高阪 剛(こうさか つよし、1970年3月6日 - )は、日本の元男性総合格闘家、プロレスラー。滋賀県草津市出身。ALLIANCE主宰。元スーパーヘビー級キング・オブ・パンクラシスト。
マウントポジションを取られた状態から脱出する技「TKシザース」の開発者として知られる。
先祖は戦国武将の高坂昌信[1]。実兄はプロのジャズドラマー・テルシファー高阪(高阪照雄)。
来歴
幼い頃は兄弟でプロレスごっこをしてよく遊んでおり、常に兄達に勝つ事ばかり考えていた。そんな事がきっかけになり、中学生の頃に柔道を始める。正強高等学校(現・奈良大学附属高等学校)、専修大学(全日本プロレスの秋山準は同級生で友人)、東レと柔道部に所属。柔道をバックボーンにリングスに入団。同期には坂田亘がいる。
1994年8月20日、鶴巻伸洋戦でデビュー。
1995年10月13日、ザ・トーナメント・オブ・J '95に出場し、優勝を果たした。
1996年1月24日、リングスでモーリス・スミスにギブアップ勝ち。
1997年10月11日、アメリカ合衆国で開催されたグラップリング大会「The Contenders」でトム・エリクソンに判定負け。
1998年にはアメリカに拠点を移し、モーリス・スミスらとトレーニングを行う。同年3月13日、UFC 16でキモに判定勝ち。同年10月16日、UFC Brazilでピート・ウィリアムスに判定勝ち。
1999年1月9日、UFC 18でバス・ルッテンと対戦。TKO負けしたものの「世界のTK」の名を世界の格闘技ファンに轟かせた。だがその後、リングスでギルバート・アイブルに2回に及ぶ敗退、11月のUFC-Jではペドロ・ヒーゾにTKO負けと精彩を欠いた。
2000年7月15日、アメリカで開催されたリングスUSA RISING STARS A Blockを勝ち抜き、決勝大会への切符を手に入れたが、9月30日の決勝大会は欠場した。
2000年12月22日、KING of KINGSの1回戦でイリューヒン・ミーシャにKO勝ち。2回戦でエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦。高阪が放ったフックでカット・出血によりドクターストップ勝ち。ただし、ヒョードルは反則の肘打ちでのカットだと強く主張。
2001年2月24日、KING of KINGS決勝トーナメントの準々決勝では当時UFC世界ヘビー級王者だったランディ・クートゥアと対戦し、判定負け。
リングス活動停止後はUFC、アブダビコンバット、DEEP、新日本プロレス(アルティメット・クラッシュ)などで活躍。リコ・ロドリゲス、アントニオ・ホジェリオ・ノゲイラ、ファブリシオ・ヴェウドゥムなどの世界の強豪とも対戦をしている。2003年5月2日、新日本プロレスのリングでドルゴルスレン・スミヤバザル(朝青龍の実兄)にTKO勝ち。
2004年2月4日、U-STYLE 1周年興行で田村潔司と対戦し、15分51秒腕ひしぎ十字固めで一本負け[2]。
2004年11月7日、初代スーパーヘビー級(+100kg)キング・オブ・パンクラス決定戦でロン・ウォーターマンと対戦し、判定勝ちを収め王座獲得に成功した。
PRIDE
2005年4月3日、PRIDE初参戦となったPRIDE 武士道 -其の六-でPRIDEヘビー級王者エメリヤーエンコ・ヒョードルと再戦し、劣勢な展開のまま1R終了時にカットによる出血からドクターストップとなり、TKO負けを喫した。
新日本プロレスでは総合格闘技ルールの試合だけではなくプロレスも経験しており、2002年10月14日に新日本プロレス初参戦。NWFトーナメント1回戦で安田忠夫に勝利するも[3]、2003年1月4日の決勝で高山善廣に敗れた[4]。2005年3月26日の永田裕志戦では胴締めスリーパーで勝利するも、「試合に勝って勝負に負けた」と納得のいかない高阪が再戦を要求(高阪はこの試合で膝を壊され、PRIDEでのヒョードル戦に影響が出てしまった)[5]。5月14日の再戦では、永田にバックドロップホールドを決められ、リベンジを許してしまう[6]。
2006年2月26日、PRIDE.31でマリオ・スペーヒーと対戦し、パンチラッシュでKO勝ち。試合後のリング上で、同年5月開催の無差別級トーナメントを最後に引退することを宣言。この日は自身の子供の出産予定日でもあった[7]。
2006年5月5日、PRIDE 無差別級グランプリ 2006 開幕戦では、マーク・ハントと対戦し、3R TKO負け。ダウンを奪われながらも立ち上がり、真っ向から殴り合い続け、ハントのパンチでフラフラになりながらも前に出続ける姿に観客から大きな声援が送られた。敗北したことでこの試合が現役最後の試合となった。試合後に控え室を訪れたジョシュ・バーネットが、高阪の引退を想い号泣した。
RIZIN
2015年12月29日、戦う意思が衰えなかったことから、9年7か月ぶりにRIZINで現役復帰。復帰戦となったRIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2015 さいたま3DAYSでジェームス・トンプソンと対戦。1Rから圧倒し、2Rにラッシュを浴びせてTKO勝利。復帰戦を勝利で飾った。
2016年12月29日、RIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2016 無差別級トーナメント 2nd ROUNDで、無差別級GPの2回戦に進出していたイリー・プロハースカが靭帯断裂により欠場し、代役となるはずだったマーク・タニオスも出場できないことから、その代役としてトーナメント2回戦に参戦し把瑠都と対戦。圧倒的な体重差で終始抑え込まれ、0-3の判定負けを喫した。
2017年12月31日、RIZIN.9でPRIDE無差別級GP2006優勝者のミルコ・クロコップと対戦。1R、スタンドで密着した体勢からの細かいパンチ連打で意識を飛ばされTKO負け[8]。
2020年1月19日、HEAT 46でサシャ・ミリンコヴィッチと対戦。1R、ミリンコヴィッチのパウンドが高阪の後頭部にヒットし試合が中断。ミリンコヴィッチにイエローカードが提示されたが、この中断の間に高阪が脛の負傷をしていたことからレフェリーが試合をストップ。1Rドクターストップ負けとなった。
2022年3月23日、52歳となり、4月17日のRIZIN.35が引退試合となることが発表された[9]。
2022年4月17日、RIZIN.35で引退試合を行い、2019年度 極真空手世界王者の上田幹雄と対戦。カウンターの右フックでダウンを奪い、パウンドで1R TKO勝ちを収めた。引退試合で26歳の極真世界王者を52歳の高坂が打撃でKOする展開に、観客からは惜しみない拍手と声援が送られた。試合後にはリング上で引退セレモニーが行われ、この試合で現役引退となった[10]。[試合映像 1]
人物
- 指導者としても名高く、モーリス・スミス、フランク・シャムロック、吉田秀彦(学生柔道時代からの友人、髙阪が早生まれのため、同級にあたる)などを指導した。また、実況者としても起用が多く、実況席における明晰な解説ぶりも高い評価を受けている。
- 2015年には、ラグビーワールドカップでのラグビー日本代表のスポットコーチに招聘された。高坂はラグビーに無い総合格闘技のタックルの技術をラグビー日本代表選手に教え込み、日本代表選手のタックルスキルを海外トップ選手以上の段階にまで引き上げ、ラグビーワールドカップ 2015の「日本 vs. 南アフリカ」などの歴史的勝利に貢献したことでも知られている[11]。
A-SQUARE
2005年のエメリヤーエンコ・ヒョードル戦後、東京都港区赤坂にオフィシャルジム『A-SQUARE』を開設。2009年4月には所属する菊野克紀がDEEPライト級王者となった。
戦績
総合格闘技 戦績
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50 試合
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(T)KO
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一本
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判定
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その他
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引き分け
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無効試合
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28 勝
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9
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6
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9
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4
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2
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0
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21 敗
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10
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2
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7
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2
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獲得タイトル
出版物
DVD
- 高阪剛 寝技大全 トップポジション編 Vol.1(クエスト、2002年11月16日)
- 高阪剛 寝技大全 トップポジション編 Vol.2(クエスト、2002年12月17日)
- 高阪剛 寝技大全 ボトムポジション編(クエスト、2003年1月17日)
- 高阪剛 寝技大全 連続技&カウンター編(クエスト、2003年2月19日)
出演
テレビドラマ
その他の番組
脚注
試合映像
- ^ 『【番組】RIZIN CONFESSIONS #98(※番組内で試合映像。上田幹雄と高阪剛による試合振り返りドキュメンタリー番組)』RIZIN公式YouTubeチャンネル、2022年。https://www.youtube.com/watch?v=ePRWRc7sprg。
関連項目
外部リンク
戦績等