スペシャルウィーク
スペシャルウィーク(欧字名:Special Week、1995年5月2日 - 2018年4月27日)[5]は、日本の競走馬、種牡馬。主な勝ち鞍は1998年の東京優駿[6]、1999年の天皇賞(春)、天皇賞(秋)[7][8]、ジャパンカップ[9]。テイエムオペラオーに記録を更新されるまで、当時の日本最高賞金獲得馬であった。日本総大将と呼ばれた[10]。 デビューまで誕生に至る経緯1995年、北海道門別町の日高大洋牧場にて誕生。父・サンデーサイレンスは現役時代アメリカで14戦9勝、内GI6勝を挙げ、4歳時にはケンタッキーダービー、プリークネスステークスの二冠を制覇。三冠を狙ったベルモントステークスはライバルのイージーゴアに敗れたものの、この年の全米年度代表馬に選出されている[11]。 母・キャンペンガールはデビュー前に厩舎の洗い場で暴れて怪我をしてしまい未出走で終わっているが[12]、曽祖母に名牝シラオキを持つ血統の良さ(血統表を参照)から繁殖牝馬としての期待は高かった[13][14]。のちに本馬の調教師となる白井寿昭も、小林稔厩舎に在籍していたキャンペンガールの血統に注目しており、本馬の2つ年上の半姉であるオースミキャンディ(父・ヘクタープロテクター)を山路秀則オーナーに購入してもらって自厩舎に迎え入れていた[15]。 デビュー前本馬誕生の前年の12月、母キャンペンガールは本馬の受胎中に急に疝痛の回数が増えるようになり[16][17]、周期も徐々に短くなっていった[16]。2月になる頃には週に1、2度疝痛を起こすようになり、獣医からは腸の一部が壊死していると診断され、生命の危機とも言える状態に陥った[16]。5月2日の午前9時過ぎ、キャンペンガールは疝痛で苦しみ出し、10時過ぎにはいままでにないほどの苦しみ方でもがき始め[18]、牧場スタッフ・獣医ら総出でキャンペンガールの出産を促し、本馬は誕生した[18]。本馬の誕生直後にキャンペンガールは別の馬房に移され[19]、本馬には乳母馬として輓馬といわれる重種馬が手配された[19]。しかし、乳母馬はやや気性の荒いところがあり、本馬を遠ざけようとしたため、本馬と乳母馬が慣れるまでの処置として、スタッフは木でやぐらのようなものを組み、そこに乳母馬を入れて動かないようにし、お乳の部分は出るようにして本馬が飲みたい時にはいつでも飲めるようにした[19]。3日後、乳母馬がやぐらを出される頃には乳母馬は本馬をある程度受け入れる態度を取ったが[20]、出産の5日後キャンペンガールは死亡した[17]。 なお5月8日には白井寿昭調教師が日高大洋牧場を訪れ、仔馬時代の本馬を見て「サンデーサイレンスの良い所を受け継いだね。ダンスパートナーによう似とるね」と評したという[20]。白井は半姉のオースミキャンディを保有した山路オーナーに本馬も紹介するつもりであったが、牧場側の指名により臼田浩義オーナーの所有になったという[15]。 離乳時までの本馬は、あまりほかの馬たちと行動をともにすることがなくいつもひとりで遊んでいた。乳母馬の気性がきつかったため、人の手をかけて育てられた[21]。一方で、当初は最低限人の手をかけて面倒を見ていたものの[22]、日に日に乳母馬と本馬がお互いに慣れていき、最終的には本当の親子と変わらない生活を送っていたという資料もある[23]。本馬は乳母馬が重種馬であり通常の軽種馬より母乳が2~3倍多く出ることから、離乳を他馬より1ヶ月ほど早い9月初めに行うこととなった[24]。 1996年には夜間放牧を挟んで9月中旬に馴致が行われたが、大抵の仔馬が嫌がる馴致を本馬は嫌がらず、むしろ素直に人の言うことを聞いた。当時日高大洋牧場ゼネラルマネージャーであり本馬が誕生する際にも携わった小野田宏は、「小さい頃から人馴れしているからかな。それにしても頭の良い馬だな」と感じたという[25]。その後日高大洋トレーニングセンターにて育成調教が始められた本馬には、担当として当時ニュージーランドから働きに来ていた女性、プライス・ティナが任せられた[26]。ティナは本馬に惚れ込み、馬房に入ったまま戻って来なくなる時間が次第に長くなっていった為、小野田が注意をした程であった[27]。ティナは本馬の素質が高いことを小野田に説いたものの、当初小野田は半信半疑であった。しかし、1997年になり調教時計を出し始めたところ余裕を持った走りで素早い時計を出し続けた為、小野田は「ひょっとすると重賞を一つ二つ取れる凄い馬なのかもしれない」と評価を改めていった[28]。一方で、馬場でも馬房でも大人しすぎる本馬には小野田も心配を覚えたほどであった[29]。 その後、本馬は5月に白井とオーナーである臼田浩義の意向によってノーザンファーム空港牧場に移動することになった[30][† 1]。9月頃まで一緒に居られると考えていたティナは小野田に「厩舎に行くのなら仕方ないが、他の育成牧場に行くのは納得が行かない。調教師とオーナーを説得してほしい」と涙ながらに訴えたが、小野田は「この馬をもっと強くするために…」と伝えて断ったという[31]。 競走馬時代1997年デビュー戦1997年11月26日、阪神開催の新馬戦(1600メートル)で武豊を鞍上にデビュー。追い切りの時計の良さから直前の単勝オッズは1.4倍の一番人気に支持され、二番人気の対抗馬と目されていたタックスパラダイスは4.8倍、三番人気のレガシーハンターは7.5倍と大きく離れていた[32]。自身の枠入り前にエイシンワンサイドが枠入りを嫌い、ムーンライターが枠内で立ち上がったが、スペシャルウィークは落ち着いて自分の枠入りを待った[33]。大外8枠の14番からスタートし、道中は4〜5番手を追走[34]。2コーナーで外から内に切れ込み前を射程圏に捉えると、34秒8とメンバー最速の上がりを記録して持ったまま勝利[34]。2着のレガシーハンターとは2馬身差、3着のオルカインパルスとは4分の1馬身、4着のエイシンワンサイドとは4馬身の差をつけていた[35]。勝ちタイムは1分36秒9で、当日は稍重発表ながら次のレースは不良馬場となるほどの雨が降る中での好タイムであった[35][† 2]。レース後のインタビューで武は「将来性はかなり高いですね。いつでも反応してくれそうな手応えだったし、直線で仕掛けてからの反応も抜群でした。調教で乗った時にイメージした通りの競馬をしてくれました。強い馬ですね」とコメントした[36]。なお武豊は年間最多勝利数159に更新した。 1998年1月6日に京都競馬場で行われた自己条件戦の白梅賞は予定を1週早めての出走[37]で1番人気に推されたが、14番人気の武幸四郎騎乗の地方馬アサヒクリークのハナ差2着に敗れる。1月31日のつばき賞を除外され[38]その翌週に行われたきさらぎ賞に格上挑戦し重賞制覇を達成。続く弥生賞も良血馬キングヘイローやデビューから2戦2勝のセイウンスカイを破ってクラシック戦線の主役に躍り出た。同世代には外国産馬のエルコンドルパサーやグラスワンダーがいたが、当時は外国産馬にはクラシック競走への出走が認められていなかった[39][40]。 皐月賞同年4月19日に中山競馬場で行われた皐月賞では単勝1番人気に推されたが、2番人気のセイウンスカイ、3番人気のキングヘイローに敗れ3着に終わった[41]。当時は芝の保護を目的として皐月賞の前週まで内側の移動柵を3メートル外側にずらして競走を施行し、皐月賞の週に内側に移動させるという施策がとられていたが、これによって内側の走路に3メートル幅の芝生が生えそろった「グリーンベルト」ができ、内枠の馬や先行馬に有利な半面、大外18番枠の本馬には不利な状況となっていた。武はこの馬場状態を敗因に挙げた[42][43]。 日本ダービー同年6月7日に東京競馬場で行われた東京優駿(日本ダービー)では直線追い通し、5馬身差で勝利した[44]。武にとってこれが自身初のダービー制覇となった[45]。武は興奮のあまりムチを落としており[46]、杉本清によるとレース後武に「ムチ、どうしたの?」と聞くと武は「その辺に忘れました」と答えたという[47]。 菊花賞秋初戦の京都新聞杯ではキングヘイローをクビ差で抑えて勝利した。 同年11月8日に京都競馬場で行われた菊花賞ではセイウンスカイの世界レコードでの逃げ[48]とコース設定[† 3]の前に屈し、2着に敗れた[49]。 ジャパンカップ1998年11月29日に東京競馬場で行われたジャパンカップでは、菊花賞前日の第3レース新馬戦でアドマイヤベガに騎乗した武は降着処分を受け6日間の騎乗停止処分を下されていたため、岡部幸雄が乗り替わりで騎乗した[50]。単勝1番人気に支持されたものの、エルコンドルパサー、エアグルーヴに次ぐ3着に終わった[51]。 1999年年明けに馬主権利の半分が社台グループに4億5000万円で譲渡される[52]。 オリビエ・ペリエとのコンビで挑んだ初戦のアメリカジョッキークラブカップは3馬身差の快勝[53]。 武豊に鞍上が戻った阪神大賞典では前年の天皇賞(春)に勝ったメジロブライトを破った。 天皇賞(春)は直線でメジロブライトの追撃を1/2馬身抑えて勝利した[54]。 宝塚記念陣営は年内引退を発表。また凱旋門賞挑戦も視野に入れ、その壮行レースとして宝塚記念に出走した。 宝塚記念のファン投票では1位に選出され、スペシャルウィークに次ぐ第2位にはグラスワンダーが選ばれた[55]。4月から長期ヨーロッパ遠征に赴いたエルコンドルパサーや、天皇賞2着のメジロブライト(ファン投票3位[55])、同3着のセイウンスカイ(同4位[55])などは出走しなかったが、スペシャルウィークとグラスワンダーの初対戦は大きな注目を集め[56]、スポーツ紙は「二強対決」、「GS対決」などと書いた[57]。当日の人気はスペシャルウィーク1.5倍、グラスワンダー2.8倍の順となり、3番人気のオースミブライトは15.9倍であった[56]。 スタートが切られるとスペシャルウィークが4~5番手、グラスワンダーはそれを見る形で進んだ[56]。第3コーナーから最終コーナーにかけてスペシャルウィークは先に進出を開始し、一時グラスワンダーを突き放したものの、最後の直線に入って残り200m付近で捉えられた[56]。それまで後ろから差された経験のなかったスペシャルウィークに対して、グラスワンダーは最後は3馬身差をつけ優勝[56]。3着ステイゴールドはさらに7馬身後方であった[56]。 3馬身という差をつけられた結果を受けて白井は「マークされたのは確かでも、反対に相手にマークして進んだとしても、今日は勝てなかっただろう。こんなボコボコした馬場は合わないが、あの馬の瞬発力が上だった」[56]、武は「並ばれたときにもう手応えが違った。完敗だ」[58]とコメントした。一方で、グラスワンダー鞍上の的場均は「今日は他馬の動きは気にせずに、自分のペースを守ろうと思っていたが、少し前にスペシャルウィークがいたのでレースを組み立てやすかった。ただ、4コーナーでスペシャルウィークに手応えよく離されてしまったときは『どうかな』と思ったが、直線を向くと伸びあぐねていたから『勝てる』と思った。あそこからは手応え通りの内容。強い勝ち方だったと思う」などと感想を述べた[59]。この敗戦を受けて、エルコンドルパサーも目標としていた凱旋門賞への遠征は立ち消えとなった[56]。 京都大賞典〜有馬記念秋初戦の京都大賞典では今までで最高体重となる486kgで挑み、最終コーナーを2番手で通過したものの直線では追われてから全く伸びず、キャリアで唯一の掲示板外となる7着に終わった[14]。 このころから調教で動かなくなり[60]次走の天皇賞(秋)でも直前の調教では500万条件の馬に負けた。レース当日の馬体重は前走から16キログラム減の470キログラムだったが、馬体重が大幅マイナスになったのは、「ダービー時の体重 (468キログラム) まで近づければ、本来の走りを取り戻すかもしれない。」と考えた陣営が、体を絞ったためであった。レースでは、道中は後方につけて、直線に入ると末脚を披露しステイゴールドをクビ差抑えてレースレコードで勝利、タマモクロスに続く2頭目の天皇賞春秋連覇を達成した[61][62][63]。 続くジャパンカップでは凱旋門賞でエルコンドルパサーを破って勝利したモンジューなどの海外から参戦した馬[† 4]を相手に優勝した[† 5][66]。 引退レースとなった有馬記念では、最後方の位置取りから同じく後方に控えたグラスワンダーをマークするという、宝塚記念とは逆の形の作戦を取った。前半1000メートルの通過タイムが64 - 65秒という極端なスローペースとなったが、最後の直線で溜まった末脚を出し、一気にグラスワンダーを捉えた地点がゴールであった。体勢はスペシャルウィークが有利であり、勝利を確信した武豊はウイニングランを行った[67]。しかし写真判定の結果、首の上げ下げの差でわずか4センチ差で2着に敗れていたことが判明[68][69]。レース後、武豊は「競馬に勝って勝負に負けたという感じです」と答えた。 JRA賞→詳細は「1999年度JRA賞年度代表馬選考」を参照
この年のGIにおいて3勝2着2回という成績を残したにもかかわらず、年度代表馬、最優秀古馬牡馬の座は同年の凱旋門賞で2着となったエルコンドルパサーにさらわれた。記者投票ではスペシャルウィークが首位に立ったが、票数が過半数を満たさなかったために審議委員による選考が行われ、エルコンドルパサーに年度代表馬が決定した。このときは大論争となった。スペシャルウィークはグラスワンダーとともに1999年度JRA賞特別賞が贈られた。現役時代のJRA賞はこのひとつだけである。 2000年2000年1月5日に京都競馬場、翌6日には中山競馬場の計2か所で引退式を行った[70][† 6]。 種牡馬時代引退後は種牡馬入りし、北海道の社台スタリオンステーションに繋養された。2003年に産駒がデビュー、ヤマニンラファエルが産駒初出走で初勝利を収めたが、初年度産駒は概して出世が遅めであった。 しかし2年目の産駒がそれを覆し、スムースバリトンが2004年の東京スポーツ杯2歳ステークス(GIII)で中央競馬の重賞を初制覇すると、シーザリオが2005年の優駿牝馬を優勝し、産駒初のGI勝利を挙げた。シーザリオは同年のアメリカンオークスインビテーショナルステークス(米G1)も優勝し、産駒初の国際重賞勝利のみならず父内国産馬としても日本のクラシック馬としても初の日本以外の国際GI制覇となった。 2006年に誕生したビワハイジとの仔、ブエナビスタは2008年の阪神ジュベナイルフィリーズに優勝、2009年は桜花賞・優駿牝馬に優勝し牝馬二冠を達成、2010年は天皇賞(秋)、2011年はジャパンカップを制しどちらも史上初の父娘制覇を達成した。 母の父としては前述のシーザリオがGI馬を3頭輩出する(エピファネイア・リオンディーズ・サートゥルナーリア)など目覚ましい繁殖成績を挙げているほか、2019年にはディアドラがナッソーステークス(英国G1)に優勝し、日本馬として史上2頭目のイギリスG1制覇となった。 2011年10月23日、社台スタリオンステーションからブリーダーズ・スタリオン・ステーションへと移動。2012年からは同ステーションにて種牡馬を続けることとなったが、シーズン途中で再び社台スタリオンステーションに戻る形となった。そして同年11月に2013年シーズンからレックススタッドでの繋養が決定し、翌12月に同スタッドへ移動した。 2017年2月3日、17年に及ぶ種牡馬生活を引退し、生まれ故郷の日高大洋牧場で余生を送る[71]。 2018年4月27日、スペシャルウィークが同牧場の馬房内で転倒しているところをスタッフにより発見され、16時40分ごろ死亡が確認された。23歳没。スペシャルウィークは、死亡する4日前の同月23日に放牧中の転倒で左腰を強打したため、経過観察中であった[72][73]。 競走成績
種牡馬成績
主な産駒GI級競走優勝馬太字はGI(またはJpnI)競走。競走名の前の国旗は開催国 (日本以外の場合に明記)
グレード制重賞優勝馬国内限定格付けを含む。*は地方重賞を示す。
地方重賞優勝馬
母の父としての産駒グレード制重賞優勝馬斜体は地方重賞を示す
地方重賞優勝馬
血統表
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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