グルジア文字
グルジア文字(グルジアもじ、ქართული დამწერლობა, kartuli damtserloba)は、南コーカサスにあるジョージア(グルジア)の公用語であるグルジア語(カルトリ語)を書き表すために用いられる文字である。アブハズ語、オセット語の表記のために用いられていたこともある。 現代のグルジア文字は33文字から構成され、アセンダーやディセンダー、あるいはその両方を持つ字がある。左から右へ横書きされるアルファベットである。 2015年4月に日本政府が国家の外名を「グルジア」から「ジョージア」へ変更したのに前後し(ジョージアの国名も参照)、「ジョージア文字」への言い換えも見られるが、グルジア語と同様に学会等で呼称の変更決議が行われた事実は確認されていない。 歴史グルジア文字がいつどのようにして生まれたのかについて、詳しいことは明らかでない[1]。8世紀に書かれたグルジアの年代記は紀元前3世紀のグルジア王パルナヴァズ1世 がグルジア文字を創ったと伝えているが、確証はない。 グルジアでキリスト教が国教化された4世紀に聖書などをグルジア語に翻訳するために創りだされたとする説が有力である[1]。文字の順序や、本来ならばグルジア語の表記には不要な文字が含まれギリシア文字に対応すべき位置にあることなどから、ギリシア文字を参考に創られたと推定される[1]。また、円弧と直線の組み合わせという原則に忠実に創られていることから、別の文字が形を変えたものではなく、独自に創りだされたようだ[要出典]。 グルジア文字が記されたもので、現在知られている限り最も古い例は、パレスティナのベツレヘム付近の教会で発見された、430年ごろに書かれたと推定される碑文である[1]。グルジア国内では、トビリシから南に30kmほどのところにあるボルニシ (Bolnisi) のシオニ (Sioni) 教会の碑文が最も古く、5世紀末のものと考えられている。しかし、近年になってグルジア国内で4世紀よりも前に書かれた可能性のある碑文が発見され、成立の時期についての議論が起きている[1]。 グルジア文字は歴史的に2度大きく形を変えた。9世紀ごろまでに用いられていた文字は、ムルグロヴァニ(mrglovani「丸文字」)またはアソムタヴルリ(asomtavruli「頭文字」)と呼ばれる。9世紀から11世紀にかけては、ヌスフリ(nusxuri「目録文字」)またはクトホヴァニ(kutxovani「角文字」)と呼ばれる形が取ってかわった。11世紀以降、ムヘドルリ(mxedruli「戦士文字」)と呼ばれる形が現在に至るまで使用されている[1]。 古くはムヘドルリと古い2種類の文字は共存し、ムヘドルリが世俗的な内容、古い文字が宗教的な内容を記すのに用いられた。ヌスフリを主としながらムルグロヴァニを題名や文頭に用いる書き方が発達し、両者はまとめてフツリ(xucuri「聖職者の文字」)と呼ばれた。最終的には宗教的な内容もムヘドルリによって書かれるようになった。1860年代にイリア・チャフチャヴァゼを中心として正書法が改革され、不要な5文字が除かれて33文字になった[2]。 2016年、グルジア文字の3種の書体がユネスコの無形文化遺産に登録された[3]。 字母3種類の文字とも38文字から成るが、現在、そのうち5つは用いられていない。使用されている33文字のうち、5つが母音、28が子音を表す表音文字である。文字とグルジア語の音素が完全に対応し、整った正書法を可能にしている[1]。また、ジョージア国内で使われる他言語のために作られた新しい文字もある。
* グルジア語で使われなくなった文字あるいはグルジア語以外の言語で使われている(た)文字。 ** グルジア語の外来語に使われていた文字。 コンピュータUnicodeUnicode では基本多言語面のU+10A0からU+10FFまでがグルジア文字のブロックとして、大文字(アソムタヴルリ=ムルグロヴァニ)とムヘドルリが収録されている。 Unicodeバージョン4.1ではU+2D00からU+2D2Fまでにグルジア文字補助のブロックが追加され、小文字(ヌスフリ)が収録された。 また、ムヘドルリ文字の大文字に相当するものをUnicodeに収録する提案が2016年5月にされた[5]。2018年のUnicodeバージョン11.0で、U+1C90からU+1CBFまでにグルジア文字拡張のブロックが追加され、ムタヴルリ(Mtavruli)の名前で大文字が収録された[6]。この文字はムヘドルリとよく似ているが、アセンダーやディセンダーを持たずにすべての字が同じ大きさを持つ。タイトルや見出しに用いられる[7]。
キーボードWindowsのグルジア語キーボードの配列は以下の通り。 脚注・出典
参考文献
関連項目外部リンク
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