伊豆諸島(いずしょとう)は、伊豆半島東南沖の太平洋(フィリピン海)を南へ連なる諸島。最北端の伊豆大島[2]から最南端の孀婦岩[3]まで、9つの有人島[4]と無人島、岩礁など合計100余りからなる。行政区画としては東京都島嶼部のうち、さらに南の小笠原諸島を除く島々である。
有人島はいずれも伊豆諸島北部で、伊豆大島のほか利島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島、青ヶ島がある。このうち式根島と青ヶ島以外を伊豆七島と呼ぶこともある。かつては鵜渡根島や八丈小島、鳥島にも定住者がいたが、現在は無人島になっている。地内島、早島、大野原島、藺灘波島、ベヨネース列岩、須美寿島、孀婦岩などは有史以来の無人島である。最南部のベヨネース列岩、須美寿島、鳥島、孀婦岩は豆南諸島(ずなんしょとう)とも呼ばれる。
陸上火山である三原山(大島)、海底火山の明神礁などでは火山活動が見られる。
常春と呼ばれる気候条件下にあり、四方を海に囲まれ、各島それぞれ異なる自然や風土を持つ。島寿司や明日葉などが名産であるほか、観光地としても知られ、温泉や登山、天体観測、釣りやサーフィンなどのマリンレジャーを楽しめる。
八丈島以北が富士箱根伊豆国立公園に属する[5]。
地理
最北に位置する大島までは、東京都区部(伊豆諸島と本土を結ぶフェリーが発着する東京港竹芝桟橋)から約100kmで、静岡県に属する伊豆半島(約30㎞)や神奈川県、千葉県南部(房総半島)の方が近い[4]。明治初期は伊豆半島とともに韮山県や足柄県、静岡県に編入されたが、1878年に当時の東京府所管とされた[4]。
大島は伊豆半島の最南端である石廊崎よりも北にあり、相模灘の南、房総半島の南西にあり、天気の良い夜には伊豆半島の海岸沿いを走る車のライトも見える。伊豆諸島沖最南端の孀婦岩は東京都区部から650キロメートルは離れている。
大島から南西へ利島、新島、式根島、神津島と並んでいて、銭洲まで続く。海面下も続くこの高まりは銭洲海嶺と呼ばれる。神津島の東南東40km、大島の南南東60kmほどのところに三宅島があり、三宅島の南20kmほどのところに御蔵島がある。御蔵島の南方100kmほどのところにある瓢箪型をした島が八丈島で、八丈島の南70kmほどのところに青ヶ島がある。青ヶ島が伊豆諸島における有人島の南限で、これより南にある豆南諸島はいずれも無人島か人が住めない岩礁である。
伊豆諸島は南北に長いので、気象・水産関係では北部と南部に分けて表すことがある。その場合、伊豆諸島北部は大島から神津島まで、伊豆諸島南部は三宅島から青ヶ島までを指す。さらに詳しく表すときは「伊豆諸島南部」三宅島地方などと表すこともある。
黒潮は伊豆諸島を通過する付近で幅50- 100km、流速7ノット(時速約13km)にもなる。通常は三宅島と八丈島の間を流れることが多いが、蛇行して八丈島の南や大島近海を通過することもある。
伊豆諸島の島々はいずれも火山もしくはカルデラ式海底火山の外輪山が海面より高くなったものである。特に青ヶ島は世界でも珍しく一見して判るほどの典型的な二重式火山で、火口の中に丸山という小さな火山がある。御蔵島のような古く安定した島もあるが、1983年と2000年の三宅島や1986年の大島のように活発な火山活動を繰り返している島もある。
行政区画
行政区画は全島が東京都にあり、出先機関として東京都庁の下部組織である大島支庁、三宅支庁、八丈支庁が置かれている。東京都の島嶼地域は東京都島嶼部と呼ばれるが、東京都では「嶼」が常用漢字外のため「島しょ」と表記している。
日本では町や村は郡の下に続くが、伊豆諸島は例外として郡が存在しない。したがって正式な住所の表示は「東京都大島町」のようになる。八丈町や三宅村では「東京都八丈島八丈町」という表記が一般的に使用されている。
各支庁の所管を以下に示す。括弧内は、それぞれの町村の区域にある主要な島である。
このほか、ベヨネース列岩から孀婦岩までの島嶼は青ヶ島村と八丈町との間の所属係争のため、東京都が直接管轄している。これらの無人島は日本の地方自治の最小単位である市町村にも属さない数少ない例外である。
伊豆諸島は、歴史的には駿河国、のちに伊豆国に属しており、中世までは伊豆国賀茂郡三島郷の内であった。近代以降はその流れを汲む静岡県には属さず、東京都に属している。実際、いったんは静岡県に属してから東京府(当時)に移管されている。これは東京の財政が静岡より余裕があったからという説もあるが、後述のように江戸時代から航路が江戸の方に開けており、物的・人的交流ともに江戸(東京)の方がより緊密であったことが最も大きな理由であると言われている(「#歴史」の節を参照)。なお、明治時代に静岡県に編入された際、島民や商人を中心として東京府への帰属を嘆願する運動も起きている。
地域言語
地質
伊豆諸島はフィリピン海プレートの東縁にあり、フィリピン海プレートに太平洋プレートが沈み込む伊豆・小笠原海溝が島々の東方沖を南北に走っている。すなわち、伊豆諸島は伊豆・小笠原・マリアナ島弧と呼ばれる島弧の一部をなす。プレートの沈み込みに伴う火成活動で火山島からなる島弧が発達した。島々を構成する岩石は伊豆大島三原山や三宅島雄山を代表に玄武岩が多いが、新島と式根島は世界的にも珍しいコーガ石を産する流紋岩であり、神津島も黒曜石を伴う流紋岩からなる。
島々
生物相
伊豆諸島にはミクラミヤマクワガタやオカダトカゲなどの固有種も多い。健康野菜として注目を集めているアシタバ(明日葉)は伊豆諸島が原産地といわれている。海では、イルカやクジラを見ることもでき、鳥島はアホウドリの繁殖地として知られている。
ただし、より南の小笠原諸島とは生物相において大きく異なっている[6]。小笠原諸島の生物相は固有種が非常に多く、特定の分類群では規模の大きい適応放散が見られ、他方では大きく欠けた生物群がいくつもあるという、海洋島によく見られる生物相の特徴を持つ。それに対し、伊豆諸島のそれはむしろ日本本土の生物相に近い。例えばヘビは小笠原諸島にはいないが、伊豆諸島にはシマヘビやアオダイショウ、ジムグリ、マムシなどがおり、いずれも本州のものと同種とされている[7]。伊豆諸島のトカゲはオカダトカゲといい、本州のものとは別種であったが、これは最近になって伊豆諸島から伊豆半島まで分布していることが判明した。ただしこれが伊豆半島型の本州と地理的に隔離されてきた証拠と見なすことは必ずしも出来ない。それ以外の日本本土のトカゲも南北2種に分かれていることがさらに近年に確認されている。他にも固有種はあるが、多くは本州に近縁の種を持つ。
いずれにせよ、伊豆諸島の生物相は伊豆半島のそれと密接な関係があり、そして本土の他地域ともごく強い類縁を持っている。例えば伊豆諸島の火山砂礫地にはハチジョウイタドリとシマタヌキランが優占する草原が成立しており、この2種はいずれも伊豆諸島に固有のもの(前者は亜種、後者は種)であるが、シマタヌキランは本州で落葉樹林帯から高山帯に生育するコタヌキランにごく近縁とされており、ハチジョウイタドリの基本変種であるイタドリも日本列島から中国に分布があるものである[8]。このような草原の植物群落は本州の温帯域より標高の高い部分の植物群落に由来すると見なされている。このことを説明するには過去のある時期に伊豆諸島と本州が同じ陸地にあり、その頃には寒冷な気候で伊豆諸島の位置までが夏緑広葉樹林帯に覆われていたのが、後に海水面が上昇して島となり、隔離によって種分化が進んだと見るのが無難である。このような考え方は昆虫相や陸産貝相の研究からも以前より提起されていたものであり、伊豆半島から伊豆諸島の青ヶ島までを含む巨大な半島が想定され、古伊豆半島という名が与えられている。
人口
伊豆諸島の人口は、日本の離島平均よりもゆっくりと減少している[9]。
人口変化[9]
年 |
伊豆諸島 |
日本の離島 |
日本の合計
|
1960 |
38,707 |
923,062 |
94,301,623
|
1970 |
32,539 |
736,712 |
104,665,171
|
1980 |
31,902 |
630,536 |
117,060,396
|
1990 |
30,032 |
546,505 |
123,611,167
|
2000 |
28,756 |
472,312 |
126,925,843
|
2005 |
26,242 |
422,712 |
127,767,994
|
歴史
北部に関しては縄文時代から人々が暮らしていた痕跡があり、各島からは縄文遺跡が発見されている。さらに三宅島では弥生時代の遺跡が発見されており、この時代には定住が始まっていたことが窺われる。稲作文化については、遺跡が建設された後、栄えることになる。
公家や武家、僧侶などの高貴な身分の者が流罪によって流されることが多かったため、京の都の文化や風俗が持ち込まれることも多かった。有名な流人としては源為朝らが挙げられる。
江戸時代は天領だった。旧伊豆国の区域ながら、物産の売買などは江戸に置かれた島方会所(しまかたかいしょ)を通じて行われていたため、江戸との繋がりが強かった[4]。このため明治初期に韮山県、足柄県、静岡県の所属となった時期、島民は東京府への移管を望み、静岡県庁でも島と東京の商業上の紛争で東京の裁判所へ出向くことが負担となっており、1878年に東京府に編入されることとなった[4]。
古くは伊豆五島または伊豆八島などと呼ばれていたこともあるようであるが、江戸時代の終わりまでには伊豆七島の名が定着していた。その後はこれが一般化し、伊豆諸島全体を指す言葉としてもしばしば使われている。しかし人が定住している島だけで9島を数える状況と一致しない。
略年表
近代以降の沿革
- 明治初年時点では全域が伊豆代官管轄の幕府領であった(24村)。
知行
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島
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村数
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村名
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幕府領
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大島
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6村
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岡田村、元村、泉津村、野増村、差木地村、波浮港村
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利島
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1村
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利島
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新島
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2村
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新島本村、若郷村
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神津島
|
1村
|
神津島
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三宅島
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5村
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伊豆村、神着村、伊ヶ谷村、阿古村、坪田村
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御蔵島
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1村
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御蔵島
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八丈島
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5村
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大賀郷村、三根村、樫立村、中之郷村、末吉村
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八丈小島
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2村
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鳥打村、宇津木村
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青ヶ島
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1村
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青ヶ島
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産業
島によって少しずつ異なるが、漁業、農業、観光が中心になっている。同じ地域に漁村と農村が共存していると考えたほうが良い島もある。過去には鳥島においてアホウドリの捕獲や鳥糞石(グアノ)の採取も行われていた。
特産物
- くさや:多くの日本人の認識では、代名詞的に当地を代表する特産物である。
- アシタバ(明日葉):八丈草(ハチジョウソウ)とも呼ばれる伊豆諸島原産のセリ科植物。当地の産物としてとりわけよく知られているものの一つである。
- 島寿司
- 島焼酎:狭義の「島焼酎」[注釈 1]。地域に特産の焼酎はこの名で呼ばれ、盛んに醸造されている。島ごとに特徴が異なることから国内を中心にファンも多い。
- 抗火石 - 新島など。
交通
航路
主として下記の港から各島へ東海汽船等の貨客船(水中翼船ボーイング929「ジェットフォイル」)による定期航路がある。季節などによっては臨時航路が設けられることがある。なお、青ヶ島の定期航路は伊豆諸島開発が運用する八丈島からの連絡船のみ。伊豆諸島航路には下田航路を運用するフェリーあぜりあを除きカーフェリーは存在しないため、車両の航送は貨物扱いでしか行えない。
航空路
- 八丈島には羽田空港との間を行き来できる空港があり、全日本空輸(ANA)便として運航している。以前は大島、三宅島と羽田空港を結ぶ便もANAによって運行されていたが、三宅島便は2014年3月31日をもって廃止され、新中央航空に移管された。大島便も2015年10月をもって廃止された。
- 大島、新島、神津島、三宅島には調布飛行場(東京都調布市)との間を行き来するコミューター航空の便が新中央航空によって運航されている。
- 東京愛らんどシャトルという青ヶ島 ⇔ 八丈島 ⇔ 御蔵島 ⇔ 三宅島 ⇔ 大島 ⇔ 利島と各島間を行き来するヘリコミューター(ヘリコプターによるコミューター航空)が東邦航空によって運航されている。ヘリコプターは毎朝八丈島空港から羽田空港へ向かう飛行機の第1便(ANA1892便)が出発した直後に八丈島空港から青ヶ島へ向けて飛び立ち、戻ってきた後に御蔵島へ向けて再出発する。その後、各島を上記のルートで運航し、夕方に御蔵島から八丈島へ戻ってくることで1日の運航を終える。このうち青ヶ島と御蔵島へは、悪天候で船便の欠航が続いている場合などの理由で村役場からの要請があった際に、当日の定期便の前後に臨時便を運航することがある。運賃は決して安くはないが、もともと空港が無い利島・御蔵島・青ヶ島にとっては船便以外の唯一の移動手段であり、特に東京との間の直行便が無く連絡船の就航率も非常に低いという理由から、八丈島〜青ヶ島間の渡航者にとっては貴重な存在となっている(利島も冬は船が欠航することが多い)。
島内交通
鉄道はなく、路線バスやタクシー、レンタカー、レンタサイクルが主な交通手段となる。路線バスがない島の場合は事前予約した宿泊施設に連絡をすれば港に送迎の車が手配される。
路線バス
脚注
注釈
- ^ 広義では、日本列島の島嶼部で造られる焼酎は全て「島焼酎」。狭義では伊豆諸島のものだけを指して言う。
出典
参考文献
- 柴正博「伊豆半島は南から来たか?」、(2016)、:Journal of Fossil Research, Vol.49(1):p.35-43.
- 内山りゅう他『決定版 日本の両生爬虫類』、(2002)、平凡社
関連項目
外部リンク
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