琉球古字(りゅうきゅうこじ)とは、琉球王国で使用されていた文字。
概要
『琉球神道記』に記載されている文字である。占い等に使っていた[1]ようである。
17種類の文字があり、十干[2]と十二支を表している。本土でも似たような文字が見つかることがある[3]が、関連は不明である。
1886年(明治19年)に歴史家の神谷由道が『東京人類学会報告』第9号にて「琉球の古代文字」として発表したが、それ以降は研究の進展はなかった。在野の研究者でもいわゆる「神代文字」の研究者がとりあげることは再三あったが、それらもいわゆる神代文字の多様性を示すため「参考までに紹介する」程度であって、あまり関心をもたれてきたとはいえない。戦後、1970年代になってから、竹内健は十干十二支が出来る以前に古代中国にあった十二干という古い暦[4]の名残ではないかという説をだしている。
伝説
昔、中城の付近に天人が降りてきて数百の文字を伝えた。占い師が使っていたが、城間に村人が家を悪い日に作ったことを教えなかった。天人が「なぜ教えなかったのか」と聞くと、占い師は「聞かれなかったからだ」と答えたので、天人は「尋ねないなら言って教えるべきだ」と怒って文字の半分を裂いて天に昇っていった。そのため文字は少ししか残らなかった。それが現在の琉球古字だという。
注釈
- ^ 70年代ぐらいまでは老人が順番を表す単なる符丁として(甲乙丙、イロハ、ABC等)のように使っていたともいう。
- ^ 十干といっても陰陽(え・と)の区別がないので5文字しかない。ゆえに単に五行だといったほうがよいかも知れないが、後続する12文字の十二「支」に対比させて便宜上「干」と呼んでいる。
- ^ 『琉球神道記』は江戸時代初期に書かれたものなので、国学者や蘭学者の一部には知られていたが、干支は中国伝来のものであり純粋な日本文化ではないので、神代文字肯定派の国学者であっても琉球古字への国学者からの評価は辛辣なものであった。むしろ蘭学者のほうが中立的な立場から関心を示した。彼らの手によっていくつもの写しが現存しているが、その中には書体がかなり異なったものや出所が曖昧なものも含まれる。
- ^ 十二支を表すという文字のうちの最後の2文字を除くと甲骨文字の十干と形状が一致することから、竹内はこれは十二支ではなく太古に存在した十二干であるという説を唱えた。また十干を表すという5文字しかない文字も、甲骨文字の「木火土金水」(五行)であることを明らかにしている。これらからさらに展開して、神代文字の一種の阿比留草文字や阿波文字について、そのいくつかが甲骨文字であることをつきとめたが、その議論のすべてを発表するには至らなかった。阿比留草文字が甲骨文字であるとの説はその後高橋良典に引き継がれたが、47文字すべてについて解明されたわけではない。ちなみに神代文字についての是非は江戸時代から論争されていたが、甲骨文字が発見されたのは日清戦争の後である。
参考文献
関連項目
外部リンク