青山リマ
青山 リマ(あおやま リマ、1949年10月21日 - )は、日本の女優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14]。本名・初期芸名は小柴 とも子(こしば ともこ)[1][2][3][4][12]。高校在学中の1967年(昭和43年)からアングラ劇団に参加し[1][2]、当初は本名で成人映画に出演したが[3][4][12]、その後、芸名に改称した[1][2]。渡辺護監督の『おんな地獄唄 尺八弁天』、新藤兼人監督の『裸の十九才』、澤田幸弘監督の石原裕次郎主演作『反逆の報酬』に出演し、演技派女優として知られる[1][5][10][11][13]。 人物・来歴成人映画の時代1949年(昭和24年)10月21日、茨城県に生まれる[1][2][10]。 1968年(昭和43年)3月、新制高等学校を卒業する[1]。高校在学中からアングラ劇団に参加し、「劇団ブルーキャッツ」、「劇団赤と黒」、「劇団炎」を経る[1]。なかでも「劇団赤と黒」(代表・松野京一)は、1965年(昭和40年)結成以来、白川和子も高校在学中から参加していた劇団であり、1967年(昭和43年)10月12日 - 同13日、千代田区内幸町のイイノホールで『恐怖の舞踏会 拷問』の公演を行っている[15]。その活動は1968年半ばに停止した。「劇団赤と黒」「劇団炎」ともに、千代田区八重洲のカジバシ座での舞台実演で知られる劇団である。『日本映画俳優全集・女優編』の川島のぶ子によれば、高校卒業の年に公開された『成人男女虎の巻』という作品に出演して、映画界にデビューしたと記述している[1]。同作の監督名、製作・配給会社名等の詳細は不明である[1][2][3][7][8][9][10][11][12]。しかしながら、同作に先行して、青山が高校在学中であった1967年12月に公開された福田晴一の監督作『整形処女』に本名の小柴 とも子の名で主演している記録が残っている[3][4][12]。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期の成人映画界のおもな出演者を列挙しているが、青山についての言及はない。1966年デビューの一星ケミ(1947年 - )や祝真理(1948年 - )、同じ1967年デビューの辰巳典子(1947年 - )や谷ナオミ(1948年 - )ら同様、戦後生まれの第二世代に属する。久保新二の回想によれば、この時代に白川和子の紹介で青山に出逢い、その当時の青山は高円寺に住んでいたという[16]。久保も青山も、白川和子、宮下順子、谷ナオミ、辰巳典子、青山美沙らとともに新宿地球座(のちの新宿ジョイシネマ)、池袋地球座(のちの池袋ジョイシネマ)、銀座地球座(のちの銀座シネパトス)で、映画の合間に実演の舞台に立ったという[17]。 1970年代に入ると、渡辺護や山本晋也らの作品に多く出演するようになる[1][2][3][4][5][7][8][9][10][11][12]。渡辺護が監督した『おんな地獄唄 尺八弁天』(1970年)では、義賊を演じる香取環に助けられる少女「おさよ」を演じ[5]、同じく『女子大生 性愛図』(1974年)では「立教助教授教え子殺人事件」をモデルとした物語で被害者の「令子」を演じた[18][19]。渡辺の回想によれば、青山は「あたしが芝居やると、山本(晋也)カントクは、ああ、いい! リマちゃん、いいよ! OK!って言うのに、この監督(渡辺護)は、何やってんだ、バカヤロー! コンチクショー!だもんね」と渡辺を突き飛ばしたことがあるという[20]。久保の回想によれば、渡辺にかわいがられ演技派女優と評されるようになったという[16]。 1970年(昭和45年)10月31日に公開された新藤兼人監督の『裸の十九才』では、主人公の少年を演じる原田大二郎が同棲する2人の女のうちの1人、「マリ」役に抜擢され、「少年の心をいやす役を好演」と評された(『成人映画』元編集長・川島のぶ子)[1]。同作は和田嘉訓監督の『銭ゲバ』(主演唐十郎)と二本立で、ともに東宝の配給により一般映画として全国公開された[1][10][13]。1973年(昭和48年)2月17日に公開された石原裕次郎の主演作『反逆の報酬』(監督澤田幸弘)にも「みゆき」役で出演、これも東宝が配給して全国公開されている[10][13]。この時期、団鬼六の編集・監修する雑誌で、青山 リエあるいは青山 真樹の名で緊縛写真のモデルも務めた。 1974年(昭和49年)7月6日に公開された日活の外部委託作品『情事の果て』(監督佐々木元)に出演した記録が残っているが[12][14]、同作以降の劇場用映画、テレビ映画ともに出演歴が見当たらない[1][2][7][8][9][10][11][12][13][14][21]。『日本映画俳優全集・女優編』の川島のぶ子の記述によれば、同年に引退したという[1]。満25歳であった[1][2][10]。以降の消息は知られておらず、存命であれば2014年(平成26年)には満65歳である[1][2][10]。 再評価2013年(平成25年)2月8日 - 同11日、神戸映画資料館で行われた「ピンク映画50周年 特別上映会 映画監督・渡辺 護の時代」特集上映で『おんな地獄唄 尺八弁天』が、75分の16mmフィルム版上映用プリントで上映された[22]。同作は、2014年(平成26年)10月4日 - 同31日、ユーロスペースで行われた「渡辺護追悼、そして『たからぶね』の船出」特集上映でも、70分のデジタル版で上映された[23]。同作のDVDビデオグラムは、2004年(平成16年)6月25日、アップリンクが70分版を発売した[11]。 フィルモグラフィクレジットはすべて「出演」である[1][2][3][4][5][7][8][9][10][11][12][13][14]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵・現存状況についても記す[8][24]。
ビブリオグラフィ
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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