広野台(ひろのだい)は、神奈川県座間市の町名。現行行政地名は広野台一丁目から広野台二丁目。住居表示実施済み区域[注釈 1]。
地理
神奈川県座間市の北部に位置し、一丁目北西部に1927年4月1日、小田急小田原線が開通、運行しているが最寄り駅はない。小田急相模原駅と相武台前駅の中間にあり、どちらの駅からも徒歩20分未満。
概略
旧地籍は、広野台一丁目が大字座間字元広野の大部分・元広野窪全域・南広野(ごく一部)、広野台二丁目が大字座間字元広野残り分・南広野(ごく一部)、大字座間入谷飛地の向長窪の西半分・東長久保・長久保・長久保中通である[5][6][7][8]。
歴史
広野(ひろの)[注釈 2]と呼ばれたこの地域は、芝原(しばあら)[注釈 3]の一部で相模が丘同様、関東ローム層と言う火山灰土の不毛な土壌、その上、地下の水脈が約25mと深く農地に適さないので原野のままになっており、キツネやウサギが住み着く徳川将軍の鷹狩の一部に過ぎなかった。この原野には屋根を葺く萱、燃料になる雑木や葉、牛馬の飼料となる雑草、農作物の堆肥となる雑草や落葉が豊富なので、江戸時代元禄年間には芝原一帯が座間野の区域になり、座間宿村・座間入谷村の入会地とされた[注釈 4]。江戸末期になって開墾が始まり、台地で平坦な相模が丘や小松原、相模原市南区相模台・新磯野、そして広野台一丁目の元広野は広い面積の農地となったが、同じ広野台一丁目の元広野窪は目久尻川が流れ窪地・谷・崖・坂が多く農地になった面積は他の区域より小さかった[注釈 5][注釈 6][注釈 7][9]。
戦前・戦中・戦後にかけて、幸い広野台・相模が丘は軍用地の買収を免れて畑の耕作は従来通り続けられた[10]。
敗戦後、東久邇宮首相の「国民皆農主義」の呼びかけもあって、皆が先を争って農業へと回帰することが時代の風潮となった。急ごしらえの「帰農組合」[注釈 8]が日本各地で作られ、耕せるところはどこでも耕そうと、耕作地の拡大に積極的に取り組んだ[注釈 9]。その政策に基づき農業集落として広野台は、緑ヶ丘の一部とともに「相武台」とされた[11][12][13]。
1950年代まで[14]、広野台二丁目南部[15]、物流センター一帯の座間入谷飛地は座間入谷の人々が、二丁目イオンモール座間・工業専用地域~一丁目座間街道相武台団地入口交差点辺りまでの台地のところは座間の人々が各本村から毎日通いで耕作した。不毛な土壌で干害を受けやすかったが、桑栽培には適地であったので主に桑園として利用され、大麦・小麦・甘藷・陸稲・大根なども作られた[16][注釈 10][注釈 11]。
古くから、厚木から武蔵国国府が置かれていた府中に通じる府中道(行幸道路)、大山道と神奈川往還(国道16号旧道)が交差する下鶴間宿へ通ずる鶴間街道[注釈 12]、遠くは日本橋へ通ずる江戸街道[注釈 13]、これらの街道が通っていたが、上述のとおり地形が悪く開墾可能な面積も他の地域より小さく、小田急相模原駅周辺の中和田新開や隣接する小松原新開のように移住して開拓する者はなく、専ら座間や座間入谷の人々が芝原へ耕作に通う往来通過の地にすぎず、集落は往古から形成されなかった。従って寺社・祠は存在しない。1957年から座間町は企業誘致を行い、1960年頃から工場が進出、荒地・畑・雑木林が混在した状態が1970年代はじめ頃まで続いた。
1955年に町営水道が給水開始。1956年には行幸道路沿い元広野窪上小池坂[注釈 14]にキャンプ座間在勤者専用住宅「座間コート(Zama Court)」が竣工[17]。広野台に初めて住戸が完成し人が住み始めた。同じ頃、相武台団地入口交差点、村富線を渡った信号角地相模が丘一丁目、中古自動車販売店になっているところに実業家小佐野賢治創業の国際興業が経営する米軍大型バスの洗車場が完成。ダイエー相武台店になっている位置には、座間町の企業誘致により1961年、無線通信機の工場が進出[注釈 15]。その後、工場は移転。跡地は1960年代後半のボウリングブーム到来により、1970年に相武台ボールダイヤモンドレーン(通称・相武台ボウル)が開店[注釈 16]。しかし第一次オイルショックやレジャーが多様化しボウリングブームは数年で終焉し役目を終え、その後1975年9月21日、スーパーマーケット忠実屋相武台店開店→1980年12月にディスカウントストア・サンエム1号店の相武台店が開店した。
1962年4月1日に創立し座間中学校体育館に間借りしていた、座間第三小学校が同年11月19日元広野に本館完成し移転、全児童入校式を挙行。11月25日には竣工式と第1回大運動会を開催し、同日を開校記念日とした[18]。1966年4月4日には座間第三小学校近くの座間街道に、児童が安全に登下校できるよう座間町内初の歩道橋である相武台歩道橋が竣工[19]。座間第三小学校は、中和田新開[20]の座間市域である相模台地区、相武台地区の学童を持つ父兄と自治会の新校設立陳情から開校まで4年の歳月を要した。それまで児童は、座間第一小学校まで相模台から片道4.7キロ、相武台から片道2.3キロの道のりを徒歩で通学していた[21]。
1961年、近隣の相模原市新磯野にて神奈川県住宅供給公社が相武台団地建設予定地の土地買収を完了、翌年用地造成工事が開始[注釈 17][22]。同じ頃、行幸道路と座間街道が接続する周辺[注釈 18][23]に住戸が点在・散在しはじめる。
1969年3月31日、神奈川県と座間市主体【都市計画道路 3・3・2 号 広野大塚線】新設[注釈 19]の都市計画が決定[24]。1960年代に入り、広野台一丁目旧元広野に日産自動車座間工場進出、隣接する相模が丘[25]や、近隣の旧新磯野であった相武台団地・相模原市南区相模台、そして大和市中央林間西が宅地市街地化され急速に発展していくなかで、広野台一丁目とりわけ旧元広野窪の小田急線南側[26]が他の地域より開発開始・宅地市街地化が著しく遅く停滞した。地形[27]・交通不便[28]が理由であるとともに、上記の区域が新設道路起点になったことも起因している[29]。未着手だが2024年12月13日現在もこの都市計画は存続中である[30]。
1974年11月1日、座間市は当該地域の各大字小字を統合し広野台1丁目・2丁目を新設*広野台が大字、1丁目・2丁目が小字の字丁目方式[注釈 20]。
1999年9月13日には住居表示を実施、大字広野台を町丁に改編し広野台一丁目・広野台二丁目となる。
年表
- 江戸時代
- 明治時代
- 昭和(戦前・戦中)
- 1927年4月1日 - 小田原急行鉄道小田原線開通。座間駅(現・相武台前駅)開業。
- 1937年
- 1938年6月1日 - 小田原急行鉄道がバス事業営業開始。士官学校前駅(相武台前駅)⇔南林間都市駅(南林間駅)間[46]。
- 1939年
- 11月28日 - 士官学校前駅踏切前起点(高座郡座間町大字座間字大坂台4515番地) ⇔ 江戸街道 ⇔ 小池窪 ⇔ 鶴間街道 ⇔ 下鶴間(旧国道16号・高座郡大和村大字下鶴間字乙三号2137番地)の道路、県道座間下鶴間線と認定される(路線認定告示で用いられる整理番号142)[注釈 32][47]。
- 12月22日 - 九カ町村で「相模原軍都建設連絡委員会」結成。第1回総会は神奈川県庁3階の第2会議室で開かれた。『相模原市史第4巻』633頁●軍都計画と八か町村の合併[注釈 33]。
- 1941年
- 1945年
- 8月10日 - 天皇の国法上の地位存続のみを条件とする外務大臣案(原案)を昭和天皇が採用し、ポツダム宣言を受諾[51][52]。
- 8月14日 - 日本政府は本宣言の受諾を駐スイスおよびスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告[53]、終戦の詔書発布。
- 8月15日 - 正午、日本政府は宣言の受諾と降伏決定をラジオ放送による昭和天皇の肉声を通して国民に発表(玉音放送)[注釈 37]。
- 8月16日 - 午後4時には大陸命第1382号にて大日本帝国陸軍に対して、停戦交渉成立に至る間やむをえざる自衛のための戦闘行動を除いて「即時の戦闘停止」を命令された[54]。海軍に出された大海令48号もほぼ同内容である。1382号では具体的な停戦期限は記載されていなかったが、日本側から連合国側に通告した「日本政府・大本営発、連合国最高司令官宛電一号」では「二、右大命ガ第一線ニ到達シ実効ヲ挙グル日時ハ左ノ如ク予見ス」として「内地 四十八時間」としていた。つまり、48時間後の18日16時を完全な停戦成立完了時になるとみていた。なお、南樺太では、札幌にいた第5方面軍の樋口中将から南樺太死守命令が出されたが、その際、この自衛戦闘を理由にソ連軍進攻に対し、戦闘が継続された。
- 8月28日 - ようやく停戦から2週間後の28日に連合国軍による日本占領部隊の第一弾として、チャールズ・テンチ大佐率いる45機のカーチスC-47からなるアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。同基地を占領した。なお、全面戦争において首都の陥落がないままで、また停戦から首都占領まで2週間も時間がかかったのは、近代戦争のみならず史上でも初めてのことであった。また、同日東京の大森にある連合軍の捕虜収容所に、アメリカ海軍の軽巡洋艦「サンフアン」から上陸用舟艇が手配され、病院船「ビネボレンス」に、イギリス軍やアメリカ軍の病人や怪我人などを収容していった[55]。
- 8月30日 - 30日午前、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の総司令官として、連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も、専用機「バターン号」でフィリピンから厚木基地に到着した。一行は午後に日本軍が用意した専用車で横浜市内のホテルニューグランドに移り、宿を取った。続いてイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍、カナダ軍の占領軍と、中華民国軍、フランス軍、オランダ軍、ソ連軍などの他の連合国軍の代表団も到着した[56]。
- 9月2日 - 日本国政府が降伏文書に調印、大東亜戦争・第二次世界大戦終結(日本国の敗戦)。連合国軍占領下により日本国の主権が停止[57]。
- 昭和(戦後)
- 平成
大字小字・飛地の整理に関して追記
日産自動車座間事業所内第二・第三地区は、行政地名として「座間入谷」「栗原」の大字が実存している[75][76]。日産自動車座間事業所は事業所登録所在地を「座間市広野台二丁目10番1号」としているが、すでにその住居表示の土地は、イオンモール座間・物流センターほかに売却されている。日産神奈川販売株式会社カレスト座間店の所在地は座間市広野台二丁目10番3号となっている。
世帯数と人口
2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 |
世帯数 |
人口
|
広野台一丁目
|
1,366世帯
|
2,949人
|
広野台二丁目
|
0世帯
|
0人
|
計
|
1,366世帯
|
2,949人
|
人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)[83]。
事業所
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は、以下の通りである[84]。
丁目 |
事業所数 |
従業員数
|
広野台一丁目
|
78事業所
|
897人
|
広野台二丁目
|
220事業所
|
8,859人
|
計
|
298事業所
|
9,756人
|
事業者数の変遷
経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷
経済センサスによる従業員数の推移。
交通
鉄道
一丁目北部に1927年、小田急小田原線が敷設され運行しているが、町内に鉄道駅はない。
乗り合いバス
廃止路線
道路
施設
その他
日本郵便
参考文献
- 『座間市史第4巻』
- 『座間の地名』執筆・編集 座間市文化財調査員協議会 平成17年3月31日・座間市教育委員会発行
- 『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』発行:昭和61年
- 『座間むかしむかし第1集』発行:昭和32年10月15日 発行者:座間町教育委員会
- 『座間むかしむかし第3集』発行:昭和49年5月20日 発行者:座間市教育委員会
- 『座間むかしむかし第6集』発行:昭和57年1月16日 発行者:座間市教育委員会
- 『座間むかしむかし第25集』発行:平成15年3月28日 発行者:座間市教育委員会
- 『相模野小学校五十周年記念誌』発行者:相模野小学校創立50周年記念事業実行委員会 発行日:平成23年11月25日
- 『広報ざま縮刷版 第1巻』
- 『広報ざま縮刷版 第2巻』
- 『相模原市史第2巻』発行者:相模原市長 河津 勝 発行日:昭和42年3月
- 『相模原市史第4巻』発行者:相模原市長 河津 勝 発行日:昭和46年3月18日
- 『郷土史としての相武台陸軍士官学校』涌田佑/著 平成18年11月1日発行
- 『鶴間新町のルーツを探る座談会』大和市市史編さん事務局
- 『相模原津久井・町田の電信電話史』相武電鉄上溝浅間森車庫付属資料館 平成31年3月10日発行
脚注
注釈
- ^ 不動産登記法に基づく地番整理は実施せず。
- ^ 「小池窪」(現・座間市相武台二丁目)東方に広がる台地で辰街道までを言う。芝原の一部で「広野」は明治初年につけられた地名である。昭和3年刊行の土地宝典には東半分の北から「北広野」「中広野」「南広野」(以上相模が丘一丁目~四丁目)、西半分の北から「元広野久保」「元広野」(広野台一丁目)以上の小字がある。『座間の地名』89頁
- ^ 狭義には、座間村で古くから入会野としていた相模が丘・広野台・相模原市南区相模台を、広義には座間野九ヵ村(磯部村・新戸村・座間宿村・座間入谷村・栗原村・大谷村・小園村【今里村の説もあり】・四ツ谷村・新田宿村)の入会地を「芝原」と言う。『座間の地名』15頁、『座間むかしむかし第3集』字名の起こり4頁
- ^ 広野台の元広野・元広野窪、相模が丘一丁目~四丁目(北広野・中広野・南広野)は元禄年間に座間宿村分とされた。『座間の地名』89頁
- ^ 江戸末期の嘉永6年(1853年)芝原(しばあら)の開墾が始まり、文久3年(1863年)頃から明治10年(1877年)までの間に地割が完成し、座間村・座間入谷村の各戸に平等に分割され耕作が始まった。栗原分の開墾は慶応4年(1868年)に始まった。『座間の語り伝え 村制編1・村の起こり』60頁・61頁、『座間の地名』18頁、『座間むかしむかし第1集』18頁 芝原の開墾、『座間むかしむかし第3集』4頁 字名のおこり、『座間むかしむかし第3集』17頁~19頁 相模台の昔、『座間むかしむかし第3集』巻末 座間市略年表
- ^ 目久尻川源流について、通説では大字栗原字小池谷鎮座の白髪弁財天社(小池の弁天様)境内池湧水となっているが実際は更に上流であり、小田急線、行幸道路上小池坂を跨ぎ座間市相武台一丁目と広野台の境界道を進んだ相模原市南区相武台三丁目と相模原市立相武台小学校下の遊水地付近である。相武台病院北側の広野台よりに排水溝があり、かつては臨時東京第三陸軍病院からの排水が目久尻川最上流に流れ込んでいたが、その周囲は窪地の湿地帯で湧水もあり「ホタル」が飛ぶ美しい光景であった。『座間むかしむかし第25集』18頁
- ^ 行幸道路の新磯野入口信号から相武台団地入口交差点までの緩やかな上小池坂。江戸街道小池窪の坂など坂が多い。
- ^ ここで言う「帰農」は、戦後、軍属を解かれた者、退役軍人や復員除隊した者、陸軍士官学校の陸士生、外地からの引揚者が農業へ回帰することを言う。
- ^ 『麻溝台地区の生い立ち』83頁 発行日:平成22年4月1日 発行:麻溝台地区郷土誌編纂委員会
- ^ 座間の翁が青年時代、広野台の一番高い所である行政道路(座間街道)相武台跨線橋で詠んだ句「麦青し見えるところに牛つなぐ」『座間むかしむかし第25集』 戦前から戦後のまちの様子 3小田急線開通当時から戦後までの相武台 19頁
- ^ 1957年に座間町は企業誘致を積極的に開始し、隣接する台地の大字座間字中原(現・座間市相武台二丁目)・上中原(現・座間市相武台一丁目小田急線跨いで相武台二丁目)に同年東洋ナイロンカラーファスナー(カラーファスナー株式会社)、1961年に東京コスモス電機、1962年1月に東京測範が進出した。座間町の企業誘致はその後も継続され、元広野から座間入谷飛地・栗原・東原にかけて、1964年12月に日産自動車座間工場などが進出。周辺は都市計画法による工業専用地域・準工業地域となる。
- ^ 相模野小学校下、江戸街道の小池窪から座間街道イオンモール座間へ向かい、下鶴間宿で大山道(矢倉沢往還)と八王子道(滝山道)に合流した。
- ^ 相武台前駅踏切を渡り相模が丘に向かう道。相模野小学校下、元広野と元広野窪の境界道である小池窪の坂を直進し農道(現・座間街道)を渡り、相模が丘中部(三丁目と四丁目の境界道路・五丁目と六丁目の境界道路)を縦貫し、東海大学付属相模高等学校・中等部と相模カンツリー倶楽部の間の道を通り八王子道(滝山道)を渡り、大和市下鶴間公所(ぐぞ)、鶴間村町谷原(町田市南町田の町田街道の町谷原交差点)、小川村を経て、長津田宿で大山街道(矢倉沢往還)に合流し江戸三宅坂へ向かい日本橋に通ずる道。『座間むかしむかし第25集』 相模が丘(芝原)の移り変わり 3街道の移り変わり 5頁~6頁
- ^ 行幸道路の新磯野入口信号から相武台団地入口交差点までの緩やかな坂。
- ^ 電通精機㈱ 座間町大字座間字元広野窪5117番地の1 昭和36年4月30日 農地法許可。本社:東京都世田谷区経堂町797番地。※原文ママ。昭和39年3月31日会社更生手続。その後、同一経営者、昭和43年5月8日新会社設立、工場移転。 『座間市史第4巻』575頁
- ^ 同年、日産自動車座間工場正門近くには座間ボウルが開店。
- ^ 『郷土史としての相武台陸軍士官学校』涌田佑/著 平成18年11月1日発行●六章:米軍接収と練兵場開拓ー相武台下開拓農業組合ー87頁には「公社から相武台団地土地買収の申し込みがあったのは昭和36年、建設が始まったのは昭和37年」と記してある。1962年に用地造成工事開始の後、団地建設工事の着工は1964年7月。
- ^ 村富線はまだなかった。その後、昭和51年3月30日 神奈川県告示第247号により県道と認定される。認定による整理番号139。
- ^ 幅員22m・国道246号大和厚木バイパスと同じ幅員
- ^ 住居表示を同時実施せず、字丁目とした。『広報ざま』第37号 昭和49年11月1日発行4頁に「小松原・広野台の字名を変更、広野台は広野台1丁目・2丁目、小松原は小松原1丁目・2丁目と字名が変わります~中略~なお、地番については現在の地番をそのまま使用しますからみなさんのご協力をお願いします。※原文ママ」と記述あり。
- ^ 相模野は全体で2000町歩(約2000ヘクタール)の広さを有しているが、この地は関東ローム層という火山灰土で地味も悪く、その上、地下の水脈が約25mと深く農地に適さないので原野のままになっていた。しかしこの原野には屋根を葺く茅・燃料になる雑木や葉・牛馬の飼料になる雑草・農作物の堆肥となる雑草や落葉などが豊富なので、周辺の村々は入会野として利用した。座間村でも古くから相模野の内、相模が丘・広野台・相模原市南区相模台などを入会野としていた。『座間の地名』15頁
- ^ 慶安2年(1649年)4月幕府が裁定を下し①北の境※は百八ツの供養塚を潰し百六の塚とし、南の境は水郷(みずのごう・大和斎場付近)とした。※上鶴間村中和田(相模原市南区南台五丁目)・新戸村(南区相模台二丁目)・座間村(座間市相模が丘一丁目)の境界点、辰街道と府中道旧道が交差する所。『座間むかしむかし第6集』15頁~23頁 夏草騒動・『相模原市史第2巻』第2章第2節 秣場争い238頁・『相模原市史第2巻』 慶安3年(1650年)8月25日付 中和田・座間秣場争い裁許の図・『東林間開発百年のあゆみ』 昭和62年11月3日発行 71頁 五・相模野の秣場争い◇二・地域の風土・歴史。②今まで分かりにくかった境界に幅3.6mの道路(都市計画道路相模原二ツ塚線 通称・東海相模通り)を造り、辰街道と境界道路(東海相模通り)を結ぶ接点に目印として(東海大学付属相模高等学校・中等部の西側、扇の要にあたるところ)検(見)分塚(高さ2~3mの塚)を築いた。③座間側の主張である徳川家康入国当時の境界線を認めた。以上『座間の地名』15頁・16頁。
- ^ 前年の正保3年(1646年)にも座間村と上鶴間村中和田地域とで境界争いが紛糾した。『相模原市史第2巻』第2章第2節 秣場争い238頁・『座間の地名』 執筆・編集 座間市文化財調査員協議会 平成17年3月31日・座間市教育委員会発行 15頁・『東林間開発百年のあゆみ』 昭和62年11月3日発行 71頁 五・相模野の秣場争い◇二・地域の風土・歴史
- ^ 分村の際、境域については元は一つの村であったので<田畑・山林等犬牙錯雑して区別すべからず>と達しがあり、入り組んだものが後世に残ることになった。『座間の地名』38頁
- ^ 中和田野(上鶴間村中和田持)、谷口野(上鶴間村谷口持)、宇野森野(鵜野森村持)、木曽野(淵野辺村・武蔵国多摩郡木曽村・武蔵国多摩郡根岸村三ヵ村入会)、矢部野(上矢部村・上矢部新田村二ヵ村入会)、九沢野(小山村・橋本村・上相原村・下九沢村・上九沢村・大島村・田名村・津久井郡上川尻村・津久井郡下川尻村九ヵ村入会)、溝野(上溝村・下溝村・当麻村三ヵ村入会)、座間野(磯部村・新戸村・座間宿村・座間入谷村・栗原村・大谷村・小園村【今里村の説もあり】・四ツ谷村・新田宿村九ヵ村入会)、柏谷野(柏ヶ谷村・深見村・深見新田・草柳村・栗原村内小池地区)、鶴間野(下鶴間村・公所村)の10区画。『座間の地名』16頁・『相模原市史第2巻』第2章第2節 相模野の入会とその開発229頁
- ^ 座間野は新戸村・磯部村・座間宿村・座間入谷村・新田宿村・四ツ谷村・栗原村・大谷村・小園村【今里村の説もあり】の9ケ村の入会野で、その野元権は座間宿村と座間入谷村が持っていた。『座間の地名16頁』
- ^ 広野台の元広野・元広野窪、相模が丘の一丁目~四丁目(北広野・中広野・南広野)は元禄年間に座間宿村分とされた。『座間の地名』89頁
- ^ 座間宿村・座間入谷村・新田宿村・四ツ谷村・栗原村・磯部村・新戸村に分割した。
- ^ 栗原分の開墾は慶応4年(1868年)に始まった。『座間の語り伝え7村制編1村の起こり 』 60頁・61頁、『座間の地名』18頁
- ^ 座間宿村は1868年に座間村になった。『座間の地名』18頁
- ^ 座間市明王 『座間の地名』68頁
- ^ 旧道路法からの引継路線(神奈川県)昭和28年2月10日。告示第54号
- ^ 大野村、新磯村、上溝町、麻溝村、大沢村、田名村、相原村、座間町、大和村の九カ町村
- ^ 『相模原市史第4巻』655頁には7,608人と記述あり。
- ^ 大和村が相模原軍都建設連絡委員会を1941年2月21日離脱。引用元:『相模原市史第4巻 ●軍都計画と八か町村の合併/原町田の合併問題/相模原軍都計画誕生』642頁
- ^ 『相模原市史第4巻』650頁には「昭和16年4月29日天長節の佳日、二町六か村は合併し、ここに面積108.71平方キロメートル、人口45,482人の町としては日本最大の相模原町が誕生した。※原文ママ」の記述あり。
- ^ 日本の全国民と全軍にポツダム宣言受諾と日本の敗戦を表明し、この時点で一部地域を除き、ほぼ全ての日本軍の戦闘行為が停止された。『大日本帝国の興亡5』ジョン・トーランド著 早川書房 pp.277-278
- ^ 『郷土史としての相武台陸軍士官学校』涌田佑/著 平成18年11月1日発行82頁【米駐留軍の陸士接収】には「昭和20年9月5日、米陸軍第一騎兵師団第四平站廠として米軍進駐」とある。
- ^ 『鶴間新町のルーツを探る座談会22頁「行政道路(座間街道)の工事」大和市市史編さん事務局』・『座間市史第4巻』 272頁基地の町の実情・501頁米軍移駐にともなう交通対策につき陳情・『座間の語り伝え7村制編1村の起こり』69頁
- ^ 相模原町は残りの区域で、1954年11月20日に市制施行し人口約8万人の相模原市が発足した。
- ^ 日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が発効し、第二次世界大戦終結(日本の降伏)の1945年(昭和20年)9月2日以降、連合国軍占領下により停止状態にあった日本の主権が回復した日付に基づく。
- ^ 路線認定告示で用いられる整理番号38。
- ^ 『座間広報』第66号 昭和35年7月20日発行8頁「工場設置の状況」に記述あり。
- ^ 『座間広報』第64号 昭和34年7月15日発行1頁に「大字相模台の設置~従来とかく相模台の新田宿と新田宿が間違れ迷惑する事が多かったのでこれを除くため芝原の行政道路(鶴間行)以北を相模台とし、小字は北広野・中広野・南広野とした。」と記述あり。※原文ママ
- ^ 『座間広報』第77号昭和39年3月31日発行1頁
- ^ 『座間広報』第77号昭和39年3月31日発行1頁
- ^ 『座間広報』第77号昭和39年3月31日発行1頁
- ^ 座間町(相模台の町田電報電話局管内・栗原の厚木電報電話局管内を除く)、相模原市新戸全域、磯部・新磯野の大部分。同時に、座間町内の町田局・大和局に収容されていた165回線を座間局に振替収容した。※1965年5月30日当時 『相模原津久井・町田の電信電話史』56頁・139頁。『座間広報』第82号 昭和40年5月20日発行3頁
- ^ 例①旧表記・座間xx番→新表記・0462-51-00xx、例②旧表記・座間xxx番→新表記・0462-51-0xxx、例③旧表記・座間1xxx番→新表記・0462-51-1xxx。
- ^ 住所:相模原市新磯野1402番地。募集戸数:680戸。募集時期:昭和42年4月20日頃迄。入居時期:昭和42年5月、7月、10月、11月。横浜市中区にある神奈川県住宅供給公社の電話番号、市外局番は045、市内局番がまだ2桁である(横浜市内局番3桁化開始は昭和42年3月12日、完了は同年8月20日である。例・20局→201局)。
- ^ 1972年4月栗原駐在所と共に、相模台派出所・栗原派出所に昇格。『座間広報』第5号 昭和47年3月1日発行1頁
- ^ 住居表示を同時実施せず、字丁目とした。『広報ざま』第37号 昭和49年11月1日発行4頁に「小松原・広野台の字名を変更、広野台は広野台1丁目・2丁目、小松原は小松原1丁目・2丁目と字名が変わります~中略~なお、地番については現在の地番をそのまま使用しますからみなさんのご協力をお願いします。」(※原文ママ)と記述あり。広野台が大字・1丁目が小字の「字丁目」方式。
- ^ 不動産登記法に基づく地番整理(地番の付け直し)は実施せず。
出典
関連項目