信頼性が高く、しかも文章的に優れた海事史研究の著作で知られる。1912年にハーバード大学でPh.D.の学位を取得し、40年間に渡って同大学で教鞭を振るった。クリストファー・コロンブスに関する伝記“Admiral of the Ocean Sea”(1942年)と、ジョン・ポール・ジョーンズに関する伝記“John Paul Jones: A Sailor's Biography”(1959年)で、それぞれピューリッツァー賞を受賞した。1942年には、フランクリン・ルーズベルト大統領によって、第二次世界大戦におけるアメリカ海軍の戦史編纂担当者に任命された。モリソン編纂の海軍戦史は、1947年から1962年にかけて全15巻が刊行される。モリソンは、1951年に少将で海軍を退役した。また、よく知られた“Oxford History of the American People”(1965年)の著者および古典的教科書である“The Growth of the American Republic”(1930年)の共同執筆者でもある。モリソンはその優れた業績により、ハーバード大学やコロンビア大学、イェール大学やオックスフォード大学を含む11の大学から名誉博士号を贈られている。さらに様々な文芸賞や軍人勲章、アメリカ合衆国政府や外国政府からの国家表彰を受け取っており、2回のピューリッツァー賞のほか、バンクロフト賞2回、バルザン賞、レジオン・オブ・メリット(en)および大統領自由勲章などが挙げられる[1][2]。
モリソンは、ハーバードでの博士論文をもとに、1913年、最初の公刊著作となるハリソン・グレイ・オーティスについての伝記“The Life and Letters of Harrison Gray Otis, Federalist, 1765–1848”を出版した。1915年には、ハーバード大学に専任講師の職を得て戻った。第一次世界大戦の間、モリソンはアメリカ陸軍の一兵士として従軍した。また、1919年6月17日まで、講和会議におけるバルチック委員会のアメリカ代表を務めた[1]。
1922年から1925年の間、モリソンは、オックスフォード大学でアメリカ史のハームスワース記念教授(仮訳:Harmsworth Professor of American History)の地位に、アメリカ人としては史上初めて就任した[5]。1925年にはハーバード大学へ再び戻り、教授となった。この時期のモリソンの主な研究対象の一つはニューイングランドの歴史で、1921年には“The Maritime History of Massachusetts, 1783-1860”を著していた。1930年代には、“Builders of the Bay Colony: A Gallery of Our Intellectual Ancestors”(1930年)、“The Founding of Harvard College”(1935年)、“Harvard College in the Seventeenth Century”(1936年)、“Three Centuries of Harvard: 1636–1936”(1936年)および“The Puritan Pronaos”(1936年)など、ハーバード大学及びニューイングランドについての一連の著作を発表している。なお、彼は後年にも再びニューイングランド史に取り組んでおり、“The Ropemakers of Plymouth”(1950年)や“The Story of the 'Old Colony' of New Plymouth”(1956年)を執筆、1952年には編集者として“Of Plymouth Plantation, 1620–1647”の復刻にも携わった[1]。
1940年、モリソンは、後のコロンブスに関する成功作の先駆け的な歴史書“Portuguese Voyages to America in the Fifteenth Century”を刊行した。1941年には、ハーバード大学でアメリカ史のジョナサン・トランブル記念教授(仮訳:Jonathan Trumbull Professor of American History)に選ばれた。モリソンは、帆船による航海に新しく関心を向けるようになった。そして、彼の学識に、コロンブスが訪れたと思われる場所へ実際に航海した体験を加え、成果として発表した“Admiral of the Ocean Sea”(1942年)は、1943年のピューリッツァー賞に輝いた。
モリソンは、海軍在役中の1946年に刊行した“History as a Literary Art: An Appeal to Young Historians”の中で、優れた作品は経験と調査の相乗効果から生まれるものだとして、次のように語っている。
アメリカの歴史家たちは事実を伝えようと熱望し、真摯に真実を語ろうとする一方で、これまでその仕事の文学性には無神経であった。彼らは、歴史叙述に宿る芸術性を忘れてしまっているのだ。(American historians, in their eagerness to present facts and their laudable concern to tell the truth, have neglected the literary aspects of their craft. They have forgotten that there is an art of writing history.)[6]
晩年(1953-1976年)
1955年にモリソンはハーバード大学を退職した[1]。彼は余生を執筆活動に費やした。“Christopher Columbus, Mariner”(1955年)、“Freedom in Contemporary Society”(1956年)、“The Story of the 'Old Colony' of New Plymouth, 1620–1692”(1956年)、“Nathaniel Homes Morison”(1957年)、“William Hickling Prescott”(1958年)、“Strategy and Compromise”(1958年)と矢継ぎ早に作品を世に送り出している。1959年の“John Paul Jones: A Sailor's Biography”では、2度目のピューリッツァー賞を獲得する。
1960年代初め、モリソンは再びニューイングランド史に焦点を当て、“The Story of Mount Desert Island, Maine”(1960年)、“One Boy's Boston, 1887–1901”(1962年)、“Introduction to Whaler Out of New Bedford”(1962年)、“A History of the Constitution of Massachusetts”(1963年)の一連の著作を発表した。このほか1963年には、第二次世界大戦におけるアメリカ海軍戦史の概略を一冊にまとめた“The Two Ocean War”を刊行している。
学者にして海軍人、この水陸両用の歴史家は、行動の人生と文芸の技の二つを組み合わせることで、二世代のアメリカ人を無数の発見の航海へといざなった。(Scholar and sailor, this amphibious historian has combined a life of action and literary craftsmanship to lead two generations of Americans on countless voyages of discovery.)[7]
モリソンの晩年は、探検に関する本の執筆にも充てられた。例えば、“The Caribbean as Columbus Saw It”(1964年)、“Spring Tides”(1965年)、“The European Discovery of America”(1971-1974年)、“Samuel de Champlain: Father of New France”(1972年)が挙げられる。最後の一冊の執筆のためには、サミュエル・ド・シャンプラン(Samuel de Champlain)の経路の多くを実際に帆走し、それ以外の部分も飛行機を使って辿っている。
私生活
私生活では、最初の妻であるエリザベス・S・グリーン(Elizabeth S. Greene)との間には4人の子供を授かり、そのうちの一人のエミリー・モリソン・ベック(Emily Morison Beck)は『バーレット引用句事典』(en)の編集者となった[8]。エリザベスとは1945年に死別し、その後、1949年にボルチモアの未亡人プリシラ・バートン(Priscilla Barton)と再婚したが、プリシラも1973年に亡くなった。
モリソンに対しては、アフリカ系アメリカ人である学者の一部から、アメリカの奴隷制に関する記述について批判が向けられていた。モリソンとヘンリー・コメージャー(en)およびウィリアム・ローテンブルク(en)の共著“The Growth of the American Republic”の初期の版に問題があるとされた[10]。批判者の主張によれば、1930年の初版および第2版が、ウルリッヒ・フィリップス(en)著の“American Negro Slavery”(1918年)に沿った内容であるとして攻撃された。問題のフィリップスの説とは、フィリップス学派奴隷史観(the Phillips school of slavery historiography)と時に呼ばれるもので、一部のアフリカ系アメリカ人学者から人種差別的土台に立脚していると痛烈に批判されながらも、20世紀前半にはアメリカ合衆国の奴隷制度の歴史に関する通説だった[11]。フィリップスの説も、提唱された当初は開拓者であり前進であると多くの者に考えられていた。1944年、全米黒人地位向上協会(NAACP)が、“The Growth of the American Republic”に対する批判を開始した。1950年、モリソンは人種差別主義的意図を否定しつつも、彼の娘がNAACP前会長であったジョエル・E・スピンガーンの息子と結婚することを理由に、しぶしぶ大部分の修正要求に応じた[12]。ただし、モリソンは、厚遇を受けた主人に対し忠誠心を持っていた奴隷の存在や、アメリカの奴隷制度が「文明化」に与えた良い影響といった点に関する参考資料情報の削除は拒絶している。また、黒人のステレオタイプ(en)に関する参考資料情報の削除にも応じなかった。なぜなら、モリソンは、このステレオタイプが、19世紀から20世紀初頭、すなわち最も賢明で進歩的な人々でさえも人種や民族によって人間の様々な振る舞いが決まってしまうものと単純に思っていた時代の、アメリカ文明における人種差別的本質を正確に描写する上で核心になると考えたからである[13]。その後、この点への批判が攻撃的なものとなったため、1962年版に至ってさらなる削除改訂が行われた[10]。
Francis Parkman. Boston: Massachusetts Historical Society, 1973.
Freedom in Contemporary Society. Boston: Little, Brown and Company, 1956.
The Growth of the American Republic 2 vols. Oxford: Oxford University Press, 1930.
Harrison Gray Otis, 1765–1848: The Urbane Federalist. Boston: Houghton Mifflin, 1969.
Harvard College in the Seventeenth Century. 2 vols. Cambridge: Harvard University Press, 1936.
Harvard Guide to American History. Cambridge: Harvard University Press, 1963. (Arthur Meier Schlesinger, Frederick Merk, Arthur Meier Schlesinger, Jr., および Paul Herman Buckとの共著)
Historical Background for the Massachusetts Bay Tercentenary in 1930. Boston: Massachusetts Bay Tercentenary, Inc., 1928, 1930.
Historical Markers Erected by Massachusetts Bay Colony Tercentenary Commission. Texts of Inscriptions As Revised By Samuel Eliot Morison. Boston: Commonwealth of Massachusetts, 1930.
History As A Literary Art. Boston: Old South Association, 1946.
A History of the Constitution of Massachusetts. Boston: Special Commission on Revision of the Constitution, 1963.
A History of the Constitution of Massachusetts. Boston: Wright & Potter, 1917.