イモラ・サーキット
正式名称は、アウトドローモ[注釈 1]・インテルナツィオナーレ・エンツォ・エ・ディーノ・フェラーリ (伊: Autodromo Internazionale Enzo e Dino Ferrari) 。当初はフェラーリ創業者のエンツォ・フェラーリとその息子アルフレード・フェラーリを記念してつけられた「アウトドローモ・ディーノ・フェラーリ (Autodromo Dino Ferrari)」という名称だったが、1989年、エンツォ・フェラーリの死去に伴い、現在の名称になった。 歴史イモラ・サーキットは全長5,017mの高速コースとして造られた。F1をはじめとするグランプリレースを開催するサーキットとしては、ブラジルのサンパウロにあるインテルラゴス・サーキットと同じく反時計回りで周回するサーキットである。ホームストレートの海抜は41m。北側にイモラ市街地があり、サンテルノ川を隔ててレーシングコースがある。サーキットの内側には陸上競技場がある他、南側の丘にはぶどう畑が広がり、この一帯はDOCワイン「コッリ・ディモラ」で知られる。 1953年に開催されたオートバイレースが、初のレースイベントだった。1973年にはヴァリアンテ・バッサ、1974年にヴァリアンテ・アルタの2つのシケインが追加された。1981年にはアックエ・ミネラーリにもシケインが追加され、このレイアウトが1994年まで使用された。 F1のレースは1979年のシーズン終了後に非選手権戦として初開催された。1980年以降は選手権戦となり、1980年はイタリアGP、1981年から2006年までサンマリノGPとして開催された。 1994年サンマリノGPでは大事故が多発し3名のドライバーが死傷し、その後コースレイアウトが変更された。タンブレロコーナーとヴィルヌーブコーナーは高速コーナーからシケインへと改修されたが、最終コーナー手前のヴァリアンテ・バッサの進入が緩やかになり、アックエ・ミネラーリのシケインは撤去された。これらの改修で平均速度は下がったが、元々コース幅が非常に狭い事もあり、以前と比べ追い抜きのしにくいコースとなってしまった。 2007年より、狭く老朽化したピットの改修工事に入った。それに伴いヴァリアンテ・バッサが撤去され、リヴァッツァからタンブレロまでをゆるいコーナーでつないだ形状とした。この変更でホームストレートが長くなった。これらの改修により、より高速のコースレイアウトになった。ただし、F1は同年から1国1開催を重視することになり、さらに改修の遅れやレース開催費の値上げの影響を受けたため開催されなくなった。2011年にFIAからテスト走行のみ可能なグレード1TからF1の開催に必要なグレード1への変更が承認され[3]、2020年現在もグレード1を維持している[4]。 2015年にはジロ・デ・イタリア第11ステージ(5月20日)のフィニッシュとしてイモラ・サーキットが採用された。ジロ・デ・イタリアでの周回コースはイモラ・サーキットをそのまま使用するのではなく、途中ヴァリアンテ・アルタからレーシングコースを離れ一般公道に入り、サーキット南側の「トレ・モンティ」の丘を経由しリヴァッツァの出口より再びレーシングコースに戻る特設コースが採用された。ヴァリアンテ・アルタから一般公道に入る地点から周回コースを3周半し、ホームストレートにフィニッシュするこの特設コースで、イルヌール・ザカリンがステージ優勝を飾っている。 モンツァ・サーキットでのイタリアGPの開催契約が切れる2016年には、バーニー・エクレストンが翌年以降の開催地としてイモラを挙げたが[5]、モンツァとの契約延長が決まったため実現しなかった[6]。新型コロナウイルス感染症の拡大により開催できなくなったレースが多数発生した2020年には、イタリアでの2戦目の開催地として名乗りを上げた[4]結果、第13戦エミリア・ロマーニャGPの開催が決定した[7]。同年、元ミナルディのオーナーであるジャンカルロ・ミナルディがサーキット運営会社の会長に就任[8]。 FIAの承認を受けた2021年のスケジュールでは本レースは記載されなかったが[9]、新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、シーズン序盤に開催予定であったオーストラリアグランプリと中国グランプリの延期が決まり、第2戦として前年に引き続き開催が決定した[10]。 2022年も同様の理由により中国グランプリの開催が見送られ、第4戦として開催されることが決まり[11]、同年3月に2025年までの開催契約が結ばれた[12]。 コースレイアウト基本的には短い直線とシケインを組み合わせたストップ・アンド・ゴータイプのサーキットである。シケインの縁石を乗り越える部分が多い、またその縁石はかなりきつい角度になっているため、サスペンションセッティングがコース攻略の鍵となる。 ホームストレートから左に緩やかなカーブを描き、左・右・左と切り返すタンブレロ (Tamburello) を通過する。かつてはアクセル全開で通過する超高速コーナーであったが、1987年にネルソン・ピケが初日の予選中にクラッシュ、1989年にはゲルハルト・ベルガーがレース中にクラッシュしマシンが炎上、そして1992年にはウイリアムズのリカルド・パトレーゼがテスト中にクラッシュし首を負傷するなど、テクノロジーの進化により危険なコーナーへと変貌していった。そして1994年アイルトン・セナが決勝レース中にクラッシュ、死亡するに至る。 これらのクラッシュは全てタンブレロを直進してコンクリート壁に激突するという共通点を持っていた。この種のリスクに対しては、コンクリート壁を後退させてランオフエリアを拡大するか、コンクリート壁の前にタイヤバリアを敷設するなどの対応が考えられるが、このコーナーのすぐ外側にはサンテルノ川が流れており、ランオフエリアのスペースを拡大することができず、タイヤバリアの敷設にしても衝突時の飛散のリスクを考慮すると、やはりコースとの距離が絶対的に不足しており、採用することができなかった。そこで高速コーナーを廃止し、1995年からは内側に切り込むシケイン状のコーナーに姿を変えた。 タンブレロを立ち上がると、直線を挟んで再びシケインのヴィルヌーブ (Curva Villeneuve) を通過する。ここも以前は緩やかに右にカーブするコーナーで、1980年のイタリアGPでジル・ヴィルヌーヴが高速クラッシュを演じたことから命名された。1994年サンマリノGPの予選2日目でのローランド・ラッツェンバーガーの死亡事故を受けて、タンブレロと同じくシケインに改修された。 ヴィルヌーブに続いて、低速ヘアピンコーナーのトサ (Tosa) を廻り込む。タンブレロとヴィルヌーブが高速コーナーだった頃は、ここでのブレーキング勝負が見所となった。トサから先のコースは、土地の起伏を利用したアップダウンが続く。丘を上り、ピラテッラ (Piratella) を過ぎると下りとなり、窪地にある複合コーナーのアックエ・ミネラーリ (Acque Minerali[注釈 2]) を通過する。上り坂の先にあるシケインヴァリアンテ・アルタ (Variante Alta) は、縁石を使って直線的にカットする。 ダブル左回りのリヴァッツァ (Rivazza) は、エントリー部分が下り坂でブレーキングが難しい。ピット前のヴァリアンテ・バッサ (Variante Bassa) は入口(右・左)と出口(左・右)のふたつのシケインで構成されていたが、1995年以降は出口のみとなり、ピット改修後は2輪レースで使用される。 データ
レコード悪夢の1994年→詳細は「1994年サンマリノグランプリ」を参照
1994年にこの地で開催されたサンマリノGPでは、2件の死亡事故を含め大きなクラッシュが多発した。 金曜日のフリー走行において、ジョーダンのルーベンス・バリチェロがヴァリアンテ・バッサでコースアウト、縁石で跳ね上がったマシンはタイヤバリアに乗り上げ横転した。バリチェロは鼻骨を骨折したものの幸い命に別状はなかったが、これが悪夢の端緒となった。 土曜日午後の予選、シムテックのローランド・ラッツェンバーガーがヴィルヌーヴ・コーナーを通過する際にマシンのフロントウイングが脱落し、306km/hでコントロールを失いコンクリート壁に激突、マシンは惰性でトサ・コーナーまで飛ばされるという大クラッシュが起こった。この事故によりラッツェンバーガーは死亡、モノコックに穴が開き、ラッツェンバーガーの上半身が外に露出するほどの衝撃であった。F1レースウィークにおいては1982年のリカルド・パレッティ以来、テストを含めると1986年のブラバムのエリオ・デ・アンジェリス以来の死者を出してしまった。 さらにラッツェンバーガーのための26番グリッドが空席のままスタートしたレースだったが、スタートに失敗したベネトンのJ.J.レートにロータスのペドロ・ラミーのが追突した。壊れたパーツが観客席まで飛散し、観客数名が怪我を負った。このクラッシュによりセーフティカーが入った。セーフティカーの先導が解かれた1周後にウィリアムズのアイルトン・セナがタンブレロ・コーナーでステアリングコラムの破損によってコントロール不能に陥り、コンクリート壁に激突してマシンの右半分が削り取られた。 救急ヘリが直接コースに着陸という異常事態の中、救命措置が行われた。セナが病院に搬送された(レース終了後、セナは死亡した)後、レースは再開したがアクシデントはとどまらず、途中ピットインしたミケーレ・アルボレートのリヤタイヤが外れ、ピットロードを跳ね回った。このタイヤの直撃により、ロータスやフェラーリのピットクルーが重傷を負う事態となった。 ラルースチームのクルーのミスにより、赤旗提示中にエリック・コマスのマシンがピットアウトし[注釈 3]セナの事故現場(クラッシュしたマシンと作業中の多くのマーシャルや医療スタッフがいた)までレーシングスピードで走ってしまうトラブルも起きた。 何かに呪われたようなこの週末はそれまでの『F1安全神話』を完全に崩壊させ、新たな安全確保への規格の構築へと繋がっていった。 脚注注釈出典
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