マックス・ノイキルヒナー
マックス・ノイキルヒナー (Max Neukirchner, 1983年4月20日 - ) は、ドイツのオートバイレーサー。 ザクセン州エルツゲビルクス郡Stollberg出身。2005年から2010年までスーパーバイク世界選手権に参戦した。2011年はロードレース世界選手権Moto2クラスに参戦する。 経歴キャリア初期1987年から3年連続でロードレース東ドイツ選手権250ccクラスチャンピオンとなり[1]、1994年にはロードレース世界選手権500ccクラスに参戦したロタール・ノイキルヒナー[2]を父に持つマックスは、幼いときからトライアルやモトクロスで経験を積んだ。 1997年、14歳のとき初めてのロードレースとしてADACジュニアカップに、父が率いる「チーム・ノイキルヒナー・レーシング」から参戦、アプリリアの125ccマシンを駆った。1999年からはドイツロードレース選手権(IDM)125ccクラスに参戦、翌2000年には同選手権250ccクラスにステップアップし、2002年にはシリーズランキング2位を記録した。 2003年にはヨーロッパ選手権の250ccクラスで、日本の関口太郎、フィンランドのヴェサ・カリオ(ミカ・カリオの兄)に次ぐランキング3位を記録した[3]。また2001年から2003年にかけては毎年ワイルドカード枠でロードレース世界選手権ドイツGP250ccクラスのレースに参戦、2003年には15位で完走し初ポイントを獲得している。 スーパースポーツ世界選手権 (2004)2004年、ノイキルヒナーはクラフィ・チームでホンダ・CBR600RRを駆ってスーパースポーツ世界選手権(WSS)に参戦した。この年ノイキルヒナーは地元オッシャースレーベンで5位に入ったのが最高位、63ポイントを獲得しシリーズランキング9位を記録した。 スーパーバイク世界選手権 (2005 -2010)引き続きクラフィ・チームに所属した2005年シーズンはホンダ・CBR1000RRを駆り、ベテランのピエールフランチェスコ・キリをチームメイトにスーパーバイク世界選手権(SBK)にステップアップを果たすこととなった。ノイキルヒナーは第2戦フィリップアイランドのレース2で早くも初表彰台(3位)を獲得した。第3戦バレンシアでの大きなクラッシュで手を骨折し、その後はしばらく調子を崩すものの、シーズン後半は安定した成績を残し、年間ランキング12位でルーキーイヤーを終えた[4] 2006年もクラフィ・チームに残留する予定だったが、チームは2台体制を維持するための資金を用意できなかったため、MotoGPから移ってきたアレックス・バロスにシートを奪われる形となってしまった[5]。そこでノイキルヒナーはチーム・ペデルチーニに移籍し2気筒のドゥカティ・999を駆ることとなった。開幕戦カタールでは10位入賞を果たすものの、その後は成績は低迷し、第5戦を終えた時点でチームを去った[6]。その後はしばらく失業状態が続いたが、第9戦アッセンからはファビアン・フォレに代わってスズキ・ワークスのアルスター・チームのシートを獲得[7]、GSX-R1000を駆った初レースを6位でフィニッシュする活躍を見せ、この年のシリーズランキングは18位となった。 2007年はサテライトチームのスズキ・ジャーマニーから出場、1年落ちのワークス仕様のGSX-R1000 K6を駆ることとなった。この年ノイキルヒナーは第11戦地元ラウジッツのレース1でリタイヤを喫するまで、開幕から19レース連続で12位以上での完走を果たす安定度を見せた。最終戦マニクールでは負傷欠場の加賀山就臣の代役としてアルスター・チームから出場、レース1ではチームメイトのマックス・ビアッジを上回る4位でフィニッシュを果たし[5]、年間ランキングでは9位と成績を伸ばした。またこの年の4月にはFIM世界耐久選手権の開幕戦であるル・マン24時間耐久ロードレースにスズキ・エンデュランス・レーシング・チームからウィリアム・コステス、ギヨーム・ディートリッヒと共に出場、見事総合優勝を果たした[8]。 2008年はアルスター・チームのレギュラーライダーとして参戦。チームメイトの加賀山とフォンシ・ニエトが最新ワークス仕様のGSX-R1000 K8を駆った一方、ノイキルヒナーのマシンは前年のK7を改良したものだったが、第3戦バレンシアで自身初のポールポジションを獲得した[9]。決勝レース1ではファイナルラップの最終コーナーまではトップを走行していたが、カルロス・チェカと接触して転倒、鎖骨を折ってしまった。しかし第4戦アッセンのレース1では自身2度目の3位表彰台を獲得、そして第5戦モンツァのレース1で芳賀紀行とのバトルを0.058秒差で制し、初勝利を遂げた。これはドイツ人ライダーとしても初のSBK優勝であった[10]。その後も第8戦ミサノのレース1で2勝目を挙げるなど活躍を続けてスズキのエースライダーとしての地位を確立し[5]、シリーズランキング5位の成績を残した。 2009年シーズンもアルスターに残留。開幕戦フィリップアイランドのレース1で2位表彰台に立つなど好調な滑り出しを見せていたが、第5戦モンツァのレース1のスタートで多重クラッシュに巻き込まれ、大腿骨骨折の重傷を負ってしまった[11]。これによりノイキルヒナーは長期欠場を強いられることとなった。7月にはレース復帰を目指してイモラでの合同テストに参加したが、そこでも転倒を喫して椎骨を骨折してしまった[12]結局このシーズンは実戦復帰を果たせないまま終えることとなり、序盤8レースのみの出走でシリーズ16位に終わった。 2010年シーズンに向けて、怪我の回復状況を不安視したアルスター・チームはノイキルヒナーとの契約を延長しないことを発表した[13]。その後ノイキルヒナーはテンケイト・チームのシートを確保、再びホンダ・CBR1000RRを駆ってSBK6年目のシーズンを迎えた。しかしこの年、チームメイトのジョナサン・レイが4勝を挙げてシリーズ4位の成績を収めた一方、苦戦が続いたノイキルヒナーの最高位は第4戦アッセンでの9位に留まり、シリーズランキング18位に沈んでしまった。 ロードレース世界選手権Moto2クラス (2011)2011年、ノイキルヒナーは元グランプリライダーのマーチン・ウィマーがCEOを務めるMZチームから、ロードレース世界選手権Moto2クラスに参戦する[14]。 主なレース戦績スーパースポーツ世界選手権
スーパーバイク世界選手権
ロードレース世界選手権
脚注
外部リンク
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