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舞姫 (森鷗外)

舞姫
訳題 The Dancing Girl
作者 森鷗外
日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル 短編小説
発表形態 雑誌掲載
初出情報
初出国民之友1890年1月号
刊本情報
刊行 彩雲閣 1907年2月
収録 『美奈和集:完』春陽堂 1906年7月
ウィキポータル 文学 ポータル 書物
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舞姫』(まいひめ)は、森鷗外短編小説1890年明治23年)1月号の『国民之友』に発表。ドイツに留学した青年男性の手記の形をとり、生い立ちからドイツでの経験までを綴る。高雅な文体と浪漫的な内容で、鷗外初期の代表作とされる。

概要

本作は、森鷗外の創作小説として発表された第一作目である。ドイツを舞台とした作品であり、ドイツへ留学した経験が生かされている。森鷗外は留学から帰国後に、本作、『うたかたの記』、『文づかひ』と次々に創作小説を発表しているが、そのいずれも舞台はドイツであり、これらは独逸三部作(ドイツ三部作)と呼ばれる。

本作発表のひと月後に石橋忍月は本作の評論[1]を発表し、これから鷗外・露伴の時代が始まるだろう、と高く評価した。その一方で、物語に疑義を提示しており、それに対して森鷗外が反論を発表し、両者の間で論争が始まった(#舞姫論争)。

森鷗外がドイツ留学から帰国してまもなく、鷗外を追ってドイツから女性が来日している(以下、「エリス来日事件」)。本作はその女性と鷗外の恋愛経験を基にした創作であると考え、鷗外研究者らにより実在のエリス探しが行われた。1910年発表の短編「普請中」は、『舞姫』とは人物も含め設定はまるで異なるが、エリス来日事件を題材にしていると考えられている。

1957年昭和32年)に高等学校国語科教材として取り上げられて以降、60年以上にわたり定番教材として使用されている[2][3]

あらすじ

時は19世紀末。ドイツに留学していた太田豊太郎は、帰国のために日本へ向かう船に乗っている間、ずっと苦悩していた。船がサイゴンに寄港し停泊していたとき、無駄だと思いながらも苦悩が消えることを期待して、過去を書き記すことにした。

(以下は、豊太郎が書き記した回想の要約である)

豊太郎は幼い頃に父親を亡くし母親に育てられた。父親が亡くなってからも、母や周りが喜ぶようにと勉学に励み、学校での成績は同級のなかで常に一番であった。勉学以外には目もくれなかったが、それは強い自制心があったからではなく、他のことをする勇気がなかったからであった。

大学法学部を卒業後は、某省で働いた。3年がたったころ、念願かなって、官長からドイツ留学を命じられ、ベルリンに赴いた。ベルリンで過ごすうち、これまでの自分は受動的で器械のようだったと気がつく。それからは、官長から法律に関する細かな質問が来ると、以前なら丁寧に回答していたところを、法の精神を学べば分かることだと大口をたたいた。このため、豊太郎の立場は危うくなっていた。

ある日、下宿に帰る途中、クロステル通りの教会[注釈 1]の前で、涙にくれる美少女エリスと出会う。父親の葬儀代がないためにある男のいいなりになるように言われて母親にたたかれたとのことであった。豊太郎は葬儀代を工面してあげた。それ以来、交流が続いたが、豊太郎がエリスに本を貸して学ばせるといった師弟のような関係であった。エリスは貧しいため十分な教育を受けられず15のときに舞を習い、課程を修了した後、ビクトリア座で舞姫をしていた。舞姫たちの給金は少なく、独り身でも大変で、賎しい行為をしないものは、まれだという。エリスは、おとなしい性格と父親の守護により、そうなることはなかった。

ある同郷の人物がエリスとの仲について事実を曲げて官長へ告げ口をした。危うい立場となっていたところへ、この告げ口が加わり、豊太郎は免官となり職を失う。帰国するなら旅費が出るが、留まるなら何も助けは得られないとのことで、決断に一週間の猶予をもらった。そんなとき、豊太郎は母親の死を知らせる手紙を受け取る。それを知ったエリスは、豊太郎の不幸を憐れみ、悲しんだ。エリスの美しくいじらしい姿を目にした豊太郎は、エリスが好きだという感情が高まり、エリスと離れられない仲となる。

日本にいる友人相沢謙吉の紹介で日本の新聞社のドイツ駐在通信員の職を得る。収入が少なく住居を変える必要があったが、エリスの配慮により、母親と暮らすエリスの住まいに同居させてもらうことにした。

ある日、相沢からドイツに来ているから会いたいと連絡が入る。相沢は、天方大臣の秘書官で、天方大臣と共にドイツに来ていた。相沢の紹介により豊太郎は天方大臣からドイツ語の文書を翻訳する仕事をもらうようになる。豊太郎から現状を聞いた相沢は豊太郎に対して、今のような生活を止めてエリスとの仲を断ち、天方大臣からの信頼を得て復帰するように助言する。友人の言葉だからと豊太郎は同意する。しかし、エリスの愛を失うことは出来なかった。エリスは豊太郎の子を身ごもり、ビクトリア座から除籍となる。

豊太郎は、大臣から誘われたロシア訪問への随行でフランス語の通訳をして活躍する。ロシアにいる間、エリスから手紙が毎日届いた。ある日の手紙にはこうあった。「あなたが日本に戻るというなら、旅費が多額なので、あなたが出世するまでこの地で待っていようと思っていました。しかしいま、少しの間の別れだというのにとてもつらく、離れては暮らせないと分かりました。あなたの手紙に書いてある通り大臣に重用されているなら、私の旅費もなんとかしてくれるはずです」

ロシアから戻って帰宅した豊太郎は、生まれてくる子どものためにエリスが用意した山のようなオムツを目にする。しばらくして大臣から呼び出された。語学力を評価されて一緒に日本へ帰らないかと誘われ、また、この地にしがらみはないと相沢から聞いているとも言われる。友人を裏切れないし、この機会を逃したら、本国を失い、名誉挽回もできずにベルリンの人の海に葬られてしまう、という思いが湧き、帰国の誘いを受け入れてしまう。帰り道、エリスにどう伝えるか悩み続け、公園のベンチに倒れ込んだ。寒さで目を覚ますと雪が積もっていて、雪のなかを歩き、家につくと人事不省に陥った。

豊太郎は何日も目を覚まさず、その間に相沢が訪れて、豊太郎が隠していたことをエリスは知らされる。エリスは、豊太郎にだまされたと叫び、発狂する。豊太郎が目を覚ましたときには、エリスは赤子のようになっていた。パラノイア[注釈 2]と診断され[注釈 3]、治癒の望みはないと医師は告げた。豊太郎は、何度となくエリスを抱いて涙を流した。

天方大臣に従って帰国するにあたり、豊太郎は相沢と相談してエリスの母親に生活資金を渡し、子が生まれたときのことも頼んだ。

豊太郎の回想は次のことばで終わる。「相沢謙吉のような良き友人は、他に得られるものではない。しかし、私の脳裏には、一点の彼を憎む心が今でも残っている」

主な登場人物

太田豊太郎
主人公。幼い頃に父親をなくし母親に育てられた。ひとりっ子。学業は常に成績トップ。大学法学部を卒業後、某省に勤める。官命によりドイツに赴任。ドイツで過ごすうちに、今までの人生は他人の敷いたレールの上を進んでいただけで、受け身だったと気がつく。エリスと出会い交流を持つが、そのことで同郷者から上司の官長に讒言されて免官となり、職を失う。間もなく母親も失う。
官長
豊太郎の勤務先である某省での上司。豊太郎をドイツへ赴任させた人物であり、また、豊太郎を免官にした人物でもある。
エリス
ヰクトリア(ヴィクトリア)座の踊り子。豊太郎によれば、踊り子は奴隷のような存在であり安い給金で働かされている。父親の葬儀代が出せないほど、お金に困っていたところを豊太郎に助けられ、以後、豊太郎と交流を持つ。
相沢謙吉
豊太郎の友人。天方の秘書官。免官となった豊太郎とドイツで再会し、豊太郎を天方伯と引き合わせる。豊太郎が才能を活かせる舞台に立つことを望んでいる。
大臣・天方伯
豊太郎に翻訳の仕事を依頼する。その語学力の高さを認める。[注釈 4]

エリスのモデル

1888年(明治21年)に鷗外がドイツから帰国した後、ドイツ人女性が鷗外のすぐあとを追って来日して、滞在一月(1888年9月12日 - 10月17日)ほどで離日する出来事があった。彼女への説得を、鷗外の義弟小金井良精と、鷗外の弟・森篤次郎(筆名三木竹二)が行っていた(経緯は『舞姫』のストーリーとは異なり、作中の彼女の「発狂」もフィクションである。)。

このため、エリスのモデルが実在するとして、モデル探しが行われてきた。1981年に中川浩一・沢護が「ジャパン・ウィークリー・メイル」(1888年当時横浜で発行されていた英語新聞)に記載されていた船舶乗客リスト[注釈 5]から「Miss Elise Wiegert」(エリーゼ・ヴィーゲルト嬢)が1888年9月12日に横浜港に入港し、10月17日に出航したドイツ汽船ゲネラル・ヴェルダー号の一等船客であったことを発見した[4]。その後、ゲネラル・ヴェルダー号が寄港した各地の新聞を調べると、Miss Elise Wiegertの名は8回見つかった[5][注釈 6]

またアンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト(Anna Berta Luise Wiegert、1872年12月16日 -1951年、「エリス来日事件」当時15歳)とする説[6]があり、傍証として森鷗外の子供には杏奴(アンヌ)と類(ルイ)がいて関連が疑われている。

また、エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト(Elise Marie Caroline Wiegert、1866年9月15日 - 1953年8月4日、シュチェチン生まれ)とする六草いちかの説がある。[注釈 7][5][7][8][注釈 8]。傍証として森鷗外の子に森茉莉(もり まり)がいることがある。

また、このエリーゼの2歳下の妹アンナ・アルヴィーネ・クララ・ヴィーゲルトが1888年に未婚で男子を出産していることから、エリスのモデルはこの妹クララであり、太田豊大郎のモデルと言われる武島務がクララの恋人ではないかという説もある[9]

森鷗外記念会会長の山崎一穎は、エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトがエリスのモデルであるとする六草いちか説を次のように評価している(2011年7月)[4]

  1. 1981年(乗船名簿の発見)以来、30年を経て、間違いなくその人を特定できたことは大きな発見である。
  2. エリーゼは帰国した10年後の1898年から1904年までの6年間は帽子制作者としてベルリン東地区ブルーメン通り18番地に居住していたが、このことは小金井喜美子の「文学」掲載中の「帽子会社の意匠部に勤める」と言う言葉と一致する[10]
  3. エリーゼ・ヴィーゲルトはユダヤ人ではないことが明確になった[注釈 9]
  4. 豊太郎とエリスの出会いの教会について従来の説を否定し、新たに「ガルニゾン教会」を特定した。
  5. エリーゼは来日時に21歳であり、ドイツの法律が21歳を成人と認めているので、親権者の承諾を得ずに海外旅行が可能であることが判明した。
  6. 六草の調査過程で判明した人名・地名が「舞姫」中に散見することを改めて知ることができた。エリスの父の職業は仕立物師であるが、エリーゼの母の職業が仕立物師である。また、エリスの母が「ステッチンわたりの農家に遠き縁者あるに」と言うが、ステッチン(=シュチェチン)は、エリーゼの母の故郷であり、エリーゼの出生地でもある。

なお「エリス」という名前について、言語的にはドイツ語のエリーゼ(Elise)から直接導き出されたものではありえず、鷗外が『舞姫』と前後して翻訳発表したツルゲーネフの短編『幻』から引用した可能性が高いという指摘がある[注釈 10]が、六草説と矛盾するものではない。

太田豊太郎のモデル

ドイツ留学中の森鷗外(中列左端)と武島務(鷗外の隣)1888年

主人公は森鷗外自身がモデルと考えられているが、人物の設定に、秩父郡太田村(現埼玉県秩父市)出身の軍医、武島務1863年-1890年)の生涯が色濃く投影されているという説がある。それによれば、太田豊太郎の名前は、武島の出身地(秩父郡太田)と、鷗外の実名(林太郎)から取ったものだという。

武島は漢方医の子として生まれ、日本橋岡部病院を経て東亜医学校で研修中に鷗外と知り合い、同校で内科と外科の医師免許を取得[11]。軍医となり、1886年(明治19年)に妻子を残して私費でドイツに留学し、ベルリンの王立フリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現フンボルト大学)へ入学した(当時23歳)[11]。鷗外が陸軍の留学生としてドイツに渡ったのはその2年前(1884年)で、ライプツィッヒ、ドレスデン、ミュンヘンと滞在し、1887年4月からベルリンにいた。2人はベルリンで親交を重ねている。その後、武島の実家から送金を頼まれた義兄(姉の夫)が学費を着服し、仕送りが途絶えてしまい、金に困る日本人が外国にいては本国の恥とする駐在武官福島安正から、官費で帰国するか、免官されてドイツに残るかの選択を迫られた[11]。武島は留学を続けることを選び、翌1887年免官処分を受け、軍籍を失った。日本の医学誌への寄稿で得た原稿料や、鷗外ら日本人留学生からの援助で何とか学業を続けたが、1889年1月に学業不熱心とされて学籍を失った[11]。アジアの家具や茶葉を扱っていたドレスデンの商社R. Seelig & Hille(現Teekanne)に職を得たが、1890年初頭に肺結核にかかり、同年5月に27歳で不遇の生涯を閉じた[11]。帰国した鷗外が『舞姫』を発表した4ヶ月後のことだった[12]

太田豊太郎のモデルは北尾次郎ではないかとする説もある[13]

舞姫論争

1890年、石橋忍月と、鷗外との間に起こった文学論争

当時帝国大学法科大学(現在の東大法学部)在学中の忍月は「気取半之丞」の筆名で「舞姫」という論考を発表し、主人公が意志薄弱であることなどを指摘し批判[14]。これに対し4月鷗外は、『しがらみ草紙』に相沢謙吉を筆名に使い、「気取半之丞に与ふる書」で応戦。その後も論争が行われたが、忍月が筆を絶って収束。最初の本格的な近代文学論争だと言われる[15]

舞姫の舞台となる地名

「舞姫」を題材にしたもの

小説

  • 山田風太郎「築地西洋軒」(1980年発表、短編集『明治波濤歌』に収録)- 「エリス来日事件」をふまえ、エリスが日本人の決闘事件に関わってゆくというストーリー。なお結末は鷗外の別の短編「普請中」のパロディ。

漫画

映画・ドラマ

アニメ

舞台

  • Musical『舞姫』-MAIHIME-森鷗外原作「舞姫」より - 宝塚歌劇団が2007・2008・2023年に上演。

ゲーム

音楽

脚注

注釈

  1. ^ 豊太郎が散歩した「獣苑」はベルリンの都市公園ティーアガルテン(Tiergarten)を指す。クロステル巷(Klosterstraße)の古寺については諸説あるが、マリエン教会(Marienkirche)とする説もある。後述の六草によればガルニゾン教会。
  2. ^ 当時のパラノイアの定義と、現代の定義は異なるとされている
  3. ^ 初出(『国民之友』)等では「ブリヨオトジン」(: Blödsinn, 痴呆)。
  4. ^ 天方のモデルを山縣有朋とする説が有力。山県訪欧時の随行医官は鷗外の生涯の友人賀古鶴所(かこつるど)であった。賀古鶴所は日本における近世耳鼻咽喉科の創始者。歌人でもあり、『ヰタ・セクスアリス』の古賀のモデルとしても知られる。
  5. ^ かつては日本に限らず、主要港で発行される新聞には、寄港する船舶の乗客名簿が記載されていることが多かった。復刻版『ジャパン・ウィークリー・メイル』 を参照。「横浜港に出入港する船とその乗客のリストからは、来日した外国人の動向のみならず、海外に渡航した日本人に関する非常に貴重な情報も得られます。」
  6. ^ 作品中にエリスをユダヤ人とする記述はないが、それを示唆するサインがあるとする論考があった。荻原雄一編著『舞姫 エリス、ユダヤ人論』至文堂、2001年5月。ISBN 4-7843-0207-7 。ユダヤ人説はNHKの番組でも紹介された。今野勉『鷗外の恋人 百二十年後の真実』日本放送出版協会、2010年11月。ISBN 978-4-14-081442-0 
  7. ^ ベルリンの教会公文書館等の調査で確認したとする。六草いちか:『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』2011-03-08 講談社 ISBN 978-4-06-216758-1
  8. ^ 六草は、エリーゼとみられる女性の写真(41歳-52歳頃)も発見した。六草『それからのエリス いま明らかになる鷗外「舞姫」の面影 』2011-09-04 講談社 ISBN 978-4-06-218595-0“森鴎外の「舞姫」モデルの写真か 独在住の六草さんが発見”. 47NEWS. 共同通信. (2013年8月29日). https://web.archive.org/web/20141104044857/http://www.47news.jp/CN/201308/CN2013082901001270.html 
  9. ^ 山崎は『舞姫 現代語訳』(ちくま文庫、2006年)の解説でユダヤ人説に肯定的であった。
  10. ^ 131.エリスという名前 、またはHoozawa-Arkenau, Noriyo. 2017. Aufhebung der Diglossie in Japan. Hamburg. p.400-403。同作品を鷗外はドイツ語レクラム文庫から重訳したが、その主人公の名前がエリス(Ellis)である。これはケルト語系の名前である。

出典

  1. ^ 『舞姫』:新字旧仮名 - 青空文庫
  2. ^ 教科書のなかの文学/教室のそとの文学Ⅲ──森鷗外「舞姫」とその時代”. 日本近代文学館. 2024年6月15日閲覧。
  3. ^ 吉川創太「文学教育の変遷から見る森鷗外『舞姫』の教材的価値」『全国大学国語教育学会国語科教育研究:大会研究発表要旨集』第136巻、全国大学国語教育学会、2019年6月、71-74頁、doi:10.20555/jtsjs.136.0_71ISSN 2432-1753 
  4. ^ a b 『鷗外』89号,pp.54-60, 2011-07-31、森鷗外記念会
  5. ^ a b 高島俊男:「森鷗外のドイツの恋人」、お言葉ですが・・・ 別巻5 漢字の慣用音って何だろう?、pp.128-164、2012-07-05、連合出版
  6. ^ 植木 2000今野 2010川本裕司 (2010-11--5). “「舞姫は15歳」説に新証拠 刺繍用型金にイニシャル”. 朝日新聞. http://book.asahi.com/clip/TKY201011110203.html 2013年1月22日閲覧。 
  7. ^ 海老沢類 (2011年3月10日). “鷗外「舞姫」エリス特定? 教会の出生記録に名前、“別れ”後の職業も合致 独在住ライターが確認”. MSN産経ニュース. https://web.archive.org/web/20110313042823/http://sankei.jp.msn.com/life/news/110310/bks11031005000001-n1.htm 2011年3月10日閲覧。 
  8. ^ “鴎外「舞姫」モデルの晩年明らかに=ベルリン在住のライターが調査”. 時事通信ニュース. (2012年11月6日). http://www.jiji.com/jc/zc?k=201211/2012110600062&g=soc=2012-11-06 
  9. ^ 蓮沼啓介「大日本帝国憲法と森鷗外」(PDF)『日本大学法科大学院法務研究』第14号、日本大学大学院法務研究科、2017年1月、155-166頁、ISSN 134978202024年7月2日閲覧 
  10. ^ 『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』 六草いちか (講談社)”. KINOKUNIYA 書評空間BOOKLOG. 紀伊国屋書店 (2012年7月29日). 2017年12月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年3月11日閲覧。
  11. ^ a b c d e 文豪森鷗外とTEEKANNEとをつなぐものとは?ベアーテ・ヴォンデ(ベルリン森鷗外記念館副館長)、ティーカネン
  12. ^ 埼玉ゆかりの偉人 埼玉県公式サイト
  13. ^ 広瀬毅彦「北尾次郎周辺から見た『舞姫』成立過程」『北尾次郎ルネサンスプロジェクト研究報告書』第1巻、2016年、132-105頁、CRID 1010000782264597763 
  14. ^ 石橋「舞姫」(『国民之友』1890年2月、72号)青空文庫。「其主人公が薄志弱行にして精気なく誠心なく随ツて感情の健全ならざるは予が本篇の為めに惜む所なり。」
  15. ^ 石橋忍月及び森鷗外の全集に所収。研究書として、嘉部 1980などがある。
  16. ^ 東映アニメ、新生「画ニメ」のDVDソフトを8月発売 -第1弾はFFの天野喜孝ら10作品。静止画主体のアニメ、AV watch、2006年5月30日。

書誌情報

  • 森鷗外『山椒大夫・舞姫』旺文社〈必読名作シリーズ〉、1990年3月。ISBN 4-01-066032-5 
  • 森鷗外『舞姫』集英社〈集英社文庫〉、1991年3月。ISBN 4-08-752010-2 
  • 森鷗外『舞姫 雁 阿部一族 山椒大夫 外八篇』文藝春秋〈文春文庫〉、1998年5月。ISBN 4-16-760101-X 
  • 森鷗外『舞姫 現代語訳』井上靖訳、山崎一穎監修、筑摩書房〈ちくま文庫〉、2006年3月。ISBN 4-480-42188-2 
  • 森鷗外『鷗外の「舞姫」』角川学芸出版〈角川ソフィア文庫〉、2006年4月。ISBN 4-04-357414-2 
  • 森鷗外『阿部一族・舞姫』(76刷改版)新潮社〈新潮文庫〉、2006年4月。ISBN 4-10-102004-3 

参考文献

外部リンク

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