伊藤 敦規基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
愛知県知多市[1] |
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生年月日 |
(1963-05-29) 1963年5月29日(61歳) |
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身長 体重 |
178 cm 74 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
右投右打 |
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ポジション |
投手 |
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プロ入り |
1987年 ドラフト1位 |
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初出場 |
1988年4月14日[1] |
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最終出場 |
2002年6月22日 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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選手歴 |
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コーチ歴 |
|
|
伊藤 敦規(いとう あつのり、1963年5月29日 - )は、愛知県知多市[1]出身の元プロ野球選手(投手・右投右打)・コーチ。
1987年度のドラフト会議で阪急ブレーブス(後のオリックス・ブレーブス→オリックス・ブルーウェーブ)から1位指名を受けて入団し、1995年以降は横浜ベイスターズでプレーしたが、故障や成績不振から2年で解雇された[2]。しかし1997年以降はテスト入団した阪神タイガースで復活し、当時30歳代後半ながら同年 - 2000年代初めにかけて阪神で中継ぎ・抑えの主戦格として活躍し[2]、NPB通算483試合に登板した[3]。ロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト。
経歴
プロ入り前
知多市立八幡中学校出身で、中学の後輩には山﨑武司、浅尾拓也、小山雄輝がいる[4]。実家が建設会社(伊藤建設)を営んでいることから、家業を継ぐことも視野に、中京高校から福井工業大学へ進学した。
高校2年で外野手から投手に転向[1][5]。高校時代は控え投手だったが[6]、当時、阪急ブレーブスのエースとして活躍していた山田久志[注 1]を参考にアンダースローに転向した[7](投球フォームについては#選手としての特徴も参照)。大学に進学するとすぐにエースになり[6]、硬式野球部のエースとして北陸大学リーグで活躍、リーグ通算20試合に登板で12勝を記録、4年秋の金沢経済大学戦でノーヒットノーランを達成。3年時の1984年に出場した全日本大学野球選手権大会では、チームを初めて準決勝進出(ベスト4)に導いた[1]が、準決勝で法政大学に敗れた。第13回日米大学野球選手権大会やロサンゼルスオリンピック(五輪)の野球競技に日本代表として出場し[6]、五輪では2勝を挙げてチームの優勝(金メダル獲得)に貢献した[1]。
大学卒業後は熊谷組に入社[1]。1986年・1987年と2年連続で都市対抗に出場し[6]、1987年の社会人野球日本選手権大会では、チームの準優勝進出に貢献。自身も2勝を挙げたことから、大会の優秀選手に選ばれた。
1987年には日本代表として、翌1988年にソウルで開催される夏季オリンピック予選にも出場した。しかし、同年11月18日の予選終了後のNPBドラフト会議で、山田が所属していた阪急と日本ハムファイターズの2球団から1巡目で指名を受け、抽選により阪急が独占交渉権を獲得し[注 2][8]入団[2]。背番号は16で、契約金は6,000万円・年俸は600万円(ともに推定額)[6]。阪急は翌1988年のドラフト会議の前に球団の経営権をオリエント・リース(後のオリックス)へ譲渡したため、ドラフト1位で阪急へ入団した最後の選手にも当たる。
阪急・オリックス時代
阪急・オリックス時代は技巧派投手として、主に先発で活躍した。
1988年には尊敬する山田から直接シンカーの握りを教わり[7]、4月14日の対日本ハムファイターズ戦(東京ドーム)にて2番手投手として初登板[1]。7月10日の対ロッテオリオンズ戦(秋田球場)でプロ初セーブを挙げた[9]。また8月28日にはウエスタン・リーグの対阪神タイガース戦でノーヒットノーラン[注 3]を達成[1]。同年は一軍公式戦で20試合に登板し、1勝4敗1セーブ・防御率5.69の成績を残し、オフには年俸が780万円になった[10]。
1989年は8月26日の対ロッテ戦で荘勝雄と投げ合い、プロ入り初完投勝利を記録[11]。同年は一軍公式戦で24試合に登板して5勝1敗・防御率3.44の成績を残し、翌1990年シーズンの年俸は1,100万円となった[11]。
1990年から一軍の先発ローテーションに加わり[1]、初の規定投球回到達はならなかったが、一軍公式戦31試合に登板して116回2/3[注 4]を投げ、7勝7敗1セーブ・防御率4.71の成績を残した[12]。
1991年は一軍公式戦29試合登板・6勝12敗1セーブ・防御率3.08の成績で、チームで規定投球回に到達した投手4人[注 5]としては唯一負け越した[注 6]が、防御率はリーグ7位(チーム最高)だった。
1992年には、7月8日の対近鉄バファローズ戦(藤井寺球場)で新井宏昌に一軍公式戦通算2000本安打(三塁打)を許した[15]が、オールスターゲームにパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の選手として初出場(監督推薦)。同シーズンは前年から2年連続で規定投球回に到達し[17]、26試合登板(投球回数191回2/3)・8勝8敗・防御率3.80[注 7]と自己最高の成績を挙げ、特に3連覇を達成した西武ライオンズ戦では5勝2敗と好成績を残した[19]。同年オフには契約交渉で球団から最初に提示された条件(推定年俸3,600万円)を「希望額とかけ離れている」として保留し、代理人交渉制度の活用も検討していた[20]が、結局は推定年俸4,200万円(前年比1,200万円増)で更改した[19]。更改の直後には「『頑張れば来年(1993年)はドンと(年俸を)上げてもらえる』と(球団幹部から)約束されたので、2桁勝利を達成したい」と意気込んでいた[19]が、1993年はシーズン途中で故障に見舞われ、9試合登板(投球回数54回)で3勝4敗の成績に終わる[17]。「同年以降は後遺症のためか、ボールに力はあるのに外角で勝負しすぎる」と指摘されていた[21]。
1994年は故障からの復活を誓ったが[7]、同年は9試合の登板で0勝1敗の成績に終わり[22]、チームが左腕投手の補強を狙っていたこともあって、1994年シーズン終了後にはトレード要員となっていた[23]。阪急・オリックス時代(1994年まで)には通算成績で30勝37敗3セーブと負け越していた[22]ものの、当時「黄金時代」と呼ばれた西武を相手に7勝をマーク。さらに、通算5完封勝利のうち4完封を対西武戦(残り1完封は福岡ダイエーホークス戦)で挙げたことから、一時は「西武キラー」という異名が付いていた。
横浜時代
1994年11月11日、水尾嘉孝・渡部高史・堀江賢治との交換トレードにより、飯塚富司と共に横浜ベイスターズへ移籍することが発表された[24]。推定年俸は3,900万円で、移籍前と同じく背番号16を着用[22]。交換相手の3人のうち、投手2人(水尾・渡部)はいずれも左投手[24]で、オリックスは左腕を補強ポイントとしていた[25]。当時の横浜は先発投手が不足しており[24]、右の先発要員を求めていた[25]。伊藤は先発にも救援にも対応できること[22]から、横浜は当初オリックスに対し、伊藤と水尾の1対1のトレードを申し入れていた[24]。しかしオリックス側が1対1のトレードに難色を示したため、横浜は左投手の渡部・内野手の堀江をトレード要員に追加し、オリックス側も飯塚をトレード要員に加えたため、2対3の交換トレードで決着した[24]。
1995年は5月7日の対ヤクルトスワローズ戦で移籍後初勝利を挙げたが[26]、移籍直後に左膝を故障[27][28]。同年は19試合登板(先発6試合)・1勝2敗、防御率6.50の成績に終わり、シーズン終了後には推定年俸3,400万円(前年比500万円減)で契約を更改した[26]。
1996年には左膝の状態は投球に支障を来さないまでに回復していた[27]が、一軍公式戦には4試合に登板しただけで未勝利(防御率4.76)に終わり[注 8][29]、シーズン終了後(10月17日)には飯塚とともに球団から戦力外通告を受けた[30]。帰郷して家業を継ぐことを考えたが[27][2]、実父から悔いを残して辞めるのは良くないと諭されたことをきっかけ[27]に、幼少期から応援していた阪神タイガースの秋季練習で入団テストに臨んだ[31]。通常の入団テストよりかなり遅い時期(秋季練習の終盤)での挑戦だったため、球団本部長からは「合格は99%無理だろう」と厳しい評価を受けていたが、合格を勝ち取った[2]。
阪神時代
1996年12月5日に、片瀬清利(前広島東洋カープ)・酒井光次郎(前日本ハムファイターズ)・中村良二・畑山俊二(いずれも前近鉄)と共に、阪神への入団が発表された[31]。推定年俸は1,700万円[注 9][29][32]で、背番号は阪急 - 横浜時代から一転して47を着用した。
1997年には、「(横浜時代から痛めている左)膝が壊れてもいいので、他のどの投手にも負けたくない」との決意を胸に、公式戦の開幕直後から一軍の救援陣に定着[27]。プロ入り初のリリーフ専任となったが、60試合の登板で8セーブ(いずれも自己最多)と8勝(阪急時代の1992年に並ぶ自己最多勝利)を挙げた[27]ほか、防御率2.67という好成績を残した[34]。同年は特に広島東洋カープ戦に強く(対広島戦の防御率は0.87)、緒方孝市(11打数1被安打/被打率.091)・江藤智(9打数1被安打/被打率.111)を抑え込んでいた[21]。同シーズン終了後には推定年俸4,000万円(2,300万円増)で契約更改した[34]。
1998年は葛西稔・弓長起浩・吉田豊彦とともに貴重な中継ぎ投手として起用され、一軍公式戦50試合の登板で2勝3敗・防御率2.87を記録し、シーズン終了後には年俸4,900万円(推定)で契約更改した[36]。同年10月8日に本拠地・阪神甲子園球場で開催された古巣・横浜(当時、セ・リーグ優勝へのマジックナンバーを1としていた)との最終戦(27回戦)では、3対2(1点リード)で迎えた8回表に弓長起浩に代わる3番手投手として登板したが、二死満塁の場面で8番打者の進藤達哉に逆転決勝打となる2点適時打を打たれ、目の前で古巣の38年ぶり(前身球団である大洋ホエールズが1960年に達成して以来)となるセ・リーグ優勝を達成されることとなった(敗戦投手は弓長)[37]。しかし同年は横浜の谷繁元信(8打数)・波留敏夫(4打数)をいずれも無安打に抑えたほか、中日ドラゴンズ戦では防御率1.35と好成績を残している[38]。一方で前年好成績を挙げた広島戦の防御率は4.09と悪く、ヤクルトスワローズの古田敦也・池山隆寛・真中満を苦手としていた[注 10][38]。
野村克也が一軍の監督を務めた1999年は投手陣最年長ながら[39]、自身と同じくサイドスローで復活を遂げた左投手の遠山奬志や、アンダースローの軟投派右投手・葛西稔などと共に、多彩で強力な救援陣を構成。同年は59試合[注 11]に登板し、6勝1敗・防御率3.21の成績を残した[40]が、9月12日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦(阪神甲子園球場)の練習中に外野手の送球を右手に受けて親指骨折・脱臼の怪我を負った[41]。同年は優勝した中日相手に防御率2.00、広島戦では0.00と好成績を残した一方、巨人戦では防御率4.32、横浜戦では5.28と打ち込まれたほか、左打者との対戦を課題としていた[42]。同年オフにはフリーエージェント (FA) の権利を行使[43]した上で阪神に残留し[39]、推定年俸6,500万円[注 12]で契約更改した[40]。
阪急時代の同僚だった星野伸之がFA権を行使してオリックスから移籍した2000年には、セ・パ両リーグで最多となる71試合に登板し、67回1/3を投げて3勝1敗・防御率1.86と好成績を残した[44]。同年の伊藤は37歳[40]であったことから、NPBの一軍公式戦で1シーズンに70試合以上登板した投手の最年長記録も樹立。試合終了後のヒーローインタビューで、鶴の恩返しにちなんで「羽根を抜いては投げている」と語ったこともあった。また同年には野村監督から信頼を受け、金一封を贈られている[45]。もっとも、この登板数をめぐっては、シーズン途中の103試合消化時点で58試合登板(56%の試合)と稲尾和久のシーズン登板記録を更新しそうなペースだったが、スポーツライターの宇佐美徹也が「稲尾は内容が違う。ワンポイントで最多登板なんて、やめてくれないか」と野村に要求し[46][47]、野村はそれを受け容れ登板を減らし[46]、残り33試合で13登板(同39%)に激減し、最終的に71試合登板にとどまった。
2001年(推定年俸8,000万円)シーズンも[44]、一軍公式戦52試合(遠山とともにチーム最多登板)に登板して6勝2敗・防御率1.79の成績を残した[48]。また同年、NPB史上7人目の一軍公式戦5年連続50試合登板も達成した。しかし、野村に代わって星野仙一が監督に就任した2002年には、吉野誠・金沢健人などの若手投手が救援陣で台頭したこと[49]から、一軍公式戦での登板機会が大幅に減少。かねてから抱えていた腰痛の悪化に加えて、シーズン中に右肘を痛めたため、通算の防御率が5点台に達するなど、投球内容が移籍後で最も悪かった。星野監督による若返り・大幅補強策の一環で、9月26日に遠山・弓長起浩・成本年秀・西川慎一・川俣ヒロアキとともに球団から戦力外通告を受け[49]、現役を引退。10月14日の対中日戦(阪神甲子園球場・同シーズン最終戦)で星野・伊藤・遠山・葛西の引退セレモニーが行われた[50]。
現役引退後
「伊藤建設」の営業主任を務めながら、2003年から2004年まで毎日放送の野球解説者・サンケイスポーツの野球評論家として活動していたほか、プロ野球マスターズリーグの大阪ロマンズにも参加していた[51]。
2005年から、三軍コーチとして阪神に復帰。
2006年から2008年までは二軍のトレーニングコーチ(2006年のみ投手コーチと兼任)。
2009年から2019年までは一軍のトレーニングコーチを務めた。(三軍担当時代を含めて)トレーニングコーチ歴は15年におよんだが、日本のプロ野球 (NPB) ではチーフトレーナーがトレーニングコーチの役割を兼ねる傾向が主流になったことを受けて、球団では2020年シーズンからトレーニングコーチ制度を廃止することを検討[52]。2019年10月15日にはその一環として、伊藤のコーチ退任と退団を発表した[52]。
2020年からは、関メディベースボール学院の中等部で投手コーチとトレーニングコーチを務めている[3]。
選手としての特徴
投球フォームについてはアンダースローとする文献[注 13][38]、サイドスローとする文献が混在している[注 14][39]。江川卓は1998年・1999年の著書『スカウティングレポート』にてスピード(球速)・コントロール(制球力)・テクニック(技術)の3点について各球団の主力選手を5段階評価しているが、伊藤については「スピードは3。コントロール・テクニックはいずれも4」と評価している[21][38]。
プロ入り当時は直球・シュートが武器で[6]、阪神時代(1999年)は右打者の外角へのスライダーを得意な球としていたほか、ストレート(速球)、カーブ、シュート、シンカーも持ち球としていた[39]。
阪神時代はリリーフで主戦格として活躍していたが[2]、江川 (1998) は「アンダースロー特有の右打者の外角に曲がるカーブで逃げようとする」という弱点を指摘した一方[42]、「シンカーが力強く落ちるので、もっと強気に内角を突けば2ケタ勝てる力はある」「タイプ的にはむしろ先発(向き)[注 15]。中5日で6イニング、100球くらいなら、十分な働きをするだろう」と評していた[21]。また、「川尻(哲郎)が台頭するまで、阪神のアンダースロー(投手)の中では一番自分の力を理解していた」とも評している[38]。
田尾安志は『プロ野球ニュース』(フジテレビ)編集の選手名鑑で「コントロールよりも球のキレで勝負するピッチャー」「すぐに肩が仕上がるため、連投OKの貴重な戦力。負け試合の登板よりも勝ちゲームのほうが内容のあるピッチングをする」と評している[39]。
詳細情報
年度別投手成績
年
度 |
球
団 |
登
板 |
先
発 |
完
投 |
完
封 |
無 四 球 |
勝
利 |
敗
戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝
率 |
打
者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬
遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴
投 |
ボ 丨 ク |
失
点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P
|
1988
|
阪急 オリックス
|
20 |
5 |
0 |
0 |
0 |
1 |
4 |
1 |
-- |
.200 |
224 |
49.0 |
58 |
8 |
16 |
0 |
5 |
28 |
0 |
0 |
34 |
31 |
5.69 |
1.51
|
1989
|
24 |
4 |
1 |
0 |
0 |
5 |
1 |
0 |
-- |
.833 |
234 |
55.0 |
57 |
6 |
20 |
1 |
3 |
30 |
0 |
0 |
22 |
21 |
3.44 |
1.40
|
1990
|
31 |
14 |
4 |
0 |
0 |
7 |
7 |
1 |
-- |
.500 |
521 |
116.2 |
127 |
12 |
39 |
1 |
9 |
50 |
2 |
0 |
67 |
61 |
4.71 |
1.42
|
1991
|
29 |
18 |
8 |
3 |
1 |
6 |
12 |
1 |
-- |
.333 |
647 |
158.0 |
137 |
15 |
42 |
4 |
7 |
100 |
2 |
1 |
59 |
54 |
3.08 |
1.13
|
1992
|
26 |
25 |
10 |
2 |
0 |
8 |
8 |
0 |
-- |
.500 |
808 |
191.2 |
192 |
19 |
52 |
1 |
7 |
93 |
1 |
2 |
84 |
81 |
3.80 |
1.27
|
1993
|
9 |
9 |
1 |
0 |
0 |
3 |
4 |
0 |
-- |
.429 |
242 |
54.0 |
63 |
4 |
22 |
0 |
0 |
25 |
0 |
0 |
31 |
31 |
5.17 |
1.57
|
1994
|
9 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
-- |
.000 |
75 |
15.1 |
21 |
4 |
9 |
1 |
1 |
10 |
0 |
0 |
13 |
13 |
7.63 |
1.96
|
1995
|
横浜
|
19 |
6 |
0 |
0 |
0 |
1 |
2 |
0 |
-- |
.333 |
214 |
45.2 |
56 |
3 |
22 |
1 |
6 |
31 |
1 |
2 |
34 |
33 |
6.50 |
1.71
|
1996
|
4 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
-- |
---- |
28 |
5.2 |
8 |
2 |
5 |
0 |
0 |
4 |
0 |
0 |
4 |
3 |
4.76 |
2.29
|
1997
|
阪神
|
60 |
0 |
0 |
0 |
0 |
8 |
5 |
8 |
-- |
.615 |
308 |
77.2 |
50 |
5 |
32 |
7 |
3 |
51 |
2 |
2 |
24 |
23 |
2.67 |
1.06
|
1998
|
50 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
3 |
0 |
-- |
.400 |
226 |
53.1 |
52 |
2 |
18 |
7 |
2 |
40 |
2 |
0 |
18 |
17 |
2.87 |
1.31
|
1999
|
59 |
0 |
0 |
0 |
0 |
6 |
1 |
0 |
-- |
.857 |
268 |
67.1 |
66 |
3 |
14 |
2 |
2 |
45 |
0 |
2 |
30 |
24 |
3.21 |
1.19
|
2000
|
71 |
0 |
0 |
0 |
0 |
3 |
1 |
0 |
-- |
.750 |
287 |
67.2 |
62 |
1 |
23 |
6 |
7 |
35 |
1 |
0 |
14 |
14 |
1.86 |
1.26
|
2001
|
52 |
0 |
0 |
0 |
0 |
6 |
2 |
0 |
-- |
.750 |
190 |
45.1 |
34 |
2 |
19 |
3 |
5 |
24 |
0 |
0 |
12 |
9 |
1.79 |
1.17
|
2002
|
20 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
-- |
---- |
97 |
22.2 |
18 |
5 |
9 |
3 |
2 |
13 |
0 |
0 |
14 |
13 |
5.16 |
1.19
|
NPB:15年
|
483 |
84 |
24 |
5 |
1 |
56 |
51 |
11 |
-- |
.523 |
4369 |
1025.0 |
1001 |
91 |
342 |
37 |
59 |
579 |
11 |
9 |
460 |
428 |
3.76 |
1.31
|
- 各年度の太字はリーグ最高
- 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更
表彰
記録
- 初記録
- 節目の記録
- 1000投球回:2001年9月18日、対読売ジャイアンツ25回戦(東京ドーム)、5回裏に達成
- その他の記録
背番号
- 16 (1988年 - 1996年)
- 47 (1997年 - 2002年)
- 74 (2005年 - 2010年)
- 91 (2011年 - 2019年)
登場曲
代表歴
脚注
注釈
- ^ 後にルーキーイヤーのみチームメイトとなった[7]。
- ^ 抽選に漏れた日本ハムは再指名を経て武田一浩(明治大学硬式野球部)を獲得した[8]。
- ^ 死球1個だけの準完全試合だった[10]。なお、同年の二軍戦での成績は2試合登板で2勝0敗0セーブ・防御率0.00である[10]。
- ^ 投球回数が100回を超えたシーズンは同年が初[12]。
- ^ 伊藤(防御率3.08/パ・リーグ投手成績は19人中7位)以外に山沖之彦(防御率3.30/投手成績9位)、星野伸之(防御率3.53/投手成績10位)、長谷川滋利(防御率3.55/投手成績12位)。なお、伊藤は同年に初めて規定投球回に到達した。
- ^ 山沖は9勝7敗、星野は16勝10敗1セーブ、長谷川は12勝9敗1セーブ。
- ^ パ・リーグ投手成績14位(規定投球回到達者数は21人)。
- ^ 二軍(イースタン・リーグ)での成績は31試合登板・3勝5敗5セーブ・防御率3.80[29]。
- ^ 1997年版の『ホームラン』(日本スポーツ出版社)および日刊スポーツ出版社の選手名鑑(1997年版)では(1997年の年俸は)1,700万円とされているが[29][32]、日刊スポーツ出版社 (1998) では1,500万円とされている[33]。
- ^ 対戦成績はそれぞれ、古田とは5打数2被安打(被打率.400)、池山とは7打数4被安打(被打率.571)、真中とは6打数4被安打(被打率.667)だった[38]。
- ^ 遠山に次ぐチーム2番目の登板数[40]。
- ^ 日刊スポーツ出版社 (2000) では(2000年シーズンの年俸は)5,200万円とされている[43]。
- ^ 江川 (1999) は「アンダースロー投手」と述べている[38]。
- ^ 横浜時代の選手別応援歌「伊藤敦規のテーマ」(ポニーキャニオンから発売された1995年版・1996年版の選手別応援歌CDアルバムに収録)では「サイドスロー」と歌われている[53]。また、フジテレビ『プロ野球ニュース』監修の2000年版選手名鑑(発行:ザ・マサダ)では「サイドスロー・右投げ」として掲載されている[39]。
- ^ 伊藤本人も1998年ごろには先発を志願していた[54]。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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