東京専門学校(とうきょうせんもんがっこう、旧字体:東京專門學校󠄁)は、1882年(明治15年)、大隈重信により東京府に設立された、高等教育相当の旧制私立学校。
この項目では1902年に東京専門学校から改称し、1904年以降専門学校令に準拠した早稲田大学についても扱う。
現在の早稲田大学の源流は、大隈重信が教頭格で長崎に設立された致遠館や、佐賀藩の藩校であった弘道館[2]・蘭学寮[注釈 2][3]などの説があるが、直接の前身は大隈重信を中心に、小野梓ら旧東京大学出身者らが結成した「鷗渡会」のメンバー(高田早苗・市島謙吉・天野為之・砂川雄峻・岡山兼吉・山田一郎・山田喜之助)の支援を受けて設立された東京専門学校である。イギリス流政治学の教育に重点をおき、東京大学のようにドイツ流の法学を中心とする学問体系と異なり、政治学と経済学の融合を志向した政治経済学の構築を目指した。そのため、法学部が文系学部の中心学部であることが多い他の大学と異なり、政治経済学部が現在もなお早稲田大学の看板学部・中心学部となっている。また、当時のいわゆる「五大法律学校」の一つに数えられたが、他の私立法律学校と異なり理学科・英学科を併設するなど総合教育への志向が見られた。
なお、東京専門学校の設立に先行して大阪専門学校(1879年)・石川県専門学校(1881年)が設立されているが[注釈 3]、東京専門学校を含め、これらの「専門学校」とは一般的な高等教育機関の意であり、その後制定された専門学校令(1903年)に準拠する旧制専門学校とは制度的に異なる。東京専門学校は、設立時においては教育令に基づく学校である[6]。
明治十四年の政変により下野した大隈重信は、河野敏鎌、小野梓らとともに立憲改進党(総裁:大隈重信、副総裁:河野敏鎌)を結党した(党では、大隈は矢野文雄(大隈重信のブレーン、名改め、号龍渓)ら慶應義塾出身者らも呼び付け登用した[7])。大隈重信が呼び付けた旧東京大学出身者で将来有望な幹部候補の卵達で結成された「鷗渡会」の支援を受け[7]、やがて樹立されるであろう立憲政治の指導的人材の養成を主たる目的として学校の設立を構想した。なお、それ以前に、アメリカ留学で理学を学んだ娘婿の大隈英麿が理学の学校の創立を大隈に勧めていたが、理学科は学生が集まらず早々に廃止された。
大隈英麿が大隈重信に持ちかけた学校開設の構想は[8]、翌1882年(明治15年)に具体化し、9月には「政治を改良し、その法律を前進」することを標榜した「東京専門学校」の開設が公表された。
東京専門学校の入学試験は1882年10月11日から行われ、大隈重信も試験を視察するほどの熱の入れ様であったという。
10月21日午後1時、開校式は新築の講堂で挙行された。開校時校舎として使われていた洋館造りのグリーンハウスは、まだ明治大学記念館(1911年竣工)や慶應義塾旧図書館(1912年竣工)が建造される以前から存在し、バンカラな校風とは対照的にモダンな雰囲気があり、東京専門学校の象徴的な建物であった[注釈 4]。大隈は学校と立憲改進党との関係について疑念を持たれることを恐れたためか開校式に姿を見せなかったが、来賓としてモース、外山正一、菊池大麓、福澤諭吉、河野敏鎌、前島密などの著名人が参列した。
式の冒頭で校長大隈英麿が「開校の詞」を朗読。天野為之の演説、成島柳北の祝辞に続いて小野梓が演壇に立ち、「学問の独立」を高らかに宣言した。
一国の独立は国民の独立に基き、国民の独立は其精神の独立に根ざす。而して国民精神の独立は実に学問の独立に由るものであるから、其国を独立せしめんと欲せば、必ず先づその精神を独立せしめざるを得ず。しかしてその精神を独立せしめんと欲せば、必ず先ず其学問を独立せしめなければならぬ。これ自然の理であつて、勢のおもむくところである。[11]
開校時は78名だった学生数は年末までに152名となり[12]、講師には鷗渡会メンバーに加えて田中舘愛橘と石川千代松が迎えられ[13]、翌年には坪内雄蔵(逍遥)も加わった[14]。
設立当初は政治経済学・法律学・英学・理学の4学科が設置(その後理学科は廃止)され、のちに坪内逍遥を中心に、日本最初の純粋な文学研究学科として文学科も設置された。
しかし官学中心主義をとる政府は、東京専門学校が「学問の独立」を謳っていたにもかかわらず、大隈が設立に関与していたことから、これを改進党系の学校とみなし[注釈 5]、私立校への判事・検事および大学教授(すなわち東大教授)の出講禁止措置など、さまざまな妨害や圧迫を加えた[16]。また、自由民権運動と政治運動を気風とし、文部省の文部大書記官辻新次・少書記官穂積陳重の巡視を受け、看過できない落書きが構内にあった、と参議に報告されている[17][注釈 6]。しばらくの間東京専門学校は講師の確保にも窮する状態が続き、一時は同じく英法系で新設の英吉利法律学校(中央大学の前身)との合併話が持ち上がるほどであった[注釈 7]。
しかし、第1回得業式(卒業式)には来賓として鍋島直彬、辻新次、外山正一、福澤諭吉、中村正直、穂積陳重、北畠治房、中島永元、杉浦重剛、野村文夫、尾崎行雄ら各界の名士数十人が数えられて、開校式の大きさに匹敵する盛大さがあった[7]。
また、第1回衆議院議員総選挙に当選した学苑関係議員には、高田早苗、天野為之などの他、犬養毅や関直彦、藤田茂吉などもいた[7]。
東京専門学校は、明治時代に創立した私立の法律学校のうち、東京府(現在の東京都)下に所在し、とくに教育水準が高く特別許認可を受けた五大法律学校の1つであった。1886年(明治19年)に「私立法律学校特別監督条規」により、帝国大学総長の監督下となった帝国大学特別監督学校の5校のうちの1校である。
明治30年代以降、学校の運営はようやく安定を迎えてその体裁を次第に整え、大学昇格を展望して組織を改編し、1902年(明治35年)9月に「早稲田大学」への改称が認可された。
東京専門学校を大学組織にした趣意は敢へて一躍現在の大学の如くしようとしたのではなく、当時の教育事情に鑑み、中学卒業生を収容し、それに簡易な大学教育を施さんとするに在つた。当時中学を卒業しても、大学の数が少い為、前進することが出来なかつたのが、教育界の一欠点であつたので、それを補足せんとするのが一の目的であつた。それを為すには従来の如く、邦語のみで教へることを主とせず、外国語をも併用し、予科を設けて、大学に入るの階梯を作る必要があつた。但し帝大の予科の三ヶ年を長しとして一年半の予科を設け、成るべく短期に高等の学問を修めしめ、官設大学の不足に対し手伝をなさんとするが趣旨であつた。 — 市島謙吉、『回顧録』 中央公論社、279頁
ただしこの時点では、早稲田大学は制度上の大学(旧制大学)ではなかった。大学令が1918年に施行されるまでは、制度上の大学は官立の帝国大学しかなかったためである。その後、1904年(明治37年)4月に専門学校令に準拠する高等教育機関(すなわち旧制専門学校)となり、同年秋には従来からの政治経済学科、法学科、文学科に加えて商科を新設した。
1907年(明治40年)に校長・学監制を廃して総長・学長制を採用し(総長大隈重信・学長高田早苗)、翌年5月には財団法人への設立認可を受けて組織面での整備も進んだ。医科設置構想は実現しなかったが1909年(明治42年)に理工科が発足し、明治末年までには大学部(5学科)、専門部、高等予科、研究科、高等師範部、工手学校を擁する一大学園へと発展した。
また、1907年の創立25周年を機に校歌が、1913年(大正2年)の創立30周年[注釈 8]を機に教旨が制定されるなど、現在の早稲田大学に連なるスクール・アイデンティティが確立したのもこの頃である。
かつて大隈重信が「世界の道は早稲田に通ず」[20]と豪語したように、大隈邸や早稲田大学には世界各国の要人の来訪が相次いだ。有名どころとしては辛亥革命の指導者孫文、インドの詩人タゴール、ハーバード大学総長のC・W・エリオット、救世軍の創立者ウィリアム・ブースの名を挙げることができる[21]。
1905年(明治38年)には清国人学生の留学熱にこたえるべく清国留学生部を設置した。これは前年に設置された法政大学の速成科とは異なり長期の高等専門教育を主眼に置いたものであり、1910年(明治43年)までの設置期間中を通じて1,000人以上の卒業生を送り出した[22]。
一方、東京専門学校および専門学校令下の早稲田大学からの留学生派遣は1900年(明治33年)の坂本三郎と金子馬治の渡独が最初であり[23]、以後塩澤昌貞、島村滝太郎(抱月)、朝河貫一、田中穂積、斎藤隆夫、大山郁夫、宮島綱男らが海を渡った。
1905年(明治38年)に野球部が安部磯雄部長引率のもと日本の野球チームとして初のアメリカ遠征を行い、スクイズやスライディングなどの新戦術、スパイクシューズなどの用具に関する知識を学び、帰国後はこの収穫を独り占めすることなく著書や他校への指導などで普及に努めた[24]。やがて早大戸塚球場は国内試合のみならず国際試合の舞台ともなり、1908年(明治41年)11月22日には大リーグ選手6人を含めた選抜チーム(リーチ・オール・アメリカン)と早大野球部との対戦が実現した。
1915年(大正4年)8月、大隈重信首相は内閣改造に際して早大学長高田早苗を文部大臣に起用し、後任の学長に天野為之が就任した。第2次大隈内閣は1916年(大正5年)10月に総辞職し、高田も文相を辞職して浪人の身となったが、恩賜館組と呼ばれる少壮教授グループなどに高田を再び学長に担ごうとする動きがあり、維持員会でも高田の学長復帰を合意したが、天野派は学生や校友、学外のジャーナリストらを味方につけて激しく抵抗した。1917年(大正6年)7月24日、大隈重信は事態収拾のため天野に辞職を要求したが、天野はこれを拒否した。
騒動は9月に入ってさらにエスカレートし、11日深夜、石橋湛山率いる革新団による校門占領事件が発生。翌日開催された維持員会で5人の維持員が辞表を提出し、革新団は警視庁監察官正力松太郎らの説得により封鎖を解いて大学から退去した。9月26日、新たな維持員を迎えた維持員会で当分学長を置かず、平沼淑郎が代表者理事に就任することを決定し、天野為之は11月2日をもって早稲田大学を去った。
この騒動で早稲田大学は波多野精一や永井柳太郎、大山郁夫などの中堅学究を多く失い(大山はのちに復職)、一時的に深刻な人材不足に陥った[25]。
1918年(大正7年)12月に大学令が公布され私立大学設立の道が開かれると、早稲田大学でも大学昇格に向けての準備が本格化した。1919年(大正8年)6月に大学令実施準備委員会が発足し、同年9月10日に文部省に申請手続きを行った。1920年(大正9年)2月5日、大学令による大学となり[注釈 9]、政治経済学部、法学部、文学部、商学部、理工学部、大学院および早稲田高等学院(大学予科)を設置した。
なお、専門学校令による大学部は1925年(大正14年)3月に在籍者が全員卒業するまで存続した[27]。
以下、「明治二十三年十月 東京牛込早稲田 私立東京専門学校」、『早稲田大学百年史』による[39]。
開校に先立ち、東京府下早稲田(当時は南豊島郡下戸塚村内、現新宿区)に所在していた大隈の別荘に隣接して校舎が建設された。早稲田の校地は、大隈重信が1882年(明治15年)3月に相良剛造(大隈の甥)と山本治郎兵衛の両人から買い取った土地の一部を借用する形で始まった[41]。
東京専門学校開校の当時は、校門の前は満目水田で、界隈の畑地はみな茗荷畑であつた。此の地の附近には種々の古蹟があつて、芭蕉庵もあれば道灌の山吹の里もあり、堀部安兵衛の復仇の遺蹟もあり、杜鵑を聞く風流地とも云はれたが、早稲田と云ふ地名は、一向に知られず、僅か須田町の青物市場が茗荷の為に知つた位に過ぎなかつた。 — 市島謙吉、『回顧録』 中央公論社、259頁
「早稲田大学」と改称した後も周辺の田園風景はしばらく残存していたようで、石橋湛山(明治36年入学)も当時の情景を次のように回想している。
そのころの早稲田大学の周辺は、どんな状況であったかというに、すでに鶴巻町通りは、古本屋、ミルクホール、その他の商店が軒を並べて、新たな大学街として繁栄していた。しかしその鶴巻町も、大学の方から向かって左側は、ちょっと裏にはいると、いわゆる早稲田たんぼで、目白台まで水田が続き、その中に新たにできた道路に沿って、点々と下宿屋などが建っているのに過ぎなかった。昔早稲田は茗荷畑が多いことで有名だったそうだが、その名残りも明治三十六年ごろにはまだ見られた。 — 石橋湛山、『湛山回想』 岩波文庫、50頁
なお、江戸時代には現在の早稲田キャンパスの大部分が天台宗宝泉寺の寺領であったと伝えられている[42]。また9号館のあたりには、1963年(昭和38年)まで移転前の水稲荷神社(高田稲荷)が所在していた[43]。
東京専門学校開校時の敷地は約1,500坪で、現在の早稲田キャンパス正門の南半分と2号館の大部分が収まる程度に過ぎなかった[44][45][46]。
その後、(専門学校令準拠の)早稲田大学への移行を目指して校地の拡張が行われ(第一期拡張)[47]、1902年(明治35年)には戸塚グラウンドが開設された[48][49]。
さらに明治末~大正初頭の第二期拡張により[50]、現在の東門から西門に至るラインまで広がった[45][46]。1916年(大正5年)頃には飛地となっていた戸塚グラウンドと大学キャンパスの間の敷地を買収し、現在の早稲田キャンパスの主要な輪郭がほぼ完成した[注釈 12]。
事典項目
単行書
学校関係者の回想録
この項目は、学校に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:教育/PJ学校)。