島倉二千六島倉 二千六(しまくら ふちむ[1]、1940年〈昭和15年〉[2][1][3][4]10月5日[5] - )は、日本の特撮映画の背景専門の絵描き。雲の表現に定評があり、雲の神様と称される[3][4]。立花隆の住居「猫ビル」に黒猫を描いた人物としても知られる[6]。別名・島倉仁[7]。新潟県[2][1]水原町出身[3]。 経歴幼少期より絵が得意で、中学のときに新潟県の展覧会に入選、以後、文部大臣賞、郵政大臣賞受賞[7]。中学校卒業後に看板屋で務めた後、兄の誘いで1957年に上京し独立プロへ入社[3]。1958年の映画『怒りの孤島』から背景美術に携わる[3]。1959年に映画『日本誕生』の現場を見学した際に特撮技術課長の末安昌美から誘いを受け[注釈 1]、1960年に東宝の契約社員となった[3][注釈 2]。当初は合成作画を担当し、『宇宙大戦争』(1959年)より鈴木福太郎の助手として背景美術を手掛ける[8]。1981年に東宝退社後もフリーで仕事を続け[7]、以後、60年近くに渡り映画・特撮テレビ番組・CMなどの背景を手がけている[2][4]。工房「アトリエ雲」を構え[9]、弟子に妹尾河童の息子・妹尾太郎(タローアート)などがいる[10]。 1992年に日本アカデミー賞協会特別賞、1996年にNHKスペシャル「生命」(1994年放送)にて国際エミー賞、2005年に文化庁映画功労賞、2008年に倉林誠一郎記念賞を受賞[7]。第50回『映画の日 永年功労賞』にも選出された[7]。2015年には内閣総理大臣賞(ものづくり日本大賞)を受賞した[4]。 1993年ごろから自身の作品制作を始め、各地で原画展、版画展も開催している[7]。 エピソード新潟時代に、美術教師を務めていた小林知己の父に師事していたことがあり、背景画家を目指して小林が上京した際に東宝の造型部へ紹介している[11][12]。 東宝を見学した際に最初に見たのは鈴木福太郎が描いた雲の絵で、島倉は写真と見間違えたという[8]。鈴木に師事していた時代は、雲は描かせてもらえなかったといい、島倉は鈴木の描き方を観察して技を盗んだと述べている[8]。ある時、鈴木が私用で休んだ際に代理で雲を描いたところ、円谷英二に褒められ自信を持ったという[8]。 円谷作品での青空は現実的ではない鮮やかなブルーであるが、これは遠近感を出すためにフォグを流すことでちょうどいい色合いになることを計算したものであった[2]。島倉によれば、この青空の塗料は自身が入る前から決まっていたものであるという[2]。 円谷作品では、富士山の絵を何度も描いたため、資料を見ずに裾野も描けるようになったという[8]。また、作品内容の都合から御殿場側から見た富士山の絵を描くことが多く、その後も富士山を描く際はそちら側から描いている[8]。 円谷とは、故郷が阿賀野川でつながる新潟と福島であったことから、郷里の話でよく盛り上がっていたという[8]。円谷の晩年には、円谷がよく登っていたという大山の絵を依頼され、枕元に描いた[8]。 主な作品映画テレビ
著書
脚注注釈出典
参考文献
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