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木村健児

きむら けんじ
木村 健兒
木村 健兒
1928年の写真、満41歳。
本名 木村 米太郎 (きむら よねたろう)
別名義 木村 健二
木村 健次
木村 建治
生年月日 (1887-12-18) 1887年12月18日
没年月日 (1936-10-24) 1936年10月24日(48歳没)
出生地 日本の旗 日本 京都府京都市
死没地 日本の旗 日本 神奈川県横浜市鶴見区北寺尾町(現在の同区北寺尾
身長 174.2cm
職業 俳優
ジャンル 新派劇映画時代劇現代劇サイレント映画トーキー
活動期間 1918年 - 1936年
配偶者
著名な家族 川崎弘子(遠戚)
主な作品
父帰る
男に御用心
肉体美
愛は力だ
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木村 健児(きむら けんじ、1887年12月18日 - 1936年10月24日[1])は、日本の俳優である[2][3][4][5]木村 健兒と表記されることもある。本名は木村 米太郎(きむら よねたろう)[2][3][4][5]木村 健二木村 健次木村 建治と表記に揺れがある。新派を経て映画界に転向、昭和初期まで大きな体格を生かして松竹蒲田撮影所不二映画社などに出演した名脇役として知られる[4][5]

来歴・人物

1887年(明治20年)12月18日京都府京都市に生まれる[2][3][4][5]。旧制京都府第一中學校(現在の京都府立洛北高等学校)卒業[2][4][5]

天然色活動写真の連鎖劇を経て、1919年(大正8年)2月、本郷座に拠点を持つ岡本五郎石川新水栗島狭衣梅島昇らの新生劇団に加入し、新派悲劇『浅草物語』で初舞台を踏む[2][3][4][5]。その後、大阪府にあった弁天座、および楽天地での出演を経て、小織桂一郎木下吉之助福井茂兵衛などの新派俳優の巡業に加わる[2][3][4][5]。1924年(大正13年)4月には、神戸市三宮(現在の同市中央区)にあった三ノ宮歌舞伎座で一座を結成し、1926年(大正15年)7月には東京市下谷区二長町(現在の東京都台東区台東一・二丁目辺り)にあった市村座鈴蘭座を結成した[2][3][4][5]。同年9月、新派の舞台を離れて松竹蒲田撮影所へ入社[2][3][4][5]。以降、映画俳優に転向し、大柄な体格を生かして多数の作品で主に準主役・脇役として活躍した[2][3][4][5]

1928年(昭和3年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)など一部の資料によれば、東京府荏原郡蒲田町新宿1261番地(後の東京市蒲田区新宿町、現在の東京都大田区萩中2-3丁目及び西糀谷3-4丁目辺り)に住み、身長は5尺7寸5分(約174.2センチメートル)、体重は18貫400匁(約69.0キログラム)、趣味は園芸ビリヤードで、甘味の物が嗜好である旨が記されている[4][5]

1931年(昭和6年)9月、鈴木傳明のほか、岡田時彦高田稔渡辺篤横尾泥海男関時男吉谷久雄らと共に松竹蒲田を連袂退社し、新たに不二映画社を創立する[2]。1932年(昭和7年)9月15日に公開された青山三郎鈴木重吉監督映画『金色夜叉』などに出演していたが、同所は経営難により同年10月に解散する[2][3]。解散後は、フリーランサーとして東京発声映画製作所トーキーに出演しており、1935年(昭和10年)10月16日に公開された重宗務監督映画『大学を出た若旦那』、翌1936年(昭和11年)1月10日に公開された同じく重宗務監督映画『街の笑くぼ』に出演した記録が残っている。以後の消息は不明とされていた[2][3]が、『讀賣新聞』昭和11年10月25日付(神奈川版)によれば、同年前後から脳病に冒され、京都府京都市の大学病院に入院、一時は回復して帰京したものの、再び病状が悪化したため、同年7月17日からは神奈川県横浜市鶴見区北寺尾町(現在の同区北寺尾)の西井脳病院に再度入院していたが、10月24日午前5時頃に数え年51歳で死去したと報じられている[6]。満48歳没。

渾名は「ワンサの先生」[1]。松竹蒲田撮影所在籍当時、鈴木傳明率いる「傳明グループ」の中でも特に大きな権力を握っていたといい、1931(昭和6年)9月に発生した不二映画社創立事件では、松竹蒲田脱退を促進した黒幕として活躍していたという[1]。また、木村の遠戚にあたる川崎弘子によれば、麻雀賭博や結婚詐欺などで世間を騒がせた福田蘭堂との結婚にも助力したという[1]

出演作品

天然色活動写真大阪撮影所

全て製作は「天然色活動写真大阪撮影所」、配給は「天然色活動写真」、全てサイレント映画である。

松竹蒲田撮影所

全て製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹」、全てサイレント映画である。

不二映画社

全て製作は「不二映画社」、配給は「新興キネマ」、全てサイレント映画である。

東京発声映画製作所

全て製作は「東京発声映画製作所」、配給は「日活」、全てトーキーである。

脚注

  1. ^ a b c d 『讀賣新聞』昭和11年10月25日付(神奈川版)。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、192-193頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i j 『芸能人物事典 明治大正昭和』 日外アソシエーツ、1998年、199頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』映画世界社、1929年、106頁。 
  5. ^ a b c d e f g h i j k 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』映画世界社、1929年、141頁。 
  6. ^ 『讀賣新聞』昭和11年10月25日付(神奈川版)。数え年51歳は誤植の可能性もあり、生年が正しければ数え年50歳である。
  7. ^ 短縮版及び日本映画データベースでは、木村健二

関連項目

外部リンク

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