エヴロペスマ(セルビア語:Европесма / Evropesma)、あるいはエウロピェスマ(モンテネグロ語:Еуропјесма / Europjesma)[1]は、2004年から2006年まで毎年行われたセルビア・モンテネグロの音楽祭。セルビア国営放送(RTS)およびモンテネグロ国営放送(RTCG)の連合組織である公共放送連合(Udruženje javnih radija i televizija; UJRT)によって主催されていた。以下、本稿では「エヴロペスマ」と表記する。
エヴロペスマはユーロビジョン・ソング・コンテストのセルビア・モンテネグロ代表を決める大会であった。2005年および2006年のベオヴィジヤ(Beovizija)とモンテヴィジヤ(Montevizija)は、それぞれセルビア共和国およびモンテネグロ共和国からの参加者を決める、エヴロペスマの「予選」としての位置づけであった。セルビア・モンテネグロが解体してセルビアとモンテネグロがそれぞれ独立すると、これらの予選大会は、そのまま両国の代表を選考する大会となった。
セルビア、モンテネグロ両国で高い知名度を誇る、数多くの大スターを擁するセルビア側からの参加者に対して、公正に選ばれた無名のモンテネグロ側の参加者が勝利を収めることは難しいとしてモンテネグロ国営放送は懸念を表明していた。モンテネグロ国営放送は、電話投票で多くの票を集められそうなモンテネグロのスターをエヴロペスマに送り込むことができなかった。そのため、モンテネグロ側は電話投票だけでエヴロペスマ優勝者を決定することに反対し、電話投票は選考の一部に留まる方式を求めた。その結果、セルビアとモンテネグロの両国からそれぞれ4人ずつの審査員が参加し、電話投票の結果は「9人目の」審査員とする方式がとられた。それぞれの審査員は、1、2、3、4、5、6、7、8、10、12の各ポイントを優れた参加者に与える(2004年は1、2、3、4、5、6、8、10であった)。
第1回のエヴロペスマは、2004年2月21日、セルビアのベオグラードで開かれ、セルビアから19人、モンテネグロから5人の計24人が参加した。セルビア側からの参加曲のうち4曲は2004年のベオヴィジヤで選ばれた。モンテネグロ側からの参加曲はモンテネグロ国営放送によって内部で決定された。その他の参加者は公共放送連合によって選ばれた。ジェリコ・ヨクシモヴィッチは「Lane moje」で参加して優勝し、トルコのイスタンブールで開かれたユーロビジョン・ソング・コンテスト2004に進出、第2位となった。セルビア側の審査員が、モンテネグロ側の参加者に1ポイントも与えなかったことが問題となったが、双方はヨクシモヴィッチを優勝者とすることで合意した。
はセルビア国営放送のベオヴィジヤによる選出、はモンテネグロ国営放送による選出。その他は公共放送連合による選出。
エヴロペスマ2005は、2005年3月4日に、モンテネグロのポドゴリツァにて開かれた。大会が始まる前から既に問題が起こっていた。モンテネグロ国営放送は、セルビア国営放送がベオヴィジヤ2005において優勝者のイェレナ・トマシェヴィッチと次点のオギ・ラディヴォイェヴィッチ(Ogi Radivojević)をひいきしていたとして非難した。イェレナ・トマシェヴィッチの参加曲「Jutro」を制作したのは前年優勝のジェリコ・ヨクシモヴィッチで、ベオヴィジヤの大会が始まる前から既にヨクシモヴィッチはイェレナ・トマシェヴィッチの優勝パーティを準備していた。
モンテネグロ国営放送の審査員は、セルビア側の参加者にはわずかしかポイントを与えない一方、モンテネグロから参加したノー・ネームに最高得点となる12ポイントを与えた。ノー・ネームは電話投票でも最高得点を得ている。セルビア側の審査員はモンテネグロからの上位参加者にも得点を与えた一方、モンテネグロ側の審査員は、セルビアからの上位参加者には1ポイントも与えなかった。
ノー・ネームの「Zauvijek moja」がセルビア・モンテネグロ代表として決定される前、欧州放送連合は公式に寄せられた多くの抗議に対して調査に乗り出した。これらの抗議は、剽窃に関するものであり、これも激しい論議を呼んだ。決定は延期されたが、最終的には参加が認められた。
10分間の電話投票に関して、セルビアでは通話料がかかった一方でモンテネグロでは通話料が無料だったとする噂が流れたものの、これは事実に基づくものではない。
審査員によるポイントのうち、薄い網掛けとなっている部分はモンテネグロ側の審査員による。
エヴロペスマ2006は、2006年3月11日にセルビアのベオグラードにて行われた。ここでもまた、2005年大会と同様の、両国の審査員による特徴的なポイント配分が行われた。セルビア側の代表選考であるベオヴィジヤでの優勝者フラミンゴシ feat. ルイスとアナ・ニコリッチに対して、モンテネグロ側の審査員は1ポイントたりとも与えなかった。セルビア側の審査員は、モンテネグロ側の参加者ノー・ネームに合計8ポイント、ステヴァン・ファディには合計4ポイントを与えた。これによって2005年に引き続きノー・ネームが優勝者となった。ベオヴィジヤの優勝者フラミンゴシは第2位に終わった。電話投票ではフラミンゴシは最も多くの票を集め、ノー・ネームはアナ・ニコリッチに次いで3番目であった。
投票が進められる中、審査員による偏った投票に会場は騒然となり、観客の中には退席する者もいた。ノー・ネームが優勝者と認められ、優勝者によるパフォーマンスが行われるときになると、会場に留まった観客らはノー・ネームに対してステージを去るよう求めるブーイング・コールを発した。観客はフラミンゴシを出すようコールし、フラミンゴシがステージに現われると歓声に沸きかえった。フラミンゴシのパフォーマンスにその他のセルビア側の参加者がステージに集まって加わり、観客らは歓声を上げた。
その結果として、公共放送連合の執行部はノー・ネームの勝利を認めないことを決定し、大会の意向にそぐわない不正な審査があったことを宣告した[2]。
セルビア国営放送の社長で公共放送連合の会長を務めるアレクサンダル・ティヤニッチ(Aleksandar Tijanić)は、モンテネグロ国営放送の社長ラドヴァン・ミリャニッチ(Radovan Miljanić)に手紙を送り、ベオヴィジヤとモンテヴィジヤの高得点者それぞれ5人ずつを集め、純粋な電話投票によって優勝者を決める方式での大会のやり直しを提案した[3]。同じ頃、モンテネグロ放送教会は欧州放送連合に対して、大会の結果を認めさせるよう仲介を求めた[4]。欧州放送連合は2006年3月18日、ユーロビジョン・ソング・コンテスト2006の参加締め切りの2日前、自力での問題解決を求めた[5]。これによって結論が出ないまま締め切り日を迎え、3月20日、セルビア・モンテネグロのユーロビジョン・ソング・コンテスト2006への不参加が確定した。公共放送連合はユーロビジョン2006の準決勝、決勝ともに放送し、セルビアの視聴者は投票にも参加できた。
セルビア・モンテネグロは2005年のユーロビジョンで7位となっていたことから、2006年大会では準決勝に参加せずに決勝進出する権利を持っていた(10位以内は翌年大会で準決勝を免除される)。セルビア・モンテネグロが不参加となったことから、2005年に11位であったクロアチアが繰り上げで準決勝なしで決勝に進出した。2005年にクロアチア代表で参加して11位となったのはボリス・ノヴコヴィッチ(Boris Novković)、2006年大会で繰り上げ決勝進出となったのはセヴェリナ・ヴチュコヴィッチであった。
赤色の参加者と審査員はモンテネグロ側、青色はセルビア側である。