奥平 昌恭(おくだいら まさやす、1877年(明治10年)6月16日[1] - 1948年(昭和23年)5月4日[1][2])は、明治から昭和前期の実業家、政治家、華族。貴族院伯爵議員。位階および勲等は従二位・勲三等。幼名は九八郎[1]。旧中津藩主の家系。
経歴
東京府出身。伯爵・奥平昌邁の長男として生まれる[1][3]。父・昌邁の死去に伴い、1885年(明治18年)1月16日、家督を相続し伯爵を襲爵した[1][4]。
幼少より奥平家旧領の中津で学んでいたが、上京して学習院に入学[5]、後に京都帝国大学法科大学を修了[2][3]。1909年(明治42年)には欧米を漫遊する。
1911年(明治44年)7月10日、貴族院伯爵議員に選出され[2][6]、研究会に属して1932年(昭和7年)7月まで在任し[2]、さらに1946年(昭和21年)5月9日、補欠選挙で再選され[7][8]、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。また、官有財産調査会委員、国有財産調査会委員、臨時財政経済調査会臨時委員、極洋捕鯨監査役、飯野商事監査役、樺太鉄道会長、八千代生命社長、朝鮮銀行監事、国際日本協会長、交詢社常議員などを務めた[2][3]。
栄典
親族
- 妻 奥平禎子(よしこ、有馬頼萬長女)[1]
- 長男 奥平昌信(まさのぶ、1903年 - 1984年)
- 妾 篠崎遊賀
脚注
- ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成』上巻、371-372頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』25頁。
- ^ a b c 『人事興信録』第14版 上、オ246頁。
- ^ 『官報』第462号、明治18年1月17日。
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、500頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、19頁
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、56頁。
- ^ 『官報』第5815号、昭和21年6月5日。
- ^ 『官報』第2089号「叙任及辞令」1919年7月22日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 清光院の奥平家墓所に奥平分家之墓として葬られているが、令和4年に無縁墳墓に指定され、撤去される予定となっている。
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録』第14版 上、1943年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。