ボビー・リッグス
Bobby Riggs
ボビー・リッグス
基本情報 フルネーム
Robert Larimore Riggs 国籍
アメリカ合衆国 出身地
同・カリフォルニア州ロサンゼルス 生年月日
(1918-02-25 ) 1918年 2月25日 没年月日
(1995-10-25 ) 1995年 10月25日 (77歳没) 死没地
同・カリフォルニア州ルカディア 身長
170cm 利き手
右 殿堂入り
1967年 生涯獲得賞金
値なし 4大大会最高成績・シングルス 全仏
準優勝(1939) 全英
優勝(1939) 全米
優勝(1939・41) 優勝回数
3(英1・米2) 4大大会最高成績・ダブルス 全英
優勝(1939) 優勝回数
1(英1) 4大大会最高成績・混合ダブルス 全英
優勝(1939) 全米
優勝(1940) 優勝回数
2(英1・米1) 国別対抗戦最高成績 デビス杯
優勝(1938) キャリア自己最高ランキング シングルス
1位(1939年)
ボビー・リッグス (Bobby Riggs , 1918年 2月25日 - 1995年 10月25日 )は、アメリカ ・カリフォルニア州 ロサンゼルス 出身の男子テニス 選手。
フルネームは Robert Larimore Riggs (ロバート・ラリモア・リッグス)という。年代的には、1938年 にテニス史上初の「年間グランドスラム 」を達成したドン・バッジ (1915年 - 2000年 )のすぐ後に位置している。リッグスの全盛期は、ちょうど第2次世界大戦 のたけなわと重なっていたため、活動の舞台が(他の年代に活躍した選手に比べて)大幅に限られていた。彼はまた、1973年 にマーガレット・コート 夫人やビリー・ジーン・キング 夫人と“The Battle Of The Sexes ”(性別間の戦い)と銘打たれた「男女対抗試合」を繰り広げたことでも知られている。
来歴
最初の妻、ケイ・フィッシャーと(1946年)
リッグスは12歳からテニス を始め、1936年 から全米選手権 に出場し始めた。1937年 にはドン・バッジ に次いでアメリカの国内ランキング2位に躍進し、2度目の全米選手権 で第2シードに選ばれた。この大会ではゴットフリート・フォン・クラム (ドイツ )に準決勝で敗退したが、その勝ち上がりの過程で、4回戦で日本 の中野文照 を 3-6, 7-5, 6-3, 8-6 で退けたことがある。(リッグスと日本人男子選手の対戦は、中野に勝った1937年全米選手権4回戦の1試合しかない。)1938年 にバッジはテニス史上初の「年間グランドスラム 」を達成した後、プロテニス選手に転向した。ここから、アメリカの男子テニス界はリッグスの時代へ移る。
1939年 、リッグスは生涯で唯一の出場となったウィンブルドン選手権 で、男子シングルス・男子ダブルス・混合ダブルスの3冠を獲得する偉業(ハットトリック)を達成した。男子シングルス決勝でエルウッド・クック を 2-6, 8-6, 3-6, 6-3, 6-2 で破ると、男子ダブルスではそのクックとペアを組み、混合ダブルスではアリス・マーブル と組んで優勝した。(この大会では、女子のマーブルもハットトリックを達成した。)同年に全米選手権 でも男子シングルス初優勝を飾る。第2次世界大戦 の勃発により、ウィンブルドン選手権を含む他の4大大会は開催が中止されたが、全米選手権だけは戦時中でも続行された。1940年 の全米選手権 では、リッグスは男子シングルス決勝でドン・マクニール に敗れて2連覇を逃したが、アリス・マーブル との混合ダブルスで優勝する。1941年全米選手権 で、彼は2年ぶり2度目の男子シングルス優勝を果たした。リッグスのアマチュア選手としての経歴はこれで終わり、彼もこの後すぐにプロテニス選手となった。その後は「全米プロテニス選手権」(U.S. Pro Championships)などでドン・バッジらと試合を続けた。
1967年 に国際テニス殿堂 入り。それから6年後の1973年 、55歳のボビー・リッグスは久々に表舞台に顔を出し、マーガレット・コート 夫人やビリー・ジーン・キング 夫人と「男女対抗試合」を行った。この時代はテニス界で「男女の賞金格差」が問題になり、女子選手たちの不満が高まっていた。リッグスはまずコート夫人に挑戦を申し入れ、5月13日 の「母の日」に行われた試合ではリッグスが「世界一有名な母親」コート夫人に 6-2, 6-1 で勝った。この後、リッグスは「私は男女同権 運動を代表するビリー・ジーン・キングと試合をしたい」と声高に叫び、キング夫人への挑戦を宣言する。4ヶ月後の9月20日 、テキサス州 ヒューストン で行われたキング夫人とリッグスの男女対抗試合は“The Battle Of The Sexes ”(性別間の戦い)と銘打たれ、大々的な告知が行われた。試合会場には3万人を超える観客が集まり、テレビ中継でも大勢の人々が見守った。今度はキング夫人がリッグスに 6-4, 6-4, 6-3 のスコア(5セット・マッチのため、3セットのストレート勝ち)で勝利を収めた。この試合をきっかけに、興行としての「女子テニス」が発展し始める。
リッグスはキング夫人と「性別間の戦い」を繰り広げた1973年 に、『Court Hustler 』(テニスコートのペテン師)という題名の自伝を出版している。
ボビー・リッグスはその後静かな余生を送ったが、1988年 に前立腺癌の診断を受ける。1995年 10月25日 、リッグスはカリフォルニア州 ルカディアにて77歳の生涯を閉じた。(注:リッグスの死去の日付は「10月25日」であるが、文献による混乱も多い。訃報が10月27日・金曜日に発表されたことから、そのまま勘違いで掲載したウェブサイトもいくらか見受けられる。)
4大大会優勝
ウィンブルドン選手権 1939年:男子シングルス・男子ダブルス・混合ダブルスの3部門を制覇 [唯一の出場]
全米選手権 男子シングルス:2勝(1939年・1941年)/混合ダブルス:1勝(1940年)
(全仏選手権 男子シングルス準優勝:1939年)
関連映像作品
参考文献
Bobby Riggs, “Court Hustler ” (テニスコートのペテン師) J. B. Lippincott Company, Philadelphia and New York (1973) ISBN 0-397-00893-7
Tom Lecompte, “The Last Sure Thing - The Life & Times of Bobby Riggs ” Skunk Works Publishing, Easthampton, Massachusetts, USA (2003) ISBN 0-9721213-0-7 リッグスの全生涯をたどれる詳細な伝記。
日本テニス協会 発行『テニス・プレーヤーズ・ガイド』 2006年版 (180ページより、中野文照の4大大会成績表を参照)
外部リンク
ボビー・リッグス 獲得タイトル
ウィンブルドン(1877–1967)男子シングルス優勝者
ウィンブルドン(1884–1967)男子ダブルス優勝者
ウィンブルドン(1913–1967)混合ダブルス優勝者
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