Share to: share facebook share twitter share wa share telegram print page

ジャック・ブルニョン

ジャック・ブルニョン
Jacques Brugnon
ジャック・ブルニョン
基本情報
フルネーム Jacques Marie Stanislas Jean Brugnon
愛称 Toto(トト)
国籍 フランスの旗 フランス
出身地 同・パリ
生年月日 (1895-05-11) 1895年5月11日
没年月日 (1978-03-20) 1978年3月20日(82歳没)
身長 168cm
体重 64kg
利き手
バックハンド 片手打ち
殿堂入り 1976年
生涯獲得賞金 値なし
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 優勝 (1928)
全仏 優勝 (1927・28・30・32・34)
全英 優勝 (1926・28・32・33)
優勝回数 10 (豪1・仏5・英1)
4大大会最高成績・混合ダブルス
全仏 優勝(1925・26)
優勝回数 2 (仏2)
国別対抗戦最高成績
デビス杯 優勝 (1927・28・30-32)
獲得メダル
男子 テニス
オリンピック
1924 パリ ダブルス

ジャック・マリー・スタニスラス・ジャン・"トト"・ブルニョン (Jacques Marie Stanislas Jean "Toto" Brugnon, 1895年5月11日 - 1978年3月20日) は、フランスパリ出身の男子テニス選手である。同僚のフランス人選手ジャン・ボロトラアンリ・コシェルネ・ラコステと並んで、フランスの「四銃士 (Les Quatre Mousquetaires)」と呼ばれた。ブルニョンは「四銃士」の4人の中でも最年長の選手で“Toto”(トト)という愛称で呼ばれた。

来歴

ブルニョンは1921年からデビスカップフランス代表選手として活動し始めた。やがて1922年ジャン・ボロトラアンリ・コシェが代表入りし、1923年ルネ・ラコステも加わって、フランス「四銃士」の世界的な活躍が始まる。4人の中で、ブルニョンだけは4大大会のシングルス・タイトルを獲得できなかったが、ダブルスで総計10勝 (全豪選手権1勝、全仏選手権5勝、ウィンブルドン選手権4勝) を挙げた。パートナーはコシェと組んで5勝 (全仏3勝:1927年、1930年、1932年/ウィンブルドン2勝:1926年1928年)、ボロトラと組んで5勝 (全豪1勝:1928年/全仏2勝:1926年、1928年/ウィンブルドン2勝:1932年1933年) を記録した。ブルニョンのシングルスでの自己最高成績は、1926年ウィンブルドン選手権のベスト4である。

ブルニョンは1924年パリ五輪の男子ダブルスで、コシェと組んだ銀メダルを獲得した。ブルニョンとコシェは、決勝でアメリカ代表のビンセント・リチャーズ/フランシス・ハンター組に6-4, 2-6, 3-6, 6-2, 3-6で敗れた。同部門では、同じフランス「四銃士」のボロトラ/ラコステ組も銅メダルを獲得した。

1929年10月、ブルニョンはコシェ、ピエール・ランドリー、レイモンド・ロデルとともに4人の一行で来日した。日本テニス協会はこの日仏対抗戦のために、東京に2000人収容の仮設スタンドつきテニスコート2面を設置した。それから4年後、ブルニョンは1933年ウィンブルドン選手権男子ダブルスで、ボロトラとのペアで大会2連覇を狙っていたが、その決勝で日本佐藤次郎/布井良助組と対戦することになった。佐藤/布井組が第1セットを6-4で奪ったが、続く3セットをボロトラ/ブルニョン組が6-3, 6-3, 7-5で奪って2連覇を決めた。

ブルニョンは1921年から1934年まで、13年間デビスカップフランス代表選手を務めたが、彼の出場した試合はほとんどダブルス戦であった。(通算成績:シングルス4勝2敗+ダブルス22勝9敗=総計26勝11敗) ダブルス通算勝利数「22勝9敗」は、今なおフランス代表の歴代1位記録である。

1974年、「四銃士」の物語がアメリカの映画監督リチャード・レスターにより映画化された。レスターは前年の1973年にデュマの小説『三銃士』の映画化を行い、それに続いて1920年代-1930年代前半に活躍した4人のフランス人テニス選手のドキュメンタリーも残したのである。

1976年、「四銃士」のメンバーたちは4人揃って国際テニス殿堂入りを果たす。4人とも長寿に恵まれたが、最年長だったブルニョンは殿堂入りの2年後、1978年3月20日にパリで82年の生涯を閉じた。

4大大会ダブルス優勝

外部リンク

Kembali kehalaman sebelumnya