田中葵園
田中 葵園(たなか きえん)は江戸時代後期の佐渡奉行所地役人、儒学者。佐渡田中家11代。官立学問所修教館を設立し、米価調整のため広恵倉を設置した。 生涯修業天明2年(1782年)6月8日佐渡国相川下京町に佐渡奉行所銀山方定役田中美矩の子として生まれ、14日先例により安五郎と名付けられた[2]。寛政5年(1793年)5月西川恒山に入門し、浅見吉十郎副充に東軍流柔術、阿川権之助義広に甲州流軍学、広田文七興勝に無眼真隠流剣術、永井森右衛門・増井(増木)七左衛門長旧に田付流砲術を学んだ[2][3]。 享和2年(1802年)1月奉行所に出仕し、元之進を襲名した[2]。文化2年(1805年)師恒山が死去すると、その遺志を継いで[4]七軒屋に社友と広業堂を建て、文学・武芸を研鑽した[2]。 文化7年(1810年)3月海防警備のため出役した[2]。4月亀田鵬斎が来島して講義を聴き、弗措堂[5]の斎号を賜った[2]。文化8年(1811年)3月眼病に罹り、諏訪の温泉で療養した後、京都、江戸へ旅行した[2]。鵬斎の影響で矢島主計が私学励風館の建設を計画したことに対抗し[6]、文化8年(1811年)8月と文化10年(1813年)の2度奉行金沢千秋に官立学問所の設立を願い出、文化12年(1815年)10月広業堂と町会所素読所を合併する形で奉行所内に素読所を設置した[2]。 文化9年(1812年)3月6日父が死去して家督を継ぎ、従太郎と称した[2]。文化10年(1813年)3月京都に旅行した[2]。文政2年(1819年)6月江戸に赴任し、7月林述斎に入門し、佐藤一斎の塾にも通い、文政3年(1820年)8月日光東照宮に参詣して帰郷した[2]。 広恵倉・修教館の設立文化末年以来の豊作による米価下落に対し、文政3年(1820年)国産の鯣・干鱈等の漁獲物と他国産の半紙・陶器・蝋等の日用品との交易奨励、国産米穀・材木の買い置きによる価格調整等を献策し、文政6年(1823年)羽田浜町に広恵倉を建設した[8]。 文政6年(1823年)奉行泉本忠篤に共同積立金出目銭を利用した学問所建設を願い出て、文政7年(1824年)9月許可され、文政8年(1825年)8月8日[2]現佐渡版画村美術館地に学問所・武術所・医学所を開校した[4]。 文政8年(1825年)8月孔子廟併設を願い出て、文政9年(1826年)5月起工、文政10年(1827年)2月19日竣工した[2]。文政11年(1828年)10月江戸から師述斎命名の「修教館」扁額、文政12年(1829年)4月18日孔子像が到着し、24日遷座式を行った[9]。 天保5年(1834年)9月24日普請所からの大火で自宅や学問所も焼失したため、北沢家に仮寓し、10月役所の再建工事を監督した[2]。 佐渡一国騒動広恵倉は官営専売機関として莫大な利益を上げたが、文政9年(1826年)利益を鉱山等他事業に流用し、文政10年(1827年)年貢減免を訴える農民に対し蔵米を購入して納付させ、天保2年(1831年)地役人自身は褒賞を受け取るなどしたため、非特権商人や農民から「不益の御倉」として反感を買った[10]。 天保9年(1838年)佐渡一国騒動において義民中川善兵衛が幕府巡見使に広恵倉の廃止を訴えると、12月広恵倉の責任者として揚屋に留置され、天保10年(1839年)3月江戸浅草の揚屋に護送され、5月奉行篠山景徳邸に移された[2]。 天保11年(1840年)6月19日蔵米を時相場で売って銀山事業に流用した罪で評定所により押込50日を言い渡され、7月新任奉行川路聖謨と帰郷した[2]。9月10日満期となって復職し[11]、天保12年(1841年)3月学問所、12月孔子廟を再建した[2]。 弘化2年(1845年)5月3日病没し、下寺町法然寺に葬られた[2]。諡号は弘道先生、法号は白蓮社遺誉水月居士[2]。墓碑は遺言により修教館に向けて建てられた[2]。 経歴
著書
門人人物古銭収集を趣味とした[22]。 親族先祖は武田氏飯富虎昌・山県昌景に属して甲斐国田中村を領し、慶長9年(1604年)初代田中政継が同族清右衛門の招きで佐渡国に渡り、佐渡奉行所地役人となった[23]。
脚注
参考文献
外部リンク
|