加藤 哲郎基本情報 |
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国籍 |
日本 |
---|
出身地 |
宮崎県宮崎市 |
---|
生年月日 |
(1964-04-12) 1964年4月12日(60歳) |
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身長 体重 |
185 cm 85 kg |
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選手情報 |
---|
投球・打席 |
右投右打 |
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ポジション |
投手 |
---|
プロ入り |
1982年 ドラフト1位 |
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初出場 |
1983年10月21日 |
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最終出場 |
1994年8月20日 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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|
|
加藤 哲郎(かとう てつろう、1964年4月12日 - )は、宮崎県宮崎郡佐土原町(現:宮崎市)出身の元プロ野球選手(投手)。日本プロ麻雀連盟所属のプロ雀士。
現役引退後は野球解説者・タレントを経て、実業家や麻雀講師として活動している。
来歴・人物
宮崎日大高では、エースとして1982年夏の甲子園県予選準決勝に進むが、延岡西高に1-0で惜敗。同年のプロ野球ドラフト会議にて近鉄バファローズから1位指名を受けて入団。契約金3700万円、年俸340万円、担当スカウト河西俊雄[1]。速球とフォークボール、権藤博から教わったチェンジアップ[2]を武器に1986年から徐々に頭角を現し、主にリリーフとしてチームに貢献した。
ペナント最終戦でチームが逆マジックをかけたものの敗れた1988年シーズンのいわゆる「10.19」では、延長10回裏から登板(イニングを3分以内に終わらせなければ引き分けで、事実上西武の優勝が確実となった場面での登板だった。詳細は10.19を参照)。2位オリックスとゲーム差なし、3位西武と0.5ゲーム差で熾烈な優勝争いを展開した1989年シーズンは、先発・中継ぎにフル回転。近鉄9年ぶりのリーグ優勝に貢献した。
1989年10月12日の西武とのダブルヘッダーに連勝した近鉄は、マジック1として10月14日の藤井寺球場での対福岡ダイエーホークス戦において先発した加藤は6回1/3を1失点で勝利投手となった。読売ジャイアンツとの日本シリーズでも3試合に登板するが、勝利投手となった第3戦での試合後のインタビューでの発言内容がクローズアップされ、話題となった(詳細は後述)。
1990年は右肩の故障で成績が低迷。
1991年に中継ぎで6勝無敗の成績を挙げたものの、その後再度右肩を痛めた。
1993年11月に近鉄を自由契約となり、入団テストを経て広島東洋カープへ移籍。広島ではサイドスローへ転向し、通算150試合登板を果たすも1年で戦力外通告を言い渡される。
1994年11月、福岡ダイエーホークスの入団テストを受け合格する。
1995年のシーズンは一軍登板がないまま戦力外通告を受け、現役を引退した。
1998年から2001年まで4年間朝日放送(ABCテレビ・ABCラジオ及びスカイ・A)専属野球解説者だったが、あまりに私情を挟んだ暴言が目立ったため、視聴者やスタッフからも煙たがられ契約解除された。一方、同時期にオフィス斬に所属し俳優としても活動し、その後は実業家として焼肉店「猛牛軍団」を展開していたが倒産[3]。TBS系『壮絶人生 俺たちはプロ野球選手だった』では、それまでの経緯に加え、当時、高級レストランで雇われ店長として接客などを熟している様子が放送された。
現在は大阪・天満橋にて麻雀教室を開いている[4][5]。
2023年8月27日放送の『麻雀最強戦2023 最強レジェンド決戦』予選A卓勝ち上がり後のインタビューにおいて、日本プロ麻雀連盟入りすることを公表し、1位通過した森山茂和会長からも「先日の理事会において承認された」旨の発言があり、プロ雀士となったことが認知された[6]。
「巨人はロッテより弱い」騒動
近鉄と巨人が対戦した1989年の日本シリーズで、加藤は10月24日の第3戦(東京ドーム)に近鉄の先発投手として登板。挙式を控えた婚約者も観戦する中、6回1/3を3安打無失点に抑え勝利投手となり[7]、近鉄は3連勝で日本一に王手をかけた[8]。
その試合後のヒーローインタビューで加藤が「別に、とりあえずフォアボールだけ出さなかったらね、まぁ、打たれそうな気ぃしなかったんで。ええ、たいしたことなかったですね。シーズンの方がよっぽどしんどかったですからね、相手も強いし」[9]と発言したことが、各種メディアにより「巨人は(シーズンで最下位だった)ロッテより弱い」という見出しで報じられた[10][11]。
加藤自身は、10月24日の試合後のダッグアウトで近鉄担当記者から「(巨人は)ロッテより弱いんちゃうの?」と振られ、「あれだけええピッチャーおったら(リーグ)優勝するで。でも打線はアカンなぁ」と答えたら、後半部分だけが「巨人はロッテより弱い」という話にすり替えられたと[12]、二宮清純との対談で主張している[13][14]。また、YouTubeチャンネルでの岡崎郁との対談では「当時のパ・リーグの打線はどこも凄かった。本塁打を打つバッターは嫌だけど、ジャイアンツ打線は本塁打があまり無いから組みやすい」という意味で言ったこと、当日の試合を自身の父親が観に来ており、インタビューを受けながら目で父親を探して、見つけて目でうなずいているので、VTRでは自分がキョロキョロしているように映っているとし、「はよインタビュー終わらへんかな」と思って集中力を欠いた状態でのインタビューの中での発言だったことを話している[15]。
第4戦から巨人が3連勝し両チーム3勝3敗となり、加藤は優勝のかかった10月29日の最終第7戦(藤井寺球場)に再び先発したが、2回表に駒田徳広に先制のソロ本塁打を打たれた。この時、駒田に「馬鹿!」と近鉄ベンチに向かって叫ばれる[16]など、3回1/3を投げて3失点で降板。近鉄は試合に敗れ、悲願の日本一を逃した。しかし、加藤は後に『お願い!ランキング』において駒田と対談した際、「あの馬鹿発言は聞こえておらず、VTRを見て気付いた」と駒田に述べており、「もし聞こえていたら次の打席で頭に死球を当てていたと思う」とも振り返っている。この発言には駒田も「もし聞こえたら(頭部に)ぶつけられるのも覚悟しようと思っていた」と発言している[17]。
近鉄球団は、球団50周年記念誌『感動の軌跡』で、加藤がロッテとの比較への言及については否定しているとし、「一選手の発言がシリーズを左右すると判断してはおかしい。(中略)それで勝負が決まるほど単純なものではないだろう」という見解を示している[18]。
後年、駒田はベースボール・マガジン社の取材に「勝負の世界ですから、何を言われても仕方がないでしょう。僕は、プロ野球はああいう発言もありだと思うんです」「(第7戦の「馬鹿!」発言は)第3戦の彼の発言のことを言ったのではなく、あくまで第7戦に限ってのことです。先制本塁打を打った勢いが言わせた部分もあったろうし、巨人ファンの勢いがそう言わせたのかもしれない」[19]と答えている。しかし、勝敗については「1人の選手の発言で勝敗がひっくり返るほど、プロ野球の世界は甘くないですよ」と前置きした上で、「ただ、あの第7戦に関しては、何か特別なものがあったと僕は思う。(中略)日本シリーズが終わってから先輩の岡崎さんが言った言葉です。巨人が3つ負けたのは、自分たちの力がなかったからだ。巨人が3連勝したのは、自分たちが頑張ったからだ。そして最後の1つは、胸のGIANTSの6文字が勝たせてくれた、と。(中略)巨人でプレーしていると、チームの影響力の大きさを実感することは案外と少ないんですが、この第7戦はそれを強く感じました。我々が加藤君の発言に怒る前に、世の中のファンが近鉄を萎縮させてしまった。言ってみれば、巨人というチームの影響力が彼らを萎縮させたんです[20]」としている。
チームメイトでエースだった阿波野秀幸は、加藤の「ロッテより弱い」騒動に関して、加藤の人物像にも関連づけて「(ロッテより弱いと発言したとされたことについて)そういうような(ニュアンスの)ことは言ってますよ。あまりにも調子に乗ったことを言ってるんで、だんだん「相手もあることだし、その辺にしとけ」という気持ちになったのを覚えてます」[21]、「普段から(自分が勝利投手になったときの相手を)『今日は手応えがなかった』とか言える男なんですよ」、「(あの発言は)普段どおり」、「(本人にとっては)特別挑発的なことを言ったわけではない」と振り返っている[22][23]。
新井宏昌は「加藤哲郎はヒーローインタビューで「シーズン中の方が相手も強く、きつかった」と率直な感想を口にしていたが、試合後の囲み取材を経て、加藤発言は「巨人はロッテより弱い」のビックマウスに変わっていた。自分としても「巨人ってこんなものなのか」とは感じていた。斎藤、桑田、槙原寛己の3本柱はピリッとせず、打線もつながりはなかった。加藤哲に言われても仕方ない内容だった。それでも、加藤発言が独り歩きして、巨人の闘志に火をつけ、逆に王手をかけてから近鉄には硬さが出た。イケイケ野球のもろさが3連勝4連敗という結果につながった。まさかの展開だった」[24]と述べている。
その後、代打出演した2024年11月3日配信のYouTubeチャンネル「佐野慈紀のピッカリーグ」にて、実は現役引退するまで巨人ファンだったことを告白している。近鉄時代の背番号30も、江川卓への憧れから同じ番号を付けていたとのことだったが、引退してしばらくの後に近鉄ファンになったという[25]。
詳細情報
年度別投手成績
年
度 |
球
団 |
登
板 |
先
発 |
完
投 |
完
封 |
無 四 球 |
勝
利 |
敗
戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝
率 |
打
者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬
遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴
投 |
ボ 丨 ク |
失
点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P
|
1983
|
近鉄
|
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
-- |
---- |
19 |
4.0 |
7 |
2 |
1 |
0 |
0 |
2 |
0 |
0 |
3 |
3 |
6.75 |
2.00
|
1984
|
1 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
-- |
.000 |
11 |
1.1 |
5 |
1 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
6 |
6 |
40.50 |
6.00
|
1986
|
23 |
5 |
0 |
0 |
0 |
0 |
4 |
0 |
-- |
.000 |
261 |
57.1 |
63 |
8 |
32 |
0 |
7 |
44 |
11 |
0 |
31 |
25 |
3.92 |
1.66
|
1987
|
38 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
-- |
.000 |
357 |
78.2 |
81 |
10 |
49 |
0 |
5 |
39 |
2 |
0 |
56 |
54 |
6.18 |
1.65
|
1988
|
31 |
6 |
0 |
0 |
0 |
3 |
3 |
1 |
-- |
.500 |
268 |
59.2 |
64 |
7 |
33 |
3 |
2 |
46 |
3 |
0 |
24 |
23 |
3.47 |
1.63
|
1989
|
24 |
13 |
2 |
1 |
0 |
7 |
2 |
1 |
-- |
.778 |
416 |
94.0 |
98 |
11 |
49 |
2 |
3 |
61 |
5 |
0 |
41 |
40 |
3.83 |
1.56
|
1990
|
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
-- |
---- |
13 |
3.0 |
1 |
0 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
1 |
3.00 |
1.33
|
1991
|
21 |
0 |
0 |
0 |
0 |
6 |
0 |
4 |
-- |
1.000 |
156 |
37.2 |
32 |
2 |
16 |
1 |
0 |
24 |
2 |
0 |
13 |
13 |
3.11 |
1.27
|
1992
|
4 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
-- |
---- |
44 |
9.0 |
14 |
0 |
1 |
0 |
2 |
4 |
0 |
0 |
9 |
8 |
8.00 |
1.67
|
1994
|
広島
|
7 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
-- |
1.000 |
43 |
9.2 |
11 |
3 |
4 |
0 |
0 |
6 |
0 |
0 |
8 |
8 |
7.45 |
1.55
|
通算:10年
|
151 |
25 |
2 |
1 |
0 |
17 |
12 |
6 |
-- |
.586 |
1588 |
354.1 |
376 |
44 |
191 |
6 |
19 |
226 |
23 |
0 |
192 |
181 |
4.60 |
1.59
|
記録
- 初登板:1983年10月21日、対阪急ブレーブス26回戦(藤井寺球場)、3回表より3番手で救援登板、4回3失点
- 初先発登板:1984年9月29日、対日本ハムファイターズ25回戦(藤井寺球場)、1回1/3を6失点で敗戦投手
- 初勝利・初先発勝利:1988年4月15日、対南海ホークス1回戦(大阪スタヂアム)、5回1失点
- 初セーブ:1988年9月18日、対日本ハムファイターズ24回戦(藤井寺球場)、6回1死より2番手で救援登板・完了、3回2/3を無失点
- 初完投:1989年5月31日、対西武ライオンズ7回戦(大阪スタヂアム)、9回1失点で敗戦投手
- 初完投勝利・初完封:1989年8月19日、対福岡ダイエーホークス21回戦(新大分球場)
背番号
- 30 (1983年 - 1993年)
- 22 (1994年)
- 56 (1995年)
関連情報
出演番組
野球解説者として
俳優・タレントとして
映画
テレビドラマ
バラエティ・その他の番組
脚注
関連項目
外部リンク
麻雀最強戦ファイナル出場(1回) |
---|
麻雀最強戦2019
開催日 |
大会名・出場資格 |
ファイナル出場 |
A卓出場者 |
B卓出場者
|
タイトルホルダー
|
現最強位
|
近藤誠一
|
前年優勝者及び所定のタイトルホルダーにはファイナル出場権が与えられた
|
鳳凰位 |
吉田直
|
最高位 |
坂本大志
|
雀王 |
堀慎吾
|
十段位 |
伊藤優孝
|
RTDトーナメント |
佐々木寿人
|
2019/2/23
|
女子プレミアトーナメント (4大会優勝者による決勝戦)
|
水口美香
|
与那城葵 |
桜川姫子 |
石田亜沙己 |
水口美香
|
都美 |
塚田美紀 |
岡田紗佳 |
小笠原奈央
|
2019/3/16
|
高宮まり |
佐月麻理子 |
水瀬夏海 |
高橋侑希
|
西嶋ゆかり |
池沢麻奈美 |
山脇千文美 |
米崎奈棋
|
2019/3/17
|
二階堂亜樹 |
宮内こずえ |
朝倉ゆかり |
大平亜季
|
二階堂瑠美 |
茅森早香 |
黒沢咲 |
手塚紗掬
|
2019/4/20
|
和泉由希子 |
豊後葵 |
丸山奏子 |
内田みこ
|
清水香織 |
大崎初音 |
矢神ゆの |
里中花奈
|
2019/5/18
|
男子プレミアトーナメント (4大会優勝者による決勝戦)
|
岩﨑真
|
荒正義 |
ともたけ雅晴 |
井出洋介 |
藤崎智
|
鈴木優 |
山井弘 |
内川幸太郎 |
滝沢和典
|
2019/5/26
|
井出康平 |
松ヶ瀬隆弥 |
山田独歩 |
松本吉弘
|
平賀聡彦 |
岩﨑真 |
浅井裕介 |
森下剛任
|
2019/6/23
|
朝倉康心 |
ZERO |
石川遼 |
齋藤豪
|
石橋伸洋 |
渋川難波 |
園田賢 |
蛯原朗
|
2019/6/30
|
古橋崇志 |
下石戟 |
山田学武 |
厚谷昇汰
|
HIRO柴田 |
大和 |
角谷ヨウスケ |
新谷翔平
|
2019/7/13
|
男子プロ代表決定戦 天使の吐息
|
金子正輝
|
前原雄大 |
村上淳 |
鈴木達也 |
金子正輝
|
森山茂和 |
馬場裕一 |
瀬戸熊直樹 |
萩原聖人
|
2019/7/21
|
サイバーエージェント杯 女流プロ代表決定戦
|
逢川恵夢
|
仲田加南 |
西嶋千春 |
逢川恵夢 |
日向藍子
|
渡辺洋香 |
魚谷侑未 |
愛内よしえ |
和久津晶
|
2019/8/25
|
男子プロ代表決定戦 悪魔の逆襲
|
白鳥翔
|
猿川真寿 |
佐々木寿人 |
多井隆晴 |
紺野真太郎
|
鈴木たろう |
白鳥翔 |
勝又健志 |
小林剛
|
2019/9/1
|
著名人代表決定戦 技
|
加藤哲郎
|
加藤哲郎 |
矢野優花 |
本郷奏多 |
モト冬樹
|
百田尚樹 |
じゃい |
加賀まりこ |
TAKUYA
|
2019/9/15
|
全日本プロ代表決定戦
|
仲林圭
|
稲毛千佳子 |
鈴木誠 |
箭内健次郎 |
古本和宏
|
中出雄介 |
太田昌樹 |
仲林圭 |
持留敏夫
|
2019/10/20
|
著名人代表決定戦 熱
|
鈴木大介
|
福本伸行 |
水崎綾女 |
鈴木大介 |
森川ジョージ
|
松本圭世 |
たかし |
金子昇 |
瀬川瑛子
|
2019/11/23
|
全国アマチュア最強位決定戦
|
小島レボリューション
|
各予選突破者15名に前年アマチュア最強位を加えた16名によるトップ取りトーナメント
|
2019/12/1
|
歴代最強位代表決定戦
|
藤田晋
|
長村大 |
片山まさゆき |
土田浩翔 |
沢崎誠
|
藤田晋 |
近藤千雄 |
金太賢 |
前田直哉
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
2019/12/14
|
|
2019/12/14
|
|
A卓
|
|
|
|
|
|
東
|
坂本大志
|
20,700
|
|
|
南
|
鈴木大介
|
33,600
|
|
|
西
|
逢川恵夢
|
16,500
|
|
|
|
北
|
小島レボリューション
|
29,200
|
|
|
|
|
|
B卓
|
|
|
東
|
加藤哲郎
|
17,100
|
|
|
南
|
佐々木寿人
|
-11,300
|
|
|
西
|
金子正輝
|
53,800
|
|
決勝
|
|
|
北
|
白鳥翔
|
40,400
|
東
|
金子正輝
|
24,100
|
|
|
|
南
|
鈴木大介
|
47,100
|
|
|
C卓
|
|
西
|
近藤誠一
|
11,500
|
|
|
東
|
仲林圭
|
25,400
|
北
|
堀慎吾
|
17,300
|
|
|
南
|
近藤誠一
|
29,900
|
|
|
西
|
伊藤優孝
|
22,000
|
|
|
|
北
|
水口美香
|
22,700
|
|
|
|
|
|
D卓
|
|
|
東
|
岩﨑真
|
6,700
|
|
|
南
|
吉田直
|
-3,100
|
|
|
西
|
堀慎吾
|
48,300
|
|
|
|
北
|
藤田晋
|
48,100
|
|
|