも述べている。むろん、太田のこうした言動には非難が起こった[8]。太田は批判に対して幾度かは反発したものの、1983年8月には「安楽協死会」を「日本尊厳死協会」に改称している。もともと太田は「尊厳死」の用語を批判していたが[9]、にもかかわらず「尊厳死」を採用したのは、「安楽死」が持つマイナスのイメージを払拭し、語感の良い「尊厳死」に変えることで世間の批判を和らげようとしたからである[10]。 晩年に近くでは体調を崩すこともあったがチューブに繋がれて生きるような姿、自分で自分すら分からなくなってる状態は生きているとは言えないとして無理な延命措置は絶対に拒絶すると述べている。そうなったら寿命だとして自身が安楽死出来るようにすることを訴えている[11]。療養生活を送っていた1985年12月5日、死去。85歳没[12]。 著作(太田武夫名義) (太田典禮名義)
共編著
翻訳
脚注
関連項目外部リンク |