山下重威
山下 重威(やました しげたけ、男性、弘化4年2月10日[1](1847年3月26日)- 大正8年(1919年)10月18日[2])は、日本の政治家。衆議院議員。大阪市長。弁護士。勲等は勲四等[3]。 経歴土佐・高知藩の出身[注釈 1]。武市瑞山とは従兄弟。土佐藩藩校致道館教授役、同藩従事となる[2]。 明治維新後は大阪府取締小区長、同大区長を経て、代言人となり、弁護士となる[2]。 1888年(明治21年)2月に大阪府会議員補欠選挙に当選した[4]。1889年(明治22年)2月から1891年(明治24年)4月まで第9代副議長を務めた[5]。1895年(明治28年)2月に府会議員を退任した[4]。同年6月に東区選出の大阪市会議員となった[6]。1899年(明治32年)9月に再び、大阪府会議員となった[4]。同年10月から第14代議長を務めた[5]。1903年(明治36年)9月に府会議員を退任した[4]。1904年(明治37年)1月22日から同年5月31日まで、第19代大阪市会議長を務めた[7]。同月市会議員も退任した[6][注釈 2]。 1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙で大阪市選出の代議士に当選。 1905年(明治38年)7月20日に鶴原定吉が大阪市長を辞任し、12月11日に第3代大阪市長に就任する[8][9]。つまり、衆議院議員と市長を兼務することになった。 市長就任時は、日露戦争後の経済不況下の上、1909年(明治42年)には北の大火、それに関連する市吏員の汚職発覚、市制刷新運動などが続き、同年12月20日、引責辞任する[8][9]。 このほか大阪代言人組合副会長、破産管財人、大阪府教育会会長、1903年(明治36年)の第5回内国勧業博覧会評議員などを務めた[2]。墓所は大阪市設北霊園(長柄墓地)。 脚注注釈出典
参考文献
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