トウルヌソル
トウルヌソル(トゥルヌソル Tournesol)とは、昭和初期(1930年代から1940年代)の日本を代表するサラブレッド種牡馬である。 1935年から1939年にかけて5年連続で日本のリーディングサイアーを獲得。また、第1回東京優駿大競走(現・東京優駿(日本ダービー))優勝馬ワカタカを含む6頭の東京優駿優勝馬を輩出。これは2021年までに7頭の同レース優勝馬を輩出したディープインパクト[注 1]に次いでサンデーサイレンス[注 2]と同数での2位の記録である。直系子孫は日本の内国産馬としてはもっとも成功を収め、クモハタが日本のリーディングサイアーになり、4代連続の重賞勝馬が出た。競走馬時代はイギリスでプリンセスオブウェールズステークスなど6勝をあげた。 経歴および血統背景祖父バヤルドはゲイクルセイダーとゲインズバラの2頭のイギリス三冠馬の父で、1917年と1918年にイギリスの種牡馬チャンピオンになった。このうちゲインズバラは1915年にイギリスで三冠を達成して種牡馬になると、1925年から1927年までイギリスの種牡馬ランキング4位になった。 トウルヌソルはこの時期の活躍馬で、1926年にプリンセスオブウェールズステークスなどに勝ち、1927年のアスコットゴールドカップ4着のあと脚部故障により引退すると、約10万円で購買され、日本に輸入されて千葉県三里塚の下総御料牧場に繋養された。 同じ1922年生まれのゲインズバラ産駒には、アスコットゴールドカップを勝ったソラリオがいる。その後、ゲインズバラの子にハイペリオンが出て、ゲインズバラは1932年と1933年にイギリスの種牡馬チャンピオンになった。ハイペリオンは1940年代に5回チャンピオンサイヤーになってゲインズバラの系統の歴史的な成功を決定したが、同時期の日本ではトウルヌソルが5回チャンピオンサイアーとなった。 トウルヌソルの名前は「ヒマワリ」を意味するフランス語である。トウルヌソルは当時の二大主流のセントサイモン(4×4)、ハンプトン(4×4)のインブリードをもつ。半妹のラソローニュ(父プリンスチメイ)はナッソーステークスの勝馬。祖母シーの妹、マテルはヴェルメイユ賞の勝馬。 これだけの血統背景を持つ馬を、この時代の日本に輸入し、日本産サラブレッドの礎とすることができたのは、当時の競馬や馬産のみならず、後世の日本の馬畜産業にとっても最大級の幸運であったと言われている。 競走馬時代競走成績は24戦6勝、2着5回、3着3回。収得賞金は6625ポンド。 おもな成績
種牡馬時代1927年(昭和2年)、宮内省より依頼を受けた獣医学博士の丹下謙吉がイギリスに赴き、約8100ポンド(当時の日本円で約98000円)で購入した(輸入に要した経費も含めると9450ポンド、約11万4500円[1])。なお、当時の10万円は、計算式によって若干の差違はあるものの、2000年代の現金ならば10億円かそれ以上に匹敵する価値であった。トウルヌソルは千葉県の宮内庁下総御料牧場で種牡馬となった。種付料は500円。 最初の活躍馬のワカタカは1932年(昭和7年)に創設された第1回東京優駿大競走に勝ち、帝室御賞典、連合二哩、横浜特別も優勝して当時の大競走を制覇した。これ以降もハッピーランド、ワカミチなどが活躍し、1936年にトクマサ、1937年に牝馬のヒサトモが東京優駿大競走を連覇した。一年あいて1939年クモハタ、1940年イエリュウも連覇。1943年には牝馬のクリフジが変則三冠を達成した。 小岩井農場のシアンモアと種牡馬成績で争い、二大種牡馬と言われ、下総御料牧場の黄金時代を築いた。1944年種牡馬を引退。産駒数374頭。産駒の獲得賞金の総額は150万円を超える。1946年8月27日に老衰で死亡。死後建立された記念碑が残っている。また目黒競馬場跡付近にある元競馬場前バス停そばにトウルヌソルの銅像がある。 メールラインクモハタ - 顕彰馬 東京優駿、東京5歳特別 リーディングサイアー6回 おもな産駒
血統表
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