ジュニーニョ・ペルナンブカーノ
ジュニーニョ・ペルナンブカーノ(Juninho Pernambucano)ことアントニオ・アウグスト・リベイロ・レイス・ジュニオール(Antônio Augusto Ribeiro Reis Junior, 1975年1月30日 - )は、ブラジル・ペルナンブコ州レシフェ出身の元サッカー選手、現サッカー解説者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。元ブラジル代表。現在はオリンピック・リヨンのスポーツディレクター。 呼称の「ペルナンブカーノ」は「ペルナンブコ州の人」の意。 現役時代は母国のヴァスコ・ダ・ガマでの活躍や、オリンピック・リヨンのフランスリーグ7連覇の主力としてチームに貢献した。フリーキックの世界的名手としても知られ、直接フリーキックによる歴代最多得点を記録している選手である(後述#フリーキックも参照)[1]。 来歴プロ入り前1975年、ペルナンブコ州レシフェの裕福な家庭で、5人兄弟の末っ子として誕生。少年時代からフットサルに夢中で、自身が11歳の時に設立し、初代会長を務めた「アルバトロス」というフットサルチームで活躍[2]。1991年、地元の有力クラブ・スポルチに入団した。 スポルチ1993年、18歳でトップチームデビュー。両親から勉強を最優先にするよう命じられたため、ヴァスコ・ダ・ガマからオファーが届くまで、昼間はサッカーの練習、夜間は高校で経営学を学ぶ生活を送った[3]。 ヴァスコ・ダ・ガマ1995年、ヴァスコ・ダ・ガマへ移籍。1998年コパ・リベルタドーレス準決勝第2戦のアルゼンチンのリーベル・プレート戦では、鋭いカーブを描き落ちる得意の直接フリーキックを決め[4]、このゴールが決勝点となり、ヴァスコはコパ・リベルタドーレス決勝に進出、決勝のエクアドルのバルセロナ戦の第2戦では2アシストの活躍でコパ・リベルタドーレスの制覇に貢献、同年トヨタカップではレアル・マドリードを相手に強烈なボレーで同点となるゴールを決めたが、試合は2-1で敗れた[5]。2000年、ブラジル全国選手権セリエA、コパ・メルコスールのタイトルを獲得し、ボーラ・ジ・プラッタを受賞した。 リヨン2001年、リヨンへ移籍。迎えた2001-02シーズン、クラブ史上初のリーグ優勝を達成すると、その後も国内最強チームの座を守り続け、リーグ・アン7連覇の偉業を成し遂げ、UEFAチャンピオンズリーグにおいても、2003-04シーズンから6年連続で決勝トーナメントに進出。。リヨン在籍時は得意のフリーキックだけで40得点以上を記録し[6]、2006年リーグ・アン年間最優秀選手賞をはじめとする多数の個人タイトルを獲得するなど、クラブの黄金期を中盤の要として支えた[7]。クラウディオ・カサッパの移籍後は主将を務め、チームの精神的支柱の役割も果たした[8]。 2001-02シーズン、8月12日、第2節バスティア戦で移籍後初ゴールを決め[9]、11節のソショー戦では移籍後初のFKからのゴールを決めた[9]。2002-03シーズン、9月27日、第11節のレンヌ戦ではハットトリックを達成した[9]。2003-04シーズン、9月17日チャンピオンズリーググループリーグのRSCアンデルレヒト戦でチャンピオンズリーグ初ゴールを決め、9月27日の第8節のレンヌ戦ではハットトリックを達成した[9]。 2005年9月13日、UEFAチャンピオンズリーグのレアル・マドリード戦ではFKから1ゴール[9] 1アシストを決め勝利に貢献すると、11月5日のオリンピアコス戦まで4試合連続アシストを決め決勝トーナメント進出に貢献、チャンピオンズリーグ5試合で3ゴール4アシストを決めた。 2008-09シーズン、UEFAチャンピオンズリーグではグループリーグのフィオレンティーナ戦、FCバイエルン・ミュンヘン戦、ステアウア・ブカレスト戦と3試合連続アシストを決め、決勝トーナメント進出に貢献、の決勝トーナメント1回戦1stレグ・FCバルセロナ戦では直接FKを決めたが試合は1-1で引き分けた[8]、2ndレグでは1ゴール[9] 1アシストを記録したが、リードを許す厳しい展開の中、試合終了間際に退場処分を受けた。一方リーグでは8連覇を逃し、ホーム最終戦SMカーン戦でリヨン通算100得点を達成。この記録を置き土産に、サポーターから惜しまれつつリヨンを去った[10]。 アル・ガラファ2009年6月、アル・ガラファへ移籍。迎えた2009-10シーズン、カタール・スターズリーグ、クラウンプリンスカップ、カタール・スターズカップの3冠を達成し、カタールサッカー協会年間最優秀選手賞を受賞した[11]。 ヴァスコ・ダ・ガマ復帰2011年、月給260ユーロ(約2万8600円)という破格の契約で10年ぶりにヴァスコ・ダ・ガマへ復帰[12]。2012年、ブラジル全国選手権、コパ・リベルタドーレス、コパ・スダメリカーナで合計10ゴール18アシストを記録する活躍で[13]、クラブ年間最優秀選手に選出された。 ニューヨーク・レッドブルズ2013年、リヨン時代の指揮官であるジェラール・ウリエがグローバル・スポーツディレクターを務めるニューヨーク・レッドブルズへ移籍[14]。同年7月3日、退団が発表された[15]。 ヴァスコ・ダ・ガマ再復帰2013年7月12日、古巣のヴァスコ・ダ・ガマへ再復帰[16]。 2014年1月30日、ヴァスコ・ダ・ガマのロベルト・ディナミテ会長は、ジュニーニョの現役引退を発表した[17]。2013年7月27日クリシューマECでのゴールが現役ラストゴールとなった、最後の出場は2013年11月10日のサントスFC戦。 代表ルシェンブルゴ代表監督時代の1999年3月28日、親善試合韓国戦で国際Aマッチ初出場、3日後に行われた日本戦にも出場。コパ・アメリカ2001にも出場したが、スコラーリ監督が代表監督に就任後は代表から遠ざかった。またFIFAコンフェデレーションズカップ2005などの代表メンバーに選出されているが、同年代にカカ、ロナウジーニョという稀代の名選手がおり、控えに回ることが多かった[18]。 2005年[FIFAコンフェデレーションズカップ2005、ギリシャ戦で代表初ゴールを決めた。 2006年、ドイツワールドカップの代表メンバーに選出され、グループリーグ日本戦に先発フル出場。後半8分に強烈な無回転のミドルシュートを決めた。日本代表のゴールキーパーを務めていた川口能活はこのゴールについて「途中でボールが消えた」「あんなシュートは、今まで体験したことがなかった」と脱帽した[19][20]。準々決勝のフランス戦では後半63分から途中出場したが、この試合に0-1で敗れ、同大会終了後、代表から引退した[21]。 引退後現役引退後は、母国ブラジルにてサッカー解説者として活躍。2019年5月、古巣オリンピック・リヨンのスポーツディレクターに就任[22]。 プレースタイルフリーキック世界屈指のフリーキックの名手と謳われ、2009年にイギリス紙デイリー・メールが行った「偉大なるフリーキックの王様」という企画では、記者投票で第2位(第1位は自国のスターであるデビッド・ベッカム)[23]。2016年に同様の企画で、一般投票も加算した英メディア『Squawka』の発表では、ベッカムを抑え第1位に輝いている[24]。状況によって様々な球種を使い分けることが可能だが、特に無回転のブレ球は彼の最大の武器として名高く、30m以上の距離から何度もゴールを決めている[25]。その威力から、ロベルト・カルロスの異名「悪魔の左足」に擬えて「魔法の右足」と称されることもある[26]。 直接フリーキックによる得点の歴代一位となる77本の直接FKによる得点を記録している[1]。 同じくフリーキックの名手であるアンドレア・ピルロは、彼のフリーキックの蹴り方を見習っていた[27]。中村俊輔はやべっちFCの放送の中で、ジュニーニョのDVDを購入して、繰り返し見ている事を語った。リヨン時代、リオネル・メッシは彼を「世界一のフリーキッカー」であると評している[28]。 UEFAチャンピオンズリーグの舞台においても印象的なフリーキックを数多く決めており、2004-05シーズンの決勝トーナメント1回戦1stレグ・ブレーメン戦、2005-06シーズンの決勝トーナメント1回戦1stレグ・PSVアイントホーフェン戦では、いずれも無回転のシュートを長距離から沈めている。後者のゴールは、ボールの急激な落下にブラジル代表ゴールキーパーのエウレリョ・ゴメスが全くついて行けなかった[18]。 2008-09シーズンの決勝トーナメント1回戦1stレグ・FCバルセロナ戦で決めた強烈なフリーキックは、敵将ジョゼップ・グアルディオラをして「ゴールに7人キーパーを並べても止められない」と言わしめた[8]。 個人成績
代表歴出場大会試合数
得点
タイトルクラブ
代表
個人
脚注
外部リンク
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