日中スーパー囲碁(にっちゅうすーぱーいご)は、1984年から2001年まで行われた、日本と中国の棋士のチームによる対抗戦形式の棋戦。中国語(簡体字)表記は中日围棋擂台赛。
日本と中国の間の親善交流はこれ以前からも行われていたが、国際棋戦のさきがけとして両国から選抜された棋士による対抗戦という形式で、「囲碁クラブ(日本棋院会報)」などの主催、NEC協賛で、1984年に開始された。正式タイトルは、「日中スーパー囲碁・NEC杯」。
また1992年には付属して、若手育成企画として「日中ジュニア三番勝負」が行われた。
第1回から11回までは両チームによる勝ち抜き戦で行われた。第2回以降は、1番手を女流棋士、2番手を新鋭棋士とするようになったが、第4〜9回は女流戦は無し。第12回から、日中のNEC杯優勝者同士による優勝戦3番勝負、日本のNEC杯俊英戦と中国のNEC杯新俊戦優勝者による俊英戦3番勝負、日本の女流本因坊戦(第12回は選抜棋士)と中国の全国囲棋個人戦女子部優勝者による女流戦3番勝負の、三部構成の個人戦となる。第16回で終了。11回までの対抗戦の戦績は日本の4勝7敗。
ルールは、対局場所が日本の場合は日本ルール、中国の場合は中国ルール。
1980年代前半においては、中国の囲碁のレベルは上がってきたもののまだ日本には追い付いていないだろうと思われており、当初は日本が「胸を貸す」的なムードがあったが、第1回に中国の2番手江鋳久がいきなり5人抜きして優位に立ち、日本の小林光一が6人抜きで追い上げたが、中国の主将聶衛平が小林光一、加藤正夫、藤沢秀行の3人抜きを果たして中国が勝利。中国がまったく日本に追い付き追いこしつつあることが判明し、お祭り気分は一気に吹き飛んで真剣勝負の様相を帯びた。
聶衛平は第2回には5人抜き、第3回にも主将決戦に勝利するなど「鉄のゴールキーパー」と呼ばれる大活躍をし、中国3連勝の立て役者となった。その後日本も巻き返して第8回までは4勝4敗としたが、中国は若手の成長も著しく、特に常昊が第10回に5人抜き、11回に6人抜きの活躍で、勝ち抜き戦は第11回までで日本の4勝7敗となった。中国のレベル向上が確かなものであることを裏付け、その後に始まった各種の世界選手権での韓国棋士の躍進とともに、日本の後退を印象づけることとなった。また聶衛平はこの棋戦の活躍で中国の国民的英雄となり、1988年に中国囲棋協会から棋聖の称号を授与された。
(左側が日本)
中国が8-7で勝利
中国が9-8で勝利
日本が7-2で勝利(残り 白石裕、大平修三、山城宏、武宮正樹)
中国が8-3で勝利(残り 江鋳久、劉小光、馬暁春、聶衛平)
日本が8-7で勝利
日本が7-5で勝利(残り 大竹英雄)
日本が7-3で勝利(残り 山城宏、淡路修三、武宮正樹)
中国が6-3で勝利(残り 馬暁春、聶衛平)
中国が7-5で勝利(残り 聶衛平)
中国が7-2で勝利(残り 劉小光、張文東、曹大元、馬暁春)
<女>女流戦、<俊>俊英戦、<優>優勝戦
1992-93年に「週刊碁」の企画で、第7回と並行して開催。出場資格は17歳五段以下。第8回以降は初戦が若手同士の対戦となったため、第2戦までで終了。
2015年8月8-10日に浙江省湖州市長興県で新財富杯日中スーパー囲碁30周年記念戦(新财富杯中日围棋擂台赛30周年纪念赛)を、各5人による対抗戦形式で実施。当時の対局の布石の途中から打ち継ぐと言う趣向で行われた。
結果
また5人の対抗戦の他に、第一回日中スーパー囲碁最終戦の藤沢秀行-聶衛平戦の15手目からを連碁で打ち継ぐ対戦があり、これは日本側が勝利した。 [1] [2]
2015年11月20日に安徽省蕪湖市で日中スーパー囲碁30周年記念大会が開催され、各5人による20手ずつの連碁を実施。
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