第1次ソールズベリー侯爵内閣(英語: First Salisbury ministry)は、1885年7月から1886年2月まで続いた保守党党首第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルを首相とするイギリスの内閣である。
成立の経緯
自由党政権第2次グラッドストン内閣はアイルランド強圧法の更新をめぐって分裂。対して保守党はランドルフ・チャーチル卿の主導でアイルランド議会党(英語版)党首チャールズ・スチュワート・パーネルに接近を図り、強圧法更新に反対した。これにより両党の協力関係が出来上がり、1885年6月8日の庶民院で保守党とアイルランド議会党は自由党政府提出予算案の修正動議を可決させ、グラッドストン内閣を総辞職に追い込んだ[1]。
1881年に初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリが死去して以来、保守党は全党党首が不在であり、庶民院保守党はサー・スタッフォード・ノースコート準男爵(後の初代イデスリー伯爵)、貴族院保守党は第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルが指導するという両院別個の二党首体制を取っていた。しかしノースコートは庶民院保守党を統制できず、ランドルフ・チャーチル卿やアーサー・バルフォアら「第4党(英語版)」が彼を差し置く形でグラッドストン政権批判を展開していた。そのため、この1885年の時点ではノースコートの権威は墜落しており、衆目の一致する保守党指導者はソールズベリー侯爵であった[2]。
ヴィクトリア女王が組閣の大命を下したのもソールズベリー侯爵だった。しかし当時保守党は自由党に170議席以上の大差をつけられている少数党であり、政権を取っても自由党が敵対的態度を取ればすぐに潰されてしまうため、ソールズベリー侯爵は大命拝受を逡巡した。一方グラッドストンも自由党に不利であろう即時の解散総選挙を恐れていたので、結局、即時解散総選挙をしないことを条件に自由党は保守党政権への攻撃を控えるということで両党は合意した[3]。
こうして6月23日、ウィンザー城に参内したソールズベリー侯爵は組閣の大命を拝受することになった[4]。
主な政策
第1次ソールズベリー侯爵内閣は少数与党政権であり、アイルランド議会党に依存するところが大きかった[5]。そのため、同党への譲歩を企図し、アイルランド大法官(英語版)初代アシュバーン男爵エドワード・ギブソンの主導でアイルランド小作人に低利で土地購入費を貸し出し、自作農化を促すアシュバーン法(英語版)を制定した[6]。
外交ではインド担当大臣ランドルフ・チャーチル卿とインド総督初代ダファリン伯爵フレデリック・ハミルトン=テンプル=ブラックウッドの主導でビルマへの軍事侵攻を行い、同国を英領インド帝国に併合した(第三次英緬戦争)[7][8]。
総辞職の経緯
1885年11月の解散総選挙(英語版)は自由党334議席、保守党250議席、アイルランド議会党86議席という結果になった[9]。
自由党が多数党のままだったが、キャスティング・ボートを握るアイルランド議会党はグラッドストンがアイルランド自治の方針を確約していない現状では、自由党に協力するつもりはなかったので、ソールズベリー侯爵はその後もしばらく政権に留まった[10]。
しかし新議会の召集までの間にグラッドストンはアイルランド自治の方針を公表。これにより1886年1月21日からの新議会では自由党とアイルランド議会党の連携が成り、ソールズベリー侯爵内閣は1月27日の庶民院の採決に敗れ、総辞職を余儀なくされた[11][12]。
代わって第3次グラッドストン内閣が成立する。
閣内大臣一覧
脚注
注釈
出典
参考文献