相生高秀
相生 高秀(あいおい たかひで、1912年(明治45年)1月4日 - 1993年(平成5年)3月6日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海兵59期。最終階級は海軍中佐(日本海軍)、海将(海自)。第二次世界大戦期における撃墜王。公式撃墜記録は10機。 経歴1912年(明治45年)、広島県で海軍兵学校剣道教員を務める父のもとに生まれる。父は教員になる前、海軍で兵学校運用科の下士官として勤務しており退役した。呉一中学を経て、1928年(昭和3年)4月、海軍兵学校に59期生として入校。1931年(昭和6年)11月7日、兵学校を卒業。装甲巡洋艦「浅間」乗組を経て[1]1933年(昭和8年)11月、第25期飛行学生を拝命。1934年(昭和9年)7月、飛行学生教程を修了、館山航空隊付(戦闘機分隊士、海軍中尉に昇任)。1935年(昭和10年)、空母「龍驤」乗組(戦闘機分隊士)。佐伯航空隊を経て、1937年(昭和12年)7月、第十二航空隊に着任。この頃、相生から戦闘機パイロットの教育を受けた原田要は「相生中尉は、天性の恵まれた体格を持ち、運動神経も素晴らしく優れており、その上、人一倍の努力家で、私は心から尊敬していました。」[2]「相生中尉は物凄い腕力の持ち主で、「急降下して上昇に移る時に、一旦ピタっと停止し、それから上昇に移っていました。実際には、停止することなど有り得ないことですが、まるで一瞬止まったかのように見えるほど、急激に上昇して行くのです。」と語っている[3]。 日中戦争1937年(昭和12年)8月、第二次上海事変勃発に伴い公大飛行場に移動。12月、海軍大尉に昇進、本土に帰還し、霞ヶ浦航空隊分隊長兼教官に着任。 1938年(昭和13年)3月、第十二航空隊分隊長に着任[4]。中国に進出する。4月29日、相生の初陣となる漢口攻撃でI-15戦闘機を2機撃墜。6月26日、南昌攻撃では小隊3機を率い、主隊から分離した直後に20機に囲まれるが、単独2機、部隊で6機を撃墜して追撃を振り切り、安慶飛行場に着陸した[4]。 1938年(昭和13年)12月、空母「赤城」戦闘機隊分隊長に着任。1939年(昭和14年)10月、第十二航空隊付。1940年(昭和15年)1月、「赤城」に配属。同年末、大分航空隊分隊長兼教官、1941年(昭和16年)、横須賀航空隊分隊長兼テストパイロットを歴任。 太平洋戦争1941年(昭和16年)11月、空母「龍驤」戦闘機隊飛行隊長に着任。12月8日太平洋戦争開戦時からフィリピン侵攻作戦に参加、艦攻隊を直衛しながらダバオを攻撃した[4]。 1942年(昭和17年)2月、第三航空隊飛行隊長に着任。南方作戦に従事した後、ガダルカナル島の戦い、ポートダーウィン航空作戦に参加。11月、海軍少佐に昇進、三空が第二〇二海軍航空隊に改名し、それに伴い202空飛行隊長に着任。 1943年(昭和18年)大分海軍航空隊飛行長に着任、1944年(昭和19年)3月15日、大分海軍航空隊が筑波に移転、筑波海軍航空隊飛行長。 あ号作戦で壊滅した母艦航空隊の再建が実施される中で、1944年8月、母艦航空隊である第六〇一海軍航空隊の飛行長に着任。1944年10月、レイテ沖海戦で空母「瑞鶴」に乗組。同海戦で「瑞鶴」は沈没し、相生は駆逐艦に救出された。その後は再建作業に従事していたが、1945年2月に中止になった。 1945年(昭和20年)4月第三四三海軍航空隊(通称剣部隊)の副長に着任。搭乗員の錬成を任された。 1945年8月、終戦。9月5日、海軍中佐に進級。 戦後1947年(昭和22年)11月28日、公職追放の仮指定を受ける。追放解除後の1953年(昭和28年)10月2日、保安庁警備隊入隊(2等警備正)。12月1日、初代鹿屋航空隊司令。1954年(昭和29年)8月1日、1等海佐昇任。1955年(昭和30年)7月15日、訓練飛行隊群司令。11月16日、海上自衛隊幹部学校付、1956年(昭和31年)8月16日、海上幕僚監部防衛部付、1959年(昭和34年)7月14日、徳島航空隊司令。1961年(昭和36年)7月1日、海将補昇任。9月1日、第2航空群司令。1962年(昭和37年)7月1日、自衛艦隊幕僚長。1964年(昭和39年)12月16日、第3代航空集団司令官。1965年(昭和40年)1月1日、海将昇任。12月16日、第11代自衛艦隊司令官。1967年(昭和42年)7月1日、退官。1982年(昭和57年)4月29日、勲三等旭日中綬章受章。 1993年(平成5年)3月6日、心不全のため死去(享年81)。叙・正四位[5]。 年譜
脚注
参考文献
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