マクラーレン・M26
マクラーレン・M26(McLaren M26)は、マクラーレンがF1世界選手権用に開発したフォーミュラ1カー。デザイナーはゴードン・コパック。 1976年から1978年までの間に計7台が製作され[1]、優勝3回を記録した。 解説1973年にデビューし、1974年にドライバーズチャンピオンとコンストラクターズチャンピオンを獲得したマクラーレン・M23の後継車として開発がおこなわれ、1976年7月に開催されたイギリスGPの翌日に発表された。 モノコックにアルミ板でハニカムを挟み込んだアルミ・ハニカムを使用して剛性を高め、それと同時に車体の重量軽減も果たしている[2]。さらにコクピット周りには耐火性向上のためノーメックスを使用している[3][4]。外見は全長がM23と比べ短くなっている。サスペンションなどの内部メカニズムや、バナナウイングと呼ばれるリヤウイングの形状はM23からそのまま受け継がれている。 戦績1976年シーズン途中からの投入が予定されオーストリアGPに持ち込まれたが、予選のみの出走で[5]、次戦オランダGPでヨッヘン・マスが出走し9位完走した。M23がまだ第一線で争える戦闘力を持っており、その性能維持を優先されたため[2]、出走はこの1戦にとどまった。 1977年1977年は開幕から2戦をM23で出走したのち、南アフリカGPにハント用のマシンが持ち込まれたが、直前のテスト中に事故を起こして破損[6][7]。このためジェームス・ハントのM26でのドライブは第5戦スペインGPからとなった。第7戦ベルギーGPよりアンダーステア対策と[8]、車体後部に配置されたオイルクーラーが充分に冷却されないという欠点を解決するため[9]オイルクーラーをフロントノーズに移設した。この改善が功を奏してフランスGPで3位、イギリスGPでポールポジションからスタートしたハントがM26の初勝利を記録。シーズン終盤のアメリカ・日本両GPでも優勝した。 1978年1978年は後継車として構想されたM27の開発が棚に上げられたため[10]、引き続いて使用された。マシンは前年と比べ外見の大きな変化はなかった。ドライバーはマスに代わりパトリック・タンベイが加入。ブルーノ・ジャコメリも数戦出走した。また、プライベートチームのBSファブリケーションズから参戦するブレット・ランガーも新しく製作されたM26/6を購入してドライブした[11]。 前年とは打って変わって不振に陥り、スペインGP予選でコクピット前にウイングが追加された仕様を試したり[9]、さらにイギリスGPでは、スペインGPで破損したM26/4にロータス・79風のサイドポンツーンやラジエターを装備したM26Eを登場させた[12][13]が、成績は好転せず、結局フランスGPでのハントの3位が最高位となり、コンストラクターズ・ランキングは前年の3位から8位に転落した。シーズン後半のアメリカ・カナダGPでは、フィリップモリス傘下のミラー社が販売するビールブランドであるレーベンブロイがスポットスポンサーに付き、カラーリングがイメージカラーのブルーに代わった[14]。 1979年1979年はブラジルGPの練習走行中にタンベイのM28が事故をおこしたため、予備として用意されていたM26で出走[15][16]。ベルギーGPでもタンベイのM28が改修中だったため、その代わりとしてM26を走らせたが予選落ちした[16]。 M26 1/21977年シーズン終了後におこなわれたポール・リカールでのテストで、ラジエター・オイルクーラーを車体後部に配置しラジエターダクトと一体化したリヤウイングを装着したM26 1/2(M26/27とも[17])が登場[9]。前記のM27への使用を目的としたものであり[17][18]、テスト走行のみに使用された[9]。 スペックシャシー
エンジン
F1全成績ワークス(key)(太字はポールポジション、斜体はファステストラップ)
ノンワークス
脚注
参考文献
外部リンク |