マタン・ヴィルナイマタン・ヴィルナイ(מתן וילנאי, Matan Vilnai, 1944年5月20日 - )は、イスラエルの軍人(予備役少将)・政治家・外交官。元科学文化大臣・民間防衛大臣、駐中国大使。 マタン・ビルナイ、マタン・ヴェルナイとも表記する。男性。 経歴1944年5月20日、エルサレムに生まれた。父親は教授だった。 1966年、イスラエル国防軍に入隊。1989年、南方軍司令官となり、第1次インティファーダを迎えた。1993年のオスロ合意の際は、ガザ地区での軍の再編などを指揮した。1994年、副参謀総長となるが、1998年にシャウル・モファズとの参謀総長レースに敗れ、退役。 1999年、政界に転じて労働党公認でクネセト総選挙に立候補し、初当選。バラク政権の科学文化大臣として入閣した。2003年の総選挙でも再選されるが、リクードのシャロン政権になったため閣外に去った。2005年、労働党が連立政権に加わると、首相府官邸の大臣となり、8月に再び科学文化大臣に横滑りした(正式な任命は11月で、それまでは代理)。11月の労働党議長(代表)選に出馬の構えを見せたが、党運営への関与を条件に、現職のペレス支持に回った。ペレスはペレツに敗れ、離党したが、ヴィルナイは労働党に留まった。2006年の総選挙でも3選。オルメルト政権では、2007年に国防副大臣になった。 2008年2月29日、ヴィルナイはハマースなどパレスチナの武装勢力の攻撃に対して、「カッサムロケット弾がさらに撃ち込まれ、遠くまで着弾するようになれば、パレスチナ人はわが身のうえに大規模なהשואה(shoah、ショアー、ナチスによるユダヤ人大虐殺を意味する)を引きよせることになるだろう。というのは、我々は防衛のために全力を使うからだ。」[1]と述べ、攻撃を止めないならば、パレスチナ人を大虐殺すると脅した。この発言にイタン・ギンツブルグ国防副大臣などは、「ショアーは災害を表す普通名詞で、ジェノサイド(大量虐殺)を意味しない」[2]と火消しした。ハマースは、この発言に「(やはりイスラエルは)新しいナチス」であったと反発した。 2008年12月27日からのガザ侵攻では、12月30日、イスラエル・ラジオによれば「軍は数週間の戦闘の準備ができている」と述べた。2009年1月1日、軍放送で「ハマースに強烈な打撃を与える作戦は始まったばかりだ」と述べ、攻撃を続ける見解を重ねて示した。2月10日投開票の総選挙でも4選した。 2011年1月17日、エフード・バラックによる労働党集団離党の動きに呼応し、新党「アツマウート(独立)」のメンバーとなる。1月19日、ネタニヤフ政権の民間防衛大臣として入閣した。民間防衛大臣は、ここで新たに作られた役職である。10月に来日し、10月24日、日本の平野達男内閣府防災担当大臣と会談した[3]。10月25日には、日本記者クラブの共同記者会見に応じた[4]。ヴィルナイは記者会見で、「我々は世界で唯一、今世紀になっても『生存』をかけて戦っている国だ」「次の戦争は時間の問題だと思っている」などと述べ、パレスチナ側を批判した[5]。 2012年2月14日に議員辞職したが、民間防衛大臣の職には8月16日まで留まった。ヴィルナイは退任を前に『マアリヴ』の取材に対し、イラン侵攻を前提に「慌てる必要はない。イスラエル国内はこれまでに無く準備をしている」「(バラック国防相の見通しと同様に)イランはイスラエルの都市をミサイル攻撃し、犠牲者は500人に上るだろう」「日本国民が地震の可能性を認識しなければならないのと同様に、イスラエル国民はミサイル攻撃に備える必要がある」などと答えた[6][7]。 民間防衛大臣退任後、中国大使となった[8]。 外部リンク
脚注
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