矢田部勁吉
矢田部 勁吉(やたべ けいきち、1896年(明治29年)3月27日[1] - 1980年(昭和55年)11月26日[1])は、日本の声楽家(バス)、音楽教育者。現・国立音楽大学の創立者の一人[2]。矢田部良吉の子。 経歴東京出身。東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)卒[3]。山田耕筰に師事[4]、1919年(大正8年)3月に東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)本科声楽部を卒業[5]。ハンカ・ペッツォルトに学んだ[6]。同校研究科[7]に入学後、日本で最初の四重唱団[8]「澤崎クヮルテット」を結成し、演奏記録もある(ソプラノ:武岡鶴代、アルト:柳兼子、テノール:澤崎定之、バス:矢田部勁吉)[9]。1922年(大正11年)ドイツ、フランス[7]に留学。コンラート・フォン・ザヴィロフスキのもとで声楽を研究した[5]。帰国後はオペラ歌手として活躍[1]。新交響楽団の『フィデリオ』や『フィガロの結婚』に出演した記録がある[10]。1924年(大正13年)9月に日本音楽学校教師(1926年3月まで)、東洋音楽学校(現:東京音楽大学)教師(1926年3月まで)、東京府立第五中学校(現:東京都立小石川中等教育学校)音楽教師(1925年7月まで)となる[5]。 1926年(大正15年)私立の音楽学校を設立しようとの30歳代の気鋭の音楽家たちの仲間に加わり、東京高等音楽学院(現:国立音楽大学)の創立メンバー(矢田部のほか、ソプラノ歌手・武岡鶴代、音楽マネージャー・中館耕蔵、ピアニスト・榊原直、宗教学者で初代学院長[11]・渡邊敢)となる。1930年(昭和5年)、東京高等音楽院で内紛が起こり、矢田部は「意気をあげる為め」バッハ『ミサ ロ短調』の日本初演を企画し、1931年3月に「第1回バッハ記念第演奏会」、同年12月に「第2回バッハ記念演奏会」を開催した。その後も声楽・合唱を指導し、国立音楽大学の声楽の基礎を作り上げた[7]。1946年(昭和21年)8月に東京音楽学校講師嘱託、同年11月に同校教授に就任[5]。東京芸術大学教授、国立音楽大学の教授を歴任[1]。のちに国立音楽大学名誉教授、東京芸術大学名誉教授[2]。 戦前から外国曲の邦訳を手掛け、マルシュナー“Ständchen”(小夜曲)[12]、『囚人/小川のほとり』『母なるボルガ』『ヴォルガの舟歌』[13]、メンデルスゾーン『うぐいす』『緑の森よ』[14]などの訳詞を行っている。戦時中は『第九』の日本語版を創出し、バス独唱を務め、録音も残している(後述)。戦後においてもハイドン『天地創造』[15]、アルカデルト(偽作)『アヴェ・マリア』[16]などの日本語版訳詞を手掛けている。中には編曲や指揮を務めているものもある[13]。 教育者としても、四家文子[4]、原田茂生[4]、下八川圭祐[17]、大久保昭男[18]、栗林義信[19]、長谷川泰子[20]、増山美知子、岩渕嘉瑩[21]、清水邦子[22]、李仁榮(金慶植)[23]、八尋和美[24]、植野雅子[25]、内田忠行[26]、岡田啓子[27]、ロミ・山田[28]、池田不二男[29]、園部為之[30]、溝上日出夫[31]などを育成し、多大な実績を残している。 国立音楽大学では、矢田部の業績と栄誉を讃え、1982年度(昭和57年度)に「矢田部賞」を制定。卒業に際して優秀な成績をおさめた男子学生に授与している[7]。 1953年(昭和28年) - 1954年(昭和29年)全日本合唱連盟関東支部長を務める。墓所は谷中霊園(甲11-8) 筆名は嵯峨灰彦[1]。妻は歌人の矢田部(旧姓:倉辻[32])正子。息子(養子[32])は声楽家の鈴木義弘[4] 著書楽譜
書籍主なディスコグラフィー
エピソード
脚注・出典
参考文献
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