リーフデ号
リーフデ号(リーフデごう、蘭: De Liefde)は、慶長5年3月16日(1600年4月29日)に、豊後国(現大分県)に漂着したオランダ共和国の商船。300トン。日本に到着した初めてのオランダ船である。船長はクワッケルナック。漂着地は臼杵湾の黒島とされるが、佐伯湾の大入島とする説もある。 概要船名の「Liefde」はオランダ語で「愛」を意味する単語。元々はルネサンス期の人文主義者として知られるエラスムスの名を冠した「Erasmus(エラスムス号)」という船名であった。しかし、日本来航時にリーフデ号に名称を変更した[3]。(#エラスムス号からリーフデ号への船名の変更を参照) 日本到達の2年前、1598年6月24日にネーデルラント連邦共和国の母港ロッテルダムから出航した。ネーデルラントには既にアントワープ証券取引所があり、オランダ・ポルトガル戦争が始まった年であった。 初めはヤックス・マフを司令官とする5隻の船団であったが、マゼラン海峡通過後の太平洋で、悪天候などにより離散した。太平洋に入りチリ南部沖で旗艦のホープ号と合流して日本を目指すも、航海中にホープ号は沈没、再び単独での航海となった。出航時の乗組員は110人ほどいたが、日本に到達した時の生存者はわずかに24名だった。生存者の中でも立つことが出来たのは6人のみで、重傷者が多く翌日に3人が死亡したという。翌年中までに更に7人が死亡し、最終的な生存者は14人となった。生存者の中には、江戸幕府の外交顧問になったヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムス(三浦按針)、船長のヤコブ・クワッケルナック、堺で貿易商となったメルヒオール・ファン・サントフォールトも含まれていた。アダムスは日本に初めて来たイギリス人(厳密にはイングランド人)であった。 漂着後、大坂に回航され、後浦賀に回航された(回航時に暴風雨に遭って沈没したとも言われる)。宣教師やスペイン人の記録によると徳川家康は関ヶ原の戦い時、リーフデ号の備砲や砲員を活用、さらには甲冑を回収し当世具足に仕立てたという。この漂着事件のことをリーフデ号事件ともいう。 生存した乗組員の多くは日本に留まることを選んだが、何人かは帰国を望んだ。しかし幕府はなかなか許可を出さず、ようやく5年後に許可が下り、クワッケルナック船長とサントフォールト航海士が、平戸藩主松浦鎮信の支援を得てオランダ総督への親書を携えて日本を離れ、1605年12月、オランダ商館が設立されていたマレー半島のパタニに辿り着いた。しかしクワッケルナック船長はその後死亡、サントフォールト航海士は日本に戻り貿易で活躍した。日本に留まった乗組員の多くは住居を与えられ日本人女性と結婚したりして定住したため、結局リーフデ号の乗組員で帰国した者は誰もいなかった。 エラスムス像リーフデ号そのものは現存しないが、船尾に飾られていたというエラスムスの木像(1598年製作)が現存する。旗本牧野成里の領地であった栃木県佐野市上羽田の龍江院が所蔵している。龍江院ではこの像を船を発明したという古代中国の伝説を持つ貨狄(かてき)の像(別名「貨狄尊者」、「貨狄観音」)として祀った。このエラスムス像は昭和5年(1930年)に国宝となり、昭和25年(1930年)の法改正で重要文化財の指定を受けて東京国立博物館に寄託されており[注釈 1]、佐野市郷土博物館の展示品は複製品である。高さ105 cm(3尺4寸5分)、頭にかぶり物をし、右手には巻物を持つ。巻物の第1行には「ER(AS)MVS」、第2行には「R(OT)TE(RDA)M1598」とある。体内には空洞があり、直径は下部で2寸4分(約7.27 cm)、上部で1寸8分(約5.45 cm)。その空洞を通じて背面から前面に通じる孔穴が中央および下端の2箇所にある。 1930年(昭和5年)の調査により、オランダの研究者に鑑定を依頼した丸山瓦全 (がぜん・1874 - 1951年) がオランダのエラスムス像であると発表すると、オランダから譲渡の申し入れを受けるが、国内にとどめることになった[7]。丸山は栃木出身で、オランダ政府との交渉を伝えるその書簡が判読されると、「日蘭交通史」の資料としてどうしても国内にとどめようと主張する心情が確認された。同像は昭和11年(1936年)にオランダへの貸与が決まった[8]。
エラスムスはカトリックを痛烈に批判し、ルターに多大な影響を与えプロテスタントが誕生するきっかけを作った人物で、その像を船尾に置いたまま日本へ向かうのは危険と判断され、船尾の像を船倉に隠し、船名もエラスムス号からリーフデ号に変更して日本に来航した[3]。 その他
脚注注釈出典
関連項目
外部リンク
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